第3話 勇者からの逃亡
私は、自分の痕跡を消すために森の家に火を放ち、全てが灰になるのを見届けると、すぐに東を目指した。
そして、二カ月の徒歩での旅路を経て、私はドラゴンが住むという秘境の入り口近くにたどり着いた。
秘境は力に満ち溢れた土地。大地が私にも力を与えてくれるのがわかる。王子と出会ってから続いていた私の不調も、大分癒されていた。
私の気がかりは、勇者は追ってこないかという、ただそれだけだった。
彼は、全てを思い出したらだまされたと怒るに違いない。
自分を記憶喪失にした元凶のくせに、親切な振りをして看病し、その恩返しにとこき使った私の事をプライドの高い王族が許すはずがない。
そして何よりも。
彼は私に、特別な感情を抱いていたのだと思う。
そんな感情は、容易に憎しみにとってかわるということを、私は知っていた。
勇者の輝かしい経歴の一点の泥の染み。それが私なのだ。
その泥の汚れを、彼はどうするだろうか?
放置して忘れてくれるだろうか?
ここ数か月で、知った彼の人となり――自分のこだわる部分にはとことん執着する――を思うに、その可能性は低かった。
彼はおそらく、憎んだ相手に始末をつけにやって来るのだろう。
白状するならば、彼と過ごしたあの二か月は、新緑の木々を透ける木漏れ日のようなキラキラした時間だった。
彼に向けられる眼差しの奥に潜む感情にも気づいていた。
その心地よさが、周りの世界を何倍にも明るく見せていた。
だからこそ。
私は、あの澄んだ紫の瞳が、憎しみに曇るのを見たくなかった。
憎しみと怒りに囚われた眼差しが自分に向けられることを想像したくなかった。
彼の想いを込めた指輪だけを思い出のよすがに持って、彼から逃げ切りたかった。
逃げ切るために、ここまで来たのだ。
――でも、遅かったみたい。
私は目を閉じると、ふっと息を漏らし、背後へと静かに声をかける。
「遅かったわね」
「ああ、随分手間をかけさせてくれたな」
そこには、紫の瞳を昂る感情で赤に変えた、怒れる勇者の姿があった。
「どうやって、追ってこれたのか、聞いてもいい?」
「追跡魔法だ。俺が渡した指輪に残した痕跡を追わせた。国一番の魔導士が、協力的だったからな」
王子は、懐から水晶玉を出す。
強い魔法の気配がする。
『お兄様! 聞いてます? 約束しましたわよね! 協力したら私にお話しさせていただけると! 早く約束を守ってくださいませ』
「ご苦労だったな。あとで褒美をやろう」
『ちょっ』
王子が懐へしまうと同時に、水晶玉の音声は途中で途切れた。
水晶玉は遠隔通信装置だったのだろう。
妹か。勇者の血脈。さぞ優秀な魔導士なんだろう。
「国宝の指輪に、俺が最大限込めた守護。俺と国一番の魔導士で追うのなどたやすい」
いくら不調とは言え、そんなものに気づかなかった自分が情けない。
気配に気づかずとも、何も考えずに置いて来ればよかったのに。
私は苦笑いして、胸から下げた小袋に入った指輪を握り締めた。
いいや、きっと、気づいていても私は置いてこれなかった。
「随分手をかけさせてくれたな。これだけのことをしでかしてくれたんだ。楽に終わると思うな」
こんなところまで追いかけてくるほど、ただではすまさないというほどに憎まれているのか。
目の奥が熱くなるが、私は、涙をこぼすのを、どうにか耐えた。
私にも、矜持がある。
せめて、と、私は胸の小袋を引きちぎって王子に投げつけ、にやりと笑って見せた。
「国宝の指輪を返したんだから、見逃してくれる?」
「――捨てるのか。許すわけがなかろう」
「言ってみただけ。で、私に何を望むの?」
「答えは一つしかない。――俺と一緒に来い」
「はっ、隷属も、生贄もお断わりよ」
生きたまま、身体を引き裂かれるのか、それとも、血を抜かれるのか。
正直、勝てる見込みは全くなかった。できそこないの、私では。
でも、せめて一矢報いる。
隷属など受け入れない。その前に散ってやる。
――どうせ逃げきれないのなら。
「連れて行きたければ、力ずくでやってみるのね」
「たたき伏せてやる。お前は、俺の獲物だ」
私は、体中の力を解き放った。
比喩ではなく、身体が紅蓮の炎に包まれる。
そして、この身は、姿を変える。
猛々しくも美しい、紅蓮の炎をまとったドラゴンの姿に――。
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