車輪の音

Gacy

車輪の音

 最寄駅から新宿までの約二十分間,見知らぬ人たちの体温を感じながらどこかへ持って行かれてしまいそうな鞄を抱き寄せて耐えるのが毎朝の日課だ。


 既に六年目を迎えるこの日課で,私の身体は随分と丈夫になったと思う。昔と違い,電車の中で理不尽に押し潰されそうになっても押し返すくらいのことはできるようになった。


 高校生の頃は,自分が満員電車に乗るなんて想像すらしていなかった。大学生になってからも常にガラガラの電車に乗っていた。以前からずっと,意図的に混雑する時間を避けて行動していた。


 学生の頃は電車の車輪があげる悲鳴のような甲高かんだかい音が苦手だった。鉄と鉄がぶつかるような音を聴くだけで,いつも心がざわついた。


 それが今では朝も晩も身動きのとれない,驚くほど自由のない満員電車に詰め込まれ,新宿と最寄駅を行ったり来たりする毎日を送っている。車輪の音にも反応しなくなった。


 週末になると泥のように眠り,着替えることもせず,誰にも会わず,外出することなく月曜日の朝を迎える。気が付いたら一言も発していない週末があるくらいだ。


 それにしても,私はいつからこんな人間になったのだろう。


 少なくとも学生の頃はもう少し社交性もあった。友達もいたし,恋人と呼べる相手もいた。


 家族とはこの日課がスタートしてから会っていない。両親からの連絡は頻繁にあるが,それもスマホの画面上でよくわからないキャラクターが楽しそうに手を振っているスタンプのやり取りが中心だ。


 両親とは同じ町に住んではいるが,私が一人暮らしを始めてからは仕事を理由に実家には帰っていない。


 正月もお盆も,毎回友人と旅行に行くと嘘をついた。何故,両親を,実家を避けているのかは自分でもわからないが,社会人になってからは特に両親の顔を見るたびに不安になった。


 このまま齢をとっていくのかと思うと,鏡に写るまだ若い自分の姿を可哀想に思った。


 繁忙期を迎え,毎日の帰りの電車が限りなく終電に近くなっていった。政府が推し進める「働き方改革」とやらのおかげで週末こそ休めるのだが,その分のしわ寄せが平日の残業となって重くのしかかった。定時を過ぎてからが本当の業務時間なんじゃないかと思える毎日だった。


 電車の窓に写る自分の姿がガラスの歪みとは関係なく,ひどく醜く歪んでいた。眼の下には気持ち悪いほどクッキリしたクマが見え,可愛げのない疲れ切ったパンダのように見えた。


 電車に揺られながら,マンションや住宅のあかりをぼんやりと眺めた。車窓から見えるさまざまな光がチカチカと点滅するように目の前で現れては消え,自分が乗っている電車がどこへ向かっているのかも一瞬わらなくなるほど眼の奥で激しい光となって視界を真っ白にした。


 残業が続き,体力の限界が近づくと現れる症状だった。初めての時は驚き,不安になって病院にも行った。しかし何種類かの薬を処方されただけで,繁忙期が終わると症状も現れなくなった。



『今回は大丈夫かと思ってたんだけどなぁ……』



 きつく目を閉じ,しっかりと吊革を握り締め,背中に流れる汗を感じながらまぶたの裏で点滅する光に飲み込まれないように歯を喰いしばった。



『なんのために働いているのだろう……なんのために生きているのかわからない……これから先,ずっとこの繰り返しなのだろうか……』



 目を閉じ,歯を喰いしばりながら,電車が揺れるたびに点滅する光が速くなっていくのを感じた。



『死ぬまで,こんな生活なのだろうか……誰とも関わることなく……このまま齢をとっていくのだろうか……』



 電車が停まり,大勢の人達が電車から吐き出されるように降りて行くと,突然視界が開け,外の空気を肺がいっぱいになるくらい大きく吸い込んだ。



『まだか……』



 自分が降りる駅は,もう少し先だった。


 車内は人がいなくなり,まばらに空いた座席に腰を降ろした。鞄を抱き締めるようにして身体を小さく丸め,目を閉じて電車の車輪の音を聴きながら唇を噛み締めた。



『いつまでこんな生活なんだろう……。毎日毎日毎日毎日……電車に乗って職場でPCのモニタを見続け……また電車に乗る……。毎日毎日,同じことの繰り返し……』



 共働きの両親が実際に働く姿を見たことはないが,今の私と同じように頑張っているのだろうか。子供を育てるために,自分達の趣味や楽しみをすべて捨て,子供のために毎日満員電車に揺られ定年までずっと頑張るのだろうか。


 現役で働いている両親を凄いと感じ,どうして両親はこんな生活に耐えられるのだろうかと不思議な気持ちになった。



『お父さんは,ずっとこんな生活を送りながら子供を……家族を……養っているのだろうか……』



 痛いほど強く,跡が残るほど顔を押し付けている鞄の隙間に涙が流れた。


 さらに唇を強く噛み締め,これ以上涙が出ないように必死に堪えた。



『いつから……いつまで……こんな毎日を過ごすんだろう……』



 鞄に爪が喰い込み,指先に力が入った。


 人の少なくなった電車の揺れは,私の心を痛いほど不安にさせた。


 ふっと,学生時代に大好きだった人のことを思い出した。


 思い出したというより,なにか楽しかったことを考えて気持ちを紛らわせようと学生時代の出来事を無理矢理絞り出した。


 あの時はその人を見かけるだけで近くにいる人たちに聴こえてしまうんじゃないかと思うほど胸が高鳴り,その人を追いかける視線が自分でもどうしようもできなくて友人に指摘されて恥ずかしい思いをした。


 当時は,その人が私が知らない誰かと楽しげに話している姿を見るだけで,胸が締め付けられ辛くなり涙がこぼれた。


 たぶん,あれが私の初恋だったと,今になってわかった。


 あの人以外,私をこんな気持ちにさせる人はいなかった。私たちの距離は最初から最後まで交わることのないまま,私は気持ちを伝えないまま,卒業と同時に心の中でお別れをした。


 きっとどこかで別の人に恋をして,もっともっと胸が締め付けられ切ない気持ちを味わうんだと自分に言い聞かせた。素敵な人と出会い,楽しかったり苦しかったり,ちょっとしたことで喜んだりつまらないことで喧嘩したりする,世間一般の恋人がすることを私も経験するのだろうと何度も何度も言い聞かせた。


 私の初恋は,あのとき自らの決断で勝手に終わらせた。


 でも,それ以来,あの人以外で私をこんな気持ちにさせる人には出会えなかった。


 あの人のことを思い出しながら鞄を抱き締めて,頬に伝う涙を静かに拭いた。


 あれが初恋だったと,気が付くのが遅すぎた。


 電車が駅に着くと,誰にも顔を見られないように下を向いてホームに降りた。何人かの酔っ払いが私を見ているように思えたが,無視してホームを歩き改札へ続く階段に向かった。


 人の少ないホームを歩いていると,あの人の声が聴こえたような気がして脚を止めた。



『え……?』



 ゆっくりと顔を上げ周りを見回したが誰もおらず,風の音が私の心に悪戯をしたんだろうと思い,鞄を握り締めて再び歩き出した。


 あの人の声が聴こえたと思っただけで胸が高鳴り,あの時ダメモトで告白しなかったことを後悔した。


 高鳴る胸の音に心が耐えられないよう気がした。勝手に脚が速くなり,やがてホームを小走りで駆けだした。


 そして再び,あの人の声が私の耳の奥で微かに聴こえた。



『え……?』



 脚を止め,声が聴こえた方へと歩き出した。どこから声がしたのかはわかないが,改札へと向かう階段を通り過ぎ,ホームの端へと歩き続けた。



『どこ……?』



 あの人がいる訳がないことも,声がしていないことも,頭の中ではわかっていた。こんなところにいるわけがないこともわかっていた。それでも脚を止められなかった。心のどこかで,あの人が偶然同じ電車に乗っていたんじゃないか,ホームで私を見つけて声を掛けてくれたんじゃないかとあわい期待をした。


 誰もいなくなったホームを見回し,声が聴こえてきた方を探した。


 苦しいほどに胸が高鳴り,会いたいと思う気持ちが私の身体から溢れ出ているように思えた。涙が止まらず,あの人の名前を叫びたかった。人の目など気にせず,大声で大好きだった名前を気が済むまで叫びたかった。



『私はただ生きているだけで,あなたに気持ちを伝えられなかったことをずっと後悔している。フラれてもいいから,もう一度会ってちゃんと告白したい。私の気持ちを伝えたい。なにが正しいのかなんてわからないけど,告白しなかったのが間違いなのはわかっている……』



 誰もいない薄暗いホームを泣きながら歩いた。あの人がいるんじゃないか,いて欲しいと願いながら鞄を握り締めて歩き続けた。



『もう……疲れた……』



 職場以外で誰とも会話のない生活,朝から晩まで毎日の決まった生活パターンに心が悲鳴をあげていた。頬に伝わる涙が驚くほど熱く感じた。



『会いたい……気持ちをしっかり伝えたい……』



 この駅に停まらない電車が,ホームにいる私の身体を吹き飛ばすんじゃないかと思うほどのスピードで通り過ぎて行った。


 眩しいほどの光を放つ電車が目の前を通り過ぎると,電車の中にあの人が乗っているように思えた。


 頭ではそんなことはないとわかっているのに,心が先走り,身体がコントロールできなくなっていた。


 手を伸ばせばあの人に触れられるんじゃないか,あの時逃げた私の心が悲鳴をあげながらもう一度チャンスが欲しいと叫び続けた。



 走り去った電車から残されたあわい光の中に,あの人が立っているような気がした。そんなことはないと頭ではわかっているのに,目の前にいるように思えた。


 もう逃げちゃ駄目だと自分に言い聞かせて,あの人の前に立った。暗闇の中でぼんやりと見える昔と変わらない笑顔が懐かしかった。私のことを覚えているのか,私を気持ち悪いと思わないでいてくれるのか,そんなことはどうでもよかった。


 二度とないチャンスを逃したくなかった。あの人に私の心を伝えたかった。


 同じ毎日を繰り返し,職場でもプライベートでも誰とも接することのない私を優しく抱き締めて欲しかった。特別な私だけの話し相手になって欲しかった。


 私はゆっくりと手を差し伸べた。


 優しい笑顔のあの人は私の手を包み込むように握りしめてくれた。


 その瞬間,私の身体は勢いよく引っ張られ,しばらくホームの端を引きずられたかと思うと走り続ける電車とホームの間に挟まれ,吸い込まれるように線路へと転落した。


 すべてがスローモーションになって,自分の身体か幾つにも千切れていくのが見えた。痛みはなかった。ただ,目の前で起こっていることが現実なのかわならなかった。


 電車が急ブレーキを掛けながら悲鳴にも似た音をけたたましく鳴り響かせた。大嫌いな甲高い車輪の音だった。


 バラバラになっていく私の身体をあの人は優しく抱きしめてくれた。嬉しかった。私の思いがあの人に伝わったと思った。あの人が私を受け入れてくれたと思った。


 退屈で苦しい毎日から私を解放してくれるんだと思った。


 嬉しくてしょうがないはずなのに,自分ではどうしようもできない睡魔に襲われた。


 ようやくあの人に会えたのに,まだ何も話していないし,私の気持ちをハッキリと伝えられていないのに,嬉しくてしょうがないのに味わったことのない睡魔が私を容赦なく襲った。


 たくさん話したいのに,もっと抱き締めて欲しいのに,あの時伝えられなかった思いをすべて伝えたいのに,まるで幼いころに両親に無理矢理ベッドに入れられて部屋の電気を消されたときのような気分になった。


 もっと強く抱きしめて欲しい,私が眠りにつくまでの間,私の不安がなくなるまで強く抱きしめて欲しいと願った。


 自分の気持ちを伝えるチャンスに驚くほど涙が溢れ,心の底から嬉しかった。それと同時に暗くなってゆく瞬間に戸惑った。


 これ以上,目の前が暗くなっていくのが耐えられず,張り裂けそうな心の奥からしっかりと抱きしめて欲しい,もっともっとあの人を感じていたいと願った。


 薄れていく意識のなかで,ちょうど八年前に,あの人が酔っ払ってこの駅のホームで電車と接触して亡くなったことを伝えるニュースを思い出した。それと同時に両親の顔が頭に浮かび,なにが起こっているのかわからずパニックになった。


 唯一理解しているのは,あの人はこの世に存在するはずがないことだけだった。


 真っ暗ななかで,やってはいけないことをしてしまったと後悔した。いろんな人に迷惑をかけるのが怖くなり,仕事も中途半端のままになっていることを思い出した。私のミスで上司や同僚に迷惑をかけると思い怖くなった。


 これから先,どうなるのかわからず不安と恐怖でいっぱいになった。両親に会いたかった。両親に会って今まで家に帰らなかったことや嘘をついたことを謝りたかった。仕事ももっと頑張ろうと思った。プライベートでもいろんな場所に出掛けようと思った。


 そして悲鳴をあげる電車の車輪が,私の最後の意識を電気のスイッチを消すかのように奪った。昔から苦手な音だったが,最後の最後まで苦手だった。





 私の身体をバラバラにしながら,電車の車輪があげる悲鳴がいつまでも鳴り響いていた。



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