第十話

 すると途端とたんに新田の目が、するどくなった。

「先生、まさか逃げるつもりじゃあ、ありませんよね?……」


 一柳は狼狽ろうばいしながらも、答えた。

「に、逃げる? そんなバカな! 私は、そんなことはしませんよ!」

「良かったですー。それじゃあ私は、そのホテルの先生がとまる部屋の、隣に泊まりますね」

「な、何でそんなことをするんですか?!」

「もちろん先生のバックアップをするためです」と新田は答えたが、その目は疑っていた。


 その目は

『逃がしませんよ先生……。私は確かに明日の四月一日に、やっと入社二年目になる新人編集者です。でも先輩から教わりました。

 担当作家から原稿を受け取るまでは、地獄の底までついて行けと……。だから私も一緒に行きます』と言っていた。


 その目に気圧けおされた一柳は

「は、はい。バックアップをして下さるのなら大歓迎だいかんげいですよ。それじゃあ、東京駅で待ち合わせをしましょう」と答えるしかなかった。


 新田は元の明るい表情に戻り、答えた。

「はい、先生!」


   ●


 新田は自分の1LDKの部屋に戻ると早速、キャリーケースに着替え等を入れ始めた。

 新田の部屋はテーブル、ベット、カーテン等、全てがパステルカラーの明るい印象の部屋だった。


 新田は全身が映る鏡の前で

「やっぱりこのワンピースかなあ……。いやでも、このブラウスとスカートのコーディネートも捨てがたい……」と、たっぷり時間をかけて迷った。

 そして着ていく服が決まると早速、東京駅に向かった。


   ●


 一柳と新田は、十時十五分に東京駅で合流した。

 新田は目にもあざやかな赤いワンピースに、つばの広い麦わら帽子ぼうしをかぶり、キャリーケースを引いてきた。一柳の目には、一柳をバックアップするというよりは長野県のホテルで、二、三日バカンスを楽しみたい、と思っているようにしか見えなかった。

 そして一柳は、ベージュのチノパンとグレーのジャケットという服装だった。


 そこで一柳は聞いてみた。

「新田さん、その服装は、ちょっと派手はでじゃないですか?」

「何を言っているんですか先生! 長野県のホテルですよ! きっと軽井沢のような避暑地ひしょちでロマンチックだと思うんですよ!

 もしかしたら素敵すてきな出会いが、あるかもしれないじゃないですか?!」


 一柳は思った。うーむ、やはり私のバックアップをするという、当初の目的を忘れているようですね。だがこれは、かえって好都合こうつごうです。


 新田さんが浮かれているすきに私は思う存分ぞんぶん、ホテルで現実逃避げんじつとうひ、いや、くつろがせてもらいましょう。そうですね、一週間くらいは、くつろがせてもらいましょう。

 それで長編推理小説のアイディアが出ればおんの字。もし出なくても、それは仕方しかたがありません。今年は長編小説を書くのはあきらめましょう。


 なあに、思えば十九年も書いてきたんです、一年くらい休んでもいいでしょう、電撃社も納得してくれるでしょう、と勝手に思った。

 そう、うまく納得してくれるだろうか? と、もう一人の一柳がツッコんだが、当の一柳はそれを無視した。


 そして二人は長野経由、金沢かなざわ行きの北陸ほくりく新幹線の自由席に乗った。新田は東京駅で駅弁えきべん二つと、ペットボトルのお茶を二つ買ってきた。駅弁のフタを開けた一柳は、ご飯の上に五切れのステーキと小判型こばんがたのハンバーグがっているのを見て、感動した。


「うわあ、美味しそうですねえ」

「そうでしょう、そうでしょう。早速、食べてみてくださいよ」


 一柳はステーキを一切ひときれ食べてみた。柔らかくて肉のうまみが感じられた。

「うん、美味しいですよ。すごく!」

「うん、うん、そうじゃないと困りますよ。この駅弁一つ、三千四百八十円ですから」


 それを聞いた一柳は、気が遠くなった。三千四百八十円の駅弁って……、そりゃあ、美味しくて当然か、とうすれゆく意識の中で思った。だが、ある考えが急速きゅうそくに一柳を現実に引き戻した。

「ちょ、ちょっと待ってください、新田さん。この弁当代は誰が出すんですか?」

「あ、大丈夫ですよ。経費けいひで落ちますから」


 一柳は考えた。三千四百八十円の駅弁が経費で落ちるのだろうか、と。


 だが新田は強気つよきだった。

「これは経費で落ちます、いや、落とします! じゃないと、これからの私の生活が大変なことになります!」


 一柳は、まあ、そうだろうなあ、と思いつつタダの駅弁を堪能たんのうした。

 そして、そうこうしているうちに軽井沢駅を通りぎた。新田は不思議そうな表情で聞いた。

「あれ、軽井沢で降りるんじゃないんですか?」

「はい、そうですよ」

「なあんだあ、ちょっと残念……」

「でもホテルの所在地しょざいちは長野県ですから、きっと素敵すてきなホテルだと思いますよ」

「なるほど、そうでしょうね。期待きたいしています!」

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