12 爽夏の涙

 爽夏は、全身泥まみれになって、夢遊病者の様にふらつく航の姿を見て、只事ではない事を悟った。

 選手への接触が許されるアシスタントエリアに、航が足を踏み入れるのを待ち、足が入った瞬間、その身体を支えた。

 支えた瞬間、首筋にずっしりと体重がのしかかって、よろめいたが、駆け寄ってきた諏訪に助けられ、何とか救護テントへ運びこむ事ができた。


 寒さで唇が震えている航に、毛布を掛けようとすると、諏訪が声を掛けてきた。

「爽夏ちゃん、ゼッケンを外してやれ、健闘したけど、ここまでだ」

 爽夏は、諏訪の顔へ視線を移す。

 唇を引き結んだ諏訪の瞳に諦めの色が浮かんでいた。

 爽夏は、自分の目から涙が溢れようとしているのを感じ、それを袖で拭う。

 徹が病で倒れ、航の健闘もここで終わろうとしている。

 三人で築き上げてきた大切なものが終わってしまうのだ。そう思ったら涙が止まらなかった。

 航は、全てを出し尽くした。そして、目の前で横たわっている。

 ここまでずっとトップを引っ張ってきた。

 二位に大差をつけて逃げ続け、大勢は決したと思われていた。

 残りの距離は20キロ足らず。目の前にある瑪瑙山を越えれば、大きな起伏はもうない。

 あと少しだった。

 ここまで140キロ以上走ってきたのだから、残り20キロくらい、どうにでもなりそうな気がする。

 だけど今、目の前にいる航に、それを課すのは、酷なことだ。

 今の航は、次の一歩を踏み出すことすらも、出来そうにない。

 航のやつれた姿が、切なくてしかたなった。


 航は、徹の夢を見ていた。

 芦ノ湖を見下ろす登山道で、前を走る徹の背中を、ひたすら追っている。

 峠を駆け上がり、峠から駆け下り、いつまでも走り続けた。

 少し休もう、と声を掛けても、徹は止まろうとしなかった。

 やがて芦ノ湖へ下りる登山道に差し掛かると、徹の背中が遠ざかって行った。

 名前を叫んでも、応えてくれず、振り返ることなく右手を挙げ、霧の彼方へ消えていく。


 新宿の病院では、この日、二度目の緊急コールが鳴り響いていた。

 発信源は、徹の病室からだ。

 前回コールされたのは、夜の九時で、それから五時間三十分が経過している。

 その時に、もう一度でも、心肺停止状態に陥れば、その時は恐らく耐えられないだろう、と医師は告げていた。

 病院に待機し続けていた小百合と、徹の最期を看取る為に駆けつけてきた数名の親族は、覚悟を決めている。

 慌しく病院スタッフが駆け込み、最期の蘇生術が試みられた。

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