3 木漏れ日の中を

 杉の林に囲まれたハイキングコースに、木漏れ日が差し込む。

 

 航が芦ノ湖キャンプ場を出発してから、やすらぎの森までに出会った人は三人。

 そのうちの二人は中年の夫婦らしきハイカーで逆方向から歩いてきた。航は、人の気配を察した瞬間、走りから歩きへと移行して、おはようございます、と挨拶を交わして、すれ違った。

 あとの一人は釣り人、ハイキングコースの入り口に停められている車の荷台で、釣りの準備をしていた。時間に制約がなければ、立ち止まって話をしたいところだが、爽夏に追いつかなければいけないので、挨拶だけで通り過ぎた。


 「やすらぎの森通過!」

 航は爽夏に、LINEメッセージを送った。

 爽夏は平坦なところと下り坂を走るのは、めっぽう速い。芦ノ湖キャンプ場から、やすらぎの森までは、殆ど高低差がない。スタートした時の時差は10分、恐らくその差はいくらも詰まっていないだろう。でもこの先、山伏峠までは、急な上り坂が続く。


 「ここからが見せ場だ、爽夏が歩かなければ登れないような坂でも、僕ならば走り続ける事が出来る」 航は言い聞かせるように、自らを鼓舞した。


 航にとって、走ると言うのは、日頃の習慣だった。

 健と湘南海岸のサイクリングコースや、砂浜を日課として走っていたから、脚力には自信がある。健というのは、航の父が経営しているカフェの店長で、名前は佐藤健一、一人っ子の航にとっては、兄貴のような存在だ。


 学校を終えて帰宅すると、航は店(カフェ)の手伝いをしていた。店は、航にとって遊び場であり、学びの場でもあった。航の教育係が健だったから、二人は多くの時間を一緒に過ごしてきた。二人で海へ繰り出して、サーフィンをしたり、海岸線を一緒に走ったり、未成年だった航に、酒の飲み方を教えたのも健だ。


 同じ年頃の男子が、部活動に励んでいる時、航は店を訪れるお客さんと大人の会話に加わっていた。クラスメイトの男子が卑猥な本を隠し読みしている時、航は、既に大人の女性と関係を持っていた。

 小さい頃から、大人の中で育ってきた航は、同世代の男子達とは比べ物にならないほど成熟していた。だからカフェを訪れる小粋な女性と対等に接する事だって出来た。航が同じクラスの女子を恋愛対象として見れなかったのは、健とこのカフェで接してきた大人達のせいなのだろう。


 そんな健が、ある日、航をトレイルランニングに誘った。

「遊びの場は海だけじゃない、山だって面白いぜ!」

 健の事を慕っている航が、喜び勇んで付いて行ったのは自然な流れだった。


 苔むす石畳の山道が始まると、航の動きが変わっていく。

 脱力しながら惰性で走っていた平坦路とは一変して、脚に力が加わる。

 鍛え抜かれたふくらはぎは、子持ちししゃもの様に膨らみ、硬い石畳から弾かれた脚を、瞬時に胸へ引きつける。

 大きく、鋭く振り抜かれた腕が、推進力を生み出して、勾配に沿って斜め上方向に突き進む。重力を感じさせない力強いフォームで、急な坂道を駆け上がる姿は、野生動物の躍動とも重なる。


 つい今しがた、この場所を通過した爽夏とは、明らかにスピードが違う。

 航は目に見えない爽夏の背中を追って、走りのギアを一段、そして、また一段と上げていく。ここまでの心拍数は平常時とさほど変わらなかったが、それが少しづつ上がり始めると、身体のキレも同様に増していく。航は身体と対話しながら自らの状態を掴んでいく。心臓も、肺も、脚の筋肉も、背中の張り具合も、今日は良い調子だ…… 身体との対話を終えて、さらにもう一段階、走りに力強さを加えた。

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