籠の中の少女

Gacy

第1話

戦後まもなく世の中が賑やかさを取り戻し始めたころ,我が家も活気に包まれていた。


 やけに広い畳敷きの居間の角に,職人の手によって細かい細工が施された総檜造りの重厚な台に大型テレビがすっぽりと収まっていた。普段はレースのカーテンで隠すように覆われ,埃がつかないように,宝物のように大切に扱われた。


 テレビをつけるのはいつも父親の役目で,銀色の四角いスイッチを押してからしばらくして浮かび上がる歪んだ映像を胸を躍らせて待つのがたまらなく好きだった。


 家族揃って晩ご飯を食べるときは,丸みを帯びた画面に映し出されるスポーツ選手や芸能人を観ながら興奮を抑えつつ父親の表情を伺った。


 巨人が勝てば父親の機嫌はよく,負けた日は一晩中愚痴をこぼしながらお酒を呑んだ。プロレスも同じで,木村政彦が勝つと随分と機嫌がよかった。


 母親は我が家にある大型テレビと冷蔵庫が誇らしく,近隣の家にまで聞こえるであろうボリュウムでテレビをつけることに喜びを感じているようだった。近所で音がある家といえばラジオがほとんどで,街に出たときは小さなラジオを大勢で囲みながら酒を呑む大人たちを遠目に見ていた。


 父親の友人が立派なオーディオセットを所有していて,父親はお酒がはいるとその人の家に行ったときに聴いた海外のクラッシックのレコードの音がよかったなど,まるで自分のことのように楽しそうに話した。


 明るく楽しい音で埋め尽くされる我が家の外で,家のすぐ近くの街灯には無数の蛾が不快な音をたてながら激しくぶつかり,羽根をボロボロにしながら地面に落ちた。


 落ちた蛾は身体から細長い白い糸のようなモノを出しながら痙攣し,動かなくなると,別の蛾が降ってきて同じことを繰り返した。


 毎朝,誰よりも早く起きる母親がほうき塵取ちりとりで死んだ蟲を集めては,茂みのなかへ放った。


私の生まれ育った地域は昔から貧富の差が激しく,とくに貧しい家庭では少し離れた大きな町で家族総出で物乞いのようなことをして生活している人たちや,ゴミを拾って金銭に変えて暮らす人たちも珍しくなかった。


 しかし生まれてからずっとテレビや冷蔵庫がある生活が当たり前で,貧しい暮らしなど経験したことのない私にとっては,子供を背にしょってゴミを漁る母親など想像すらできなかった。 


 居間から見える庭には,太い支えに守られた大きな松の木が職人によってしっかりと手入れされ,お稲荷さんがある庭の片隅には何匹もの大きな錦鯉がゆっくりと優雅に泳ぐ池があった。


 まだまだ戦争の爪痕が色濃く残る土地でありながら,我が家はまるで先祖に守られていたかのように傷一つなく先祖代々受け継いできた大きなお屋敷がそのまま残っていた。


 それは近所でも不思議がられ,この強運は神様のおかげだからと我が家の人間は特別扱いされることを当然だと思って生活していた。


 欲しいものはなんでも手に入り,食卓に海外の珍しい缶詰を使った料理が並ぶことも度々あった。


 しかし明るい世界にしかいない私にとっては,救いようのない暗い世界が身近にあることを微塵にも想像することはなく,自分たちのいる場所のありがたみなどまったく気にも留めなかった。


 実際に我が家で働く勤勉な使用人たちのなかにも背中に大きな彫り物を背負っている者もいた。私の世話をしてくれる男も背中に大きな鳳凰が彫られていて,幼い頃からその鳳凰の目が怖くて直視できなかった。


 それでも夏祭りがあったある日の晩,私は使用人に刺青について聞いたことがあった。



「ねぇ,なぜお前の背中には大きな派手な鳥の絵が描いてるの?」



「お嬢様。鳳凰は,愛・平和・幸福の象徴なんです。自分はお嬢様の幸福だけを願ってお仕えしております。ずっとお嬢様が幸せであることをこの鳥も見守っているんです」



「そんな怖い目をした鳥が……?」



 若い使用人は微笑んだだけで,それ以上私の前で刺青の話はしなかった。


すべてがくすみ,陰湿で色のない世界を,鏡のように磨き込まれた一台の高級車が押せば倒れるような粗末な小屋が並ぶ通りを大量の排気ガスを撒き散らしながら走り抜けた。


 後部座席には仕立てのよいスーツに身を包んだ父親が座り,その横には和装姿の母親がいた。二人ともまっすぐ前を見て座っていたが,助手席に座る私は舗装されていない穴だらけの道を凝視しながら,器用に穴を避けながら運転する若い使用人に感心していた。 


 産まれてすぐに大病を患った私は,歳の割に身体が小さく,薄く幼い見た目から男たちから子供のように扱われた。それでも,よくみると日本人離れした整った目鼻立ちは周囲の目を惹きつけた。まるでフランス人形のような洋服を着せられ,靴が汚れることを極端に嫌い,アスファルトのない田舎道を歩くことを拒否する子供に育っていった。


 車から降りるときは,わざわざ使用人に手を引いてもらい,子供ながらに洋服が汚れないように細心の注意を払った。優しく手を取る使用人のしなやかな指は,男らしさのなかに繊細さを感じさせ,幼い私の心をときめかせた。


 車が大通りから山へと伸びる私道へ入って行くと,砂利道にもかかわらず車が流れるように緩やかな坂を登って行った。大きな木に囲まれた私道は新緑の匂いに包まれ,窓を開けなくても心地よい風を感じさせてくれた。


 かつて皇族が利用したと言われる山奥にある大きな洋館は,会員制のホテルとしてその役割を果たしていた。定期的に行われる家族同伴の社交界は,田舎の富裕層がお互いの近況報告と商談の場として開催されたが,奥方とその子息にとっては常に誰が優位で誰が景気がよいのかを探る場でもあった。


 そして大人たちにとっては子供の政略結婚を狙う場でもあり,お互いの価値を見極める場として活用された。そのなかでも華族出身者や財閥一族は別格で,彼らの一族に加わろうと奥方は常に目を光らせていた。


フロアでは男たちが小人数のグループで集まり,互いに険しい表情を隠そうともせず話し込んでいたが,どのグループも第四十五代内閣総理大臣である吉田茂内閣の戦後復興における景気政策について議論していた。


 異業種のトップがこれからの商売について難しい話をしている様子は,なにも知らずに見ていたら,金持ちがお互いの懐を探り合いながら談笑をしているようにも見えた。


 それでも会話の途中途中に相撲や野球の話が混じることも多く,それぞれ贔屓にしている選手をまるで我が子のように自慢した。


 そして一人が葉巻を取り出すと,つられるように一斉に金属製の箱に入った葉巻を取り出しては専用のカッターで端を斬り落とし,大きなマッチで葉巻を炙るようにして火を点けた。


 最初に葉巻を取り出した男の指には,大きな金の指輪がいくつも嵌められており,田舎の成金をアピールしているようだった。真っ黒なスーツに黒いハットが特徴の男は,全身を黒と金で着飾っていた。


 社交界といっても,そんな田舎の金持ちが集まって商売の話をしているだけで,この場を楽しんでいる者など誰もいなかった。もともと酒もふんだんに振舞われていたが,酔うと暴れる者も多く,いつの間にか酒は控えて家族を同伴するのが定着していた。


 何度か気性の荒い二代目同士が慣れない洋酒に酔って喧嘩になりそうなこともあったが,こういった集まりを定期的に設けることで,田舎の企業が東京や大阪といった大都市での商売を円滑に行うことができた。


 仕立てのよいスーツに葉巻を咥えた男たちは,それぞれ話すべき相手と話終わると,会場に用意された軽食を摘まみ,見逃した客がいないか会場内を見回した。


 まれに財閥のお偉いさんや華族出身者なども顔を出すことがあり,男たちにとっては,少ない機会ながら彼らに会うことも目的の一つだった。


この日はとくに特別な参加者もおらず,一通り目的を済ませた男たちは嫁や子供たちの様子をみて,やり残した用事がないことを確認してから会場を引き上げる準備をした。


 会場の外には真っ黒な高級車が何台も停まり,それぞれの車の中で運転手が静かに会場の入口を見ていた。自分の雇い主が現れたらすぐに車を入口につけるために,運転手たちは緊張感を絶やさないよう,常に辺りを注視した。


 ちょうどこのころ,一九四五年のポツダム宣言受諾の影響から,天皇陛下の存在を公に認めない学生集団が各地で問題を起こしていた。それは学生運動と呼ぶには規律もなく,ただ騒ぎたいだけの力を持て余した学生たちが好き勝手に暴れるだけだった。


 一部の腕力に自信のある連中は組織された過激派と呼ばれる集団となり,度々暴力団や警察とトラブルを起こし新聞に取り上げられていた。彼らの訴える正義は,ソビエト連邦や中華人民共和国が掲げる社会主義思想そのままで,権力者や富裕層を手当たり次第に攻撃した。とくに彼らが敵視したのが皇室で,定期的に打ち上げ花火を改良したような粗末なロケット弾を皇族関連の施設や建物に打ち込んだ。


 そんな過激派集団が前々からこの田舎で行われている社交界を襲う計画を立てていることを地元の警察は把握していたのだが,富裕層たちは彼らの凶暴性を理解せずに警察の警告を軽くみて無視していた。


 そしてこの日,最初の客が帰ろうとした瞬間,主を迎えに滑るように入口に向かった一台の高級車が大きな破裂音とともに軽く宙に浮いた。耳を切り裂くような音が運転手たちの耳を聴こえなくし,真っ黒な煙が空を黒く覆い,視界を悪くした。会場となっている建物の窓ガラスが爆風によって粉々に吹き飛んだかと思うと,あちこちから爆音が轟いた。


 あまりの衝撃に建物内に残っている者達は,地震かと思い身を低くした。外では車が激しく燃え上がり,轟音とともに真っ黒な煙が空高く昇っていった。


 辺りはプラスチックが溶ける臭いとガソリンの臭いが入り交じり,パチパチと音をたてながら爆発を数回繰り返し,燃える車の向きが何度も変わった。


それぞれの車にいる運転手たちはなにもできず,汗ばんた手でハンドルを握ったまま入口付近で激しく炎上する車を眺めていた。そして次の瞬間,顔を真っ黒い布で覆った集団が剥き出しの日本刀を手にして建物へと走って行った。


 まるで映画の一場面のようで現実味がなく,運転手たちは自分がいるのこの世界が現実なのか,何時代なのかもわからなくなっていた。


 男たちが建物に入ってから,どれくらいの時間が経ったかわからなかった。相変わらず車は炎上していたが,誰もが時が止まったような感覚に包まれていた。建物から出てくる男たちの洋服が赤黒く染まり,それぞれの足跡がハッキリと残るほど全身が濡れているのを見た瞬間,ようやく現実に引き戻された。


 さっきまで手に持っていた日本刀はどこにいってしまったのか,誰も刀を持っておらず,代わりにそれぞれが薄汚れた袋を手にしていた。


 蜘蛛の子を散らすように走り去っていくと,建物の窓から大きな炎が激しく渦を巻くように噴き上げてくるのが見え、あっという間に建物が大きな炎で包み込まれた。


 誰もがその場から逃げ去ろうとしていたとき,建物の入口へ勢いよく突っ込んで行く一台の車があった。建物の入口付近は炎の熱でタイヤがパンクしてしまいそうなほど熱く,車の輪郭がゆらゆらと歪んで見えた。


 車が横付けされると使用人が勢いよく飛び出し,上着を頭から覆い身を低くしたまま燃え盛る建物へと飛び込んで行った。


 一瞬の出来事で,男がぐったりした人形のような女の子を担いで飛び出してくると後部座席に放り込み,タイヤを激しく鳴らしながら建物を後にした。男の姿を見ていた他の運転手は,男の半身が真っ黒に焼け焦げていたことに驚いたが,なにより燃え盛る建物の中から小さな子供を担ぎ出したことに驚いていた。


 真っ黒になった子供は,そのまま車で三十分ほどの場所にある掛り付けの医院へと連れて行かれた。奇跡的に見える部分の火傷は大したことがなかったが,軽度の気管熱傷がみられ高温の煙を吸った可能性が疑われた。


 カーテンで仕切られているだけの粗末な集中治療室もどきの部屋で気道確保が行われ,部屋中に滅菌用のアルコールが散布された。


 高齢の医師と看護師があわただしく作業をしているのを確認すると,半身に酷い火傷をおった運転手は背中の刺青を見られることを嫌い,治療を受けることなく黙って医院を後にしてそのまま主の自宅へと向かった。


 自宅にはすでに大勢の警察官が集まっており,ボロボロの運転手を見て皆驚いていた。


 運転手が車を降りると,警察官に取り囲まれ一斉に質問を浴びせられた。運転手は溶けてうまく開かない唇を必死に動かし,答えられることをすべて答えたが,どうやら他の運転手たちと同じ内容だったらしく警察官の落胆する様子が伝わったてきた。


 それでも,目撃者になるかも知れない生き残った娘が火傷の治療をしているのを知った警察官たちは,その場に運転手を置いて慌てて医院へと向かった。その様子を見て,ようやく緊張が解けた運転手は使用人が使っている部屋に行き,着替えをして家を出た。


 鏡に映る自分の姿を視線の端で確認すると,大きなため息をついてそのまま自分の住まいがある粗末な小屋が並ぶ通りを目指して,思い通りに動かない脚を引きずって歩いた。


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