幸せな世界

Gacy

幸せな世界

 道路に面した唯一の窓は分厚いカーテンで覆われ,外の光が射し込む隙間さえなかった。黄ばんだ壁に取り付けられた二十四時間換気の小さなファンがガリガリと音を立て,外の世界と唯一つながる排気口は埃で真っ黒になっていた。


 部屋の中心には,いつ交換したかもわからない湿ったシーツをまとった敷布団が無造作に敷かれ,黒く変色した枕が生物のように見えた。ぐちゃぐちゃになったその布団を囲むように雑誌が高く積まれ,さらにその上には飲みかけのペットボトルやコンビニ弁当の残骸が積まれ散乱していた。


 一日中パソコンのモニタから眩しい光が激しく点滅し,カラフルな光が脂ぎった髪の毛と肌を照らした。ヘッドフォンから微かに漏れるゲームの音と,誰かを呪うような汚い言葉,そして激しい舌打ちの音が部屋の空気をさらに汚した。


 コントローラーをガチャガチャと動かし,モニタのなかにいる敵が倒れてゆく様子を表情を変えることなく,ブツブツと呟きながら真っ赤に充血した眼で追っていた。


 丸く大きくなった背中と首の後ろについた肉の間,脇の下に大量の汗が滲んだ。一瞬,モニタが真っ暗になったかと思うと,ゆっくりと男のハンドルネームが現れ,ランキングが大きく下がったことを示した。



「クソ……クソ……クソ……チートしやがって……ふざけんな……クソが」



 震える指先がコントローラーのボタンを乱暴に連打した。すでに十二時間以上,同じことを繰り返しては誰かを呪うような汚い言葉を呟いていた。激しい爆発音や銃声が直接鼓膜を振動させ,撃たれて飛び散る血や臓器が脳を興奮させた。


 全身びっしょりと汗にまみれ,コントローラーを握る手が激しく震えたかと思うと,大量の鼻血がでっぷりと突き出した腹を汚した。それでもゲームは進んでゆき,モニタの中でバラバラに吹き飛ぶ人の身体を見ては呪いの言葉を呟いた。



「ふざけんな……てめえら,みんなぶっ殺してやる……」



 しばらくしてモニタが真っ暗になり,再びランキングで男のハンドルネームがわずかに上がるのを確認すると,大きく息を吐いてヘッドフォンを乱暴に外した。机の上に転がる乾燥肉を口に放り込み,しゃぶりつきながら,いつからそこにあるのかわからないペットボトルを口にして一気に飲み干すと,画面から消えてゆくランキング表を眺めながら背中を伸ばした。


 モニタの隅に見える時計が深夜三時だと表示していた。



「腹減ったな……」



 血で汚れた服を脱ぎ捨て顔を拭くと,適当なシャツを羽織った。背中に大きな染みがついたシャツは脂臭く,汚れを拭いた跡のようだった。


 スマホを握りめて,足音を立てないようにそっと部屋から出ると,そのまま静かに玄関を出た。一切の生活音のない誰もいない夜は,男にとって辛うじて部屋から出ることができる時間だった。それでも車が通る道は避け,細く暗い道を選んで唯一行くことができる深夜のコンビニへと向かった。


 薄暗い夜道で淡い街灯の灯りが,微かに道を照らしていた。普段なら絶対に人に会わないこの通りにある古い街灯の下に人影が見えた。



「ちっ……いやがった……」



 人影を照らす街灯の灯りが点滅したかと思うと,一瞬でゲームの世界に引き戻されたかのような錯覚に陥り,そっと身を隠して相手を観察した。



「なんだよ……誰だよ……クソが……」



 暗がりに身を潜め,相手の様子を伺った。女か子供くらいの雰囲気だったが,肝心の顔が見えず判断ができなかった。顔が見えないというより,顔があるべき場所は真っ暗でなにも見えなかった。


 街灯の下にいる人影が微かに揺れると,自分の存在に気づかれたかと思い,身を低くして辺りを伺った。闇に溶け込もうと暗がりに隠れたと同時に耳の奥でゲームの音楽が鳴り響き,頭の中でさまざまなアイテムが浮かんでは消えた。



「マジでなんなん……ぶっ殺すぞ……なめんなよ」



 目の前に人がいると思うと,身体が動かなかった。相手はこっちを気づいているのか,なぜこんな時間にこんな人気のない場所にいるのか,頭の中でぐるぐると疑問が浮かんでは消えた。



「なんなんだよ,あいつ。やけに小せぇな。こんな時間に夜遊びしてるガキか……?」



 ゆらゆらと街灯に照らされる人影が動いたかと思った瞬間,弾かれたように来た道を戻り,目の前のマンションの非常階段を身を低くして静かに登った。



「くそ……丸腰じゃなにもできねぇ……」



 非常階段はまっすぐ屋上まで上がれたが,途中のフロアには外からは入れない仕組みになっていた。


 階段を登っただけで息があがり,脇腹に激痛が走った。何度も深呼吸をしながら脇腹を押さえ,誰も自分を追っていないか,さっきの人影はついてきていないか耳を澄ませた。



「なめんなよ……逃げてんじゃねえからな。これもテクニックだからな……」



 暗闇に身を潜めているとゲームの音楽が頭の中で激しく響き渡り,目の前に自分のステータスが現れたかと思うと消えてしまった。なにか持っていないかと,何度もポケットを触っては自分の所持品を確認した。



「マジかよ……なんもねぇじゃん……」



 非常階段の手摺りの間から自分の家が見えた。自分の年齢よりも古い建物は,遠くからでも寂れているのがわかった。



「くそ……面倒臭いけど,いったん帰るか……」



 音を立てずに階段を滑り降りるように下り,暗い道を選んで慎重に歩き,誰にも見つからないように家へと向かった。


 途中で何度か来た道を戻ったりしながら,時間をかけて人に会わないように注意を払った。


 ようやく家の前に着くと辺りを見回し,誰もいないことを確認してから再び静かに玄関ドアを開けた。外気と入れ替わるように家の中から汚物と生ゴミが混じったような腐敗臭が淀んだ空気と一緒に外へと溢れ出た。


 真っ黒な床がうねうねと波打ち,足元を生き物がすり抜けていった。



「マジで誰だよ。こっちは腹減ってるっていうのに……」



 部屋の中に入ると乱暴に布団を踏みつけ,不機嫌に椅子に座った。パソコンのモニタにはゲームのキャラクターが映し出されていた。


 相変わらずファンからガリガリと音がし,部屋の中をガサガサと生き物が這いずり回る音が響いた。



「マジで腹減ってんのに……ムカつく」



 ゆっくりと流れる鼻血を服の袖で拭きながら,床に転がる真っ黒い枕を眺めた。



「どいつだ……」



 真っ黒に汚れたシーツの隙間から腐敗した肉塊がはみ出し,大量の蛆虫が波打つように溢れ出した。


 枕のように転がっていた少女の頭も腐敗して真っ黒になり,大量の蛆虫が口や鼻,目や耳から溢れ出していた。



「俺のコレクションを狙ってるやつに違いない……」



 湿った布団から見える何本もの腐った腕は,まだ幼さの残る細く華奢なものばかりで,高く積まれた雑誌の上にはいくつもの頭がコンビニ弁当の容器の上に置かれ,まるで彼女たちの身長に合わせているかのようだった。


 少女たちの頭はミイラ化しているのもあれば,まだ比較的新しく,腐敗とともに大量の汁が垂れて弁当の容器を溢れさせているのもあった。



「ふざけんな……全部俺のだ」



 家の周りには顔の潰れた少女たちが自分たちの身体を探すように彷徨い,部屋の中で自分たちの身体を玩具のように扱っている男を呪うかのように窓や換気扇に爪を立てガリガリを音を立てた。



「くそ……鼻血が止まらねぇ……」



 鼻の奥から流れる血とともに蛆虫が這い出し,咳をすると小さな肉片が飛び散った。真っ赤に充血した眼が雑誌の上に置かれた少女たちを睨みつけた。



「ここにあるのは全部俺のものだ。お前らは全員俺の所有物だ」



 小さな乾燥した指をしゃぶりながらヘッドフォンをし,コントローラーを握りしめると,パソコンのモニタに目を向けた。一瞬,真っ暗になったモニタには男の身体にまとわりつき,首を締め,眼や鼻に噛み付く憎しみと怒りに満ち満ちた少女たちが映し出されていた。



「ちっ……腹減ったな……」

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