コップのふちから溢れるもの【フリー台本】

江山菰

コップのふちから溢れるもの


*登場人物

女性・・・30代キャリアウーマン。終始疲れ切った虚ろな口調。気持ちをあまり語調に出さない。作中数回名前を呼ばれるが、任意で決めてよい。

バーテンダー・・・30代男性。客の女性より、ほんの少し年下。


*注意事項

・感情を表出するシーンにおいても、女性はくってかかるような演技はしないこと。

・ゆるい時間が流れるのをイメージしてゆっくりと演じ、ひとつひとつの台詞の合間もゆったり目に取ること。


*以下本文


場:少し垢抜けないカクテルバー


女性「(溜め息)……」


バーテンダー「……お疲れですか?」


女性「(ぼやけた声)うん、まあ……」


バーテンダー「そういう時は早く帰ってゆっくり休んだ方がいいと思いますよ」


女性「いいの……うちには帰りたくないの」


バーテンダー「でも、調子悪そうですから。タクシー呼びましょうか?」


女性「(力なく笑って)せっかく来たんだから、ゆっくりさせてよ」


バーテンダー「だって、顔色が悪いですよ?」


女性「疲れているだけよ。いつものちょうだい」


バーテンダー「当店裏メニューの甘酒ですね。ホットですか、それともアイスで?」


女性「あったかいのがいいわ」


SE:甘酒を調理し、サーブする音


女性「(一口飲んで)おいしいのはおいしいんだけど、んー、……甘くない甘酒はないの?」


バーテンダー「これでも甘さは市販のものよりあっさりしているはずですよ」


女性「でもねえ……甘すぎて胸焼けするのよ。自家製だったら、砂糖減らしてくれない?」


バーテンダー「……米のでんぷんが麹で発酵して麦芽糖になったのが甘酒なので、砂糖は入れていません」


女性「酒粕と砂糖で作るんじゃないの?」


バーテンダー「その作り方もありますが、うちはちゃんと麴と米で作ってます。それに、甘くないのは甘酒じゃありませんよ。他のドリンクはいかがですか? レモンペリエとか」


女性「甘酒がいいのよ……だって飲む点滴って言うじゃない?  リアル点滴よりましだと思って飲んでるの」


バーテンダー「……ここに来るたびご注文だったので、お好きなんだと思っていました」


女性「微妙に好きだけど、もう少し甘くなかったら多分もっと好きだと思うのよ。今日はちょっと濃いような気がする」


バーテンダー「はあ」


女性「薄めてもらえる?」


バーテンダー「……はい」


SE:お湯を少量注ぐ音


バーテンダー「(客が飲む様子を見ながら)本当にお疲れですね」


女性「眠れてないし、食欲もないから。肌荒れとかクマとか、すごいでしょ」


バーテンダー「……すごいです」


女性「正直すぎ」


バーテンダー「……ごめんなさい」


女性「いいの」


バーテンダー「(間を2秒ほど置いて)○○さん……余計なお世話なのはわかっているんですけど……ここのところ、ちょっと変ですよ? 体壊しますよ」


女性「こんな、客の来ない店なのに、あなた勇気あるわよね。私が不愉快になって、もう来なくなってもいいの?」


バーテンダー「……○○さんが体を壊すよりはましです」


女性「うふふ……お気遣いありがとう。だから、このお店は、うちよりずっと居心地がいいのよ」


バーテンダー「(呟くように)……おうちよりも?」


女性「(たっぷり間をとってから)今日は木曜日でしょ?」


バーテンダー「はい、木曜日です」


女性「木曜日は私の帰りが遅くなるから、夫がうちに女を連れ込んで、よろしくやる日なの」


バーテンダー「えっ?」


女性「(虚ろに、淡々と)女はね、私の幼馴染よ。本当に、姉妹みたいになんでも話して、一緒に泣いたり笑ったりしてきた親友」


バーテンダー「……そんな」


女性「(虚ろに、淡々と)ベッドがよく映るように隠しカメラも設置したから、きっといい動画が録れてると思うわ。スマホから見られるのよ。一緒に見る?」


バーテンダー「(動揺して)い……いえ、結構です」


女性「(全然面白そうではない感じで)ふふふっ、面白いのよ。いつもピロートークに、二人して思いっきり私の悪口言ってるの。すごく楽しそうに」


バーテンダー「……つらいですね」


女性「そういうことは言わないで」


SE:湯呑を置く音


女性「私、気持ちが麻痺した感じなの。だからこうやって離婚に向けて動けてるの。つらいとか言わないで。前を向けなくなるから」


バーテンダー「離婚って」


女性「そうよ。証拠一杯集めて、思いっきり慰謝料ふんだくってやるの」


バーテンダー「(3秒くらい間をおいてゆっくりと)ふわりさん……この店は、ふわりさんのおっしゃる通り、めったにお客さんがきません。だから、この店でくらい、悲しいことは悲しい、つらいことはつらいって言ってもいいですよ。つきあいますから」


女性「(3秒ほど黙りこくったあと)……ありがと」


バーテンダー「ユアウェルカムですよ」


女性「(虚ろに)……私、目を背けたかったの。だから無理に仕事詰め込んで……」


バーテンダー「(やさしく)そうなんですね」


女性「……離婚してすっきりしてから、後でゆっくり悲しもうって思ったの。(徐々に泣いて)……私はめそめそして何もできない女じゃないんだから。死ぬほど後悔させてやる」


バーテンダー「(ゆっくりと慰めるように)○○さんはめそめそして何もできない人じゃないですよ。だけど、ここではできる人でいる必要はないんです。コップのふちから溢れないうちに、少し中身を捨てていきませんか」


女性「(控えめに嗚咽しつつ、3秒の間の後、とぎれとぎれに)……私、つらいの……やっぱりつらいの……どうすればよかったのかな……どうすれば、こんな結末にはならなかったのかな」


バーテンダー「……それがわかるのは神様だけですよ。人間はわからなくて当たり前なんです」


女性「(嗚咽しつつ、間をおいて)……私、もう、蓋を開けちゃったのよ。弁護士ももう頼んでる。だけど、どこかで、これがぜんぶ夢だったらいいのに……って思うの」


バーテンダー「今も……ですか」


女性「(嗚咽しつつ、とぎれとぎれに)……私、ほんとに夫のこと愛してたの……だからこそ許せないし、引き返せないの……だけど、こんなにつらいのは、今も愛してるからなんだって、気づかされて……」


バーテンダー「(小さく、悲しそうに)……それを聞くと、僕もつらいですよ」


BGM:フェイドアウト。


――終劇。

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