第5話

 オレンジ色の空がどこまでも続いている。仄かに青っぽさが混じった暗さとは対極にあって、一日の終わりを実感させる。街はぽつぽつと街灯がついて夜を迎える準備に入っている。


 暑さが少しましになったとはいえ、まだじっとりとそこかしこに熱が残っている。


 オープンキャンパスのバイトが終わった現在、鞄の重さにすら負けてしまいそうなくらい疲弊している。傍目からすれば足どりが悪く熱中症に罹っていると誤解を受けるかもしれない。


 肉体的にではなく、精神的なダメージはときに脳にすら影響を与えるのだと初めて知った。


 このあと、バイトに行かなければいけない。家に一回寄るよりもどこかコンビニで軽食を買ってすませたほうが早い。


 わかってはいても通り過ぎる店に入るのすら億劫なあたり、大分限界が近いのかもしれない。駅近くになってサラリーマンたちの帰宅ラッシュに出くわした瞬間、やばいとおもって適当な店を探す。


 疲れ切った人々の表情と負のオーラ。家庭か自分自身のためか。労働している大人が纏っている独特な空気に、まさか俺も今ああなっているんじゃないかって危機感が芽生えた。


 冷たすぎるコンビニの空調は今の体にはちょうどいい。疲労が一瞬ましになったとすら錯覚するほどでレジに並んだときにはポジティブにすらなっている。


 れみとのおもわぬ再会。その後のやりとり。今おもいだしても・・・・・・。


 けど、あんなことはもう二度とないだろう。実際、れみたちはバスに乗って帰っていったし。嘘をついちゃったことと、昔俺がしたことを考えれば当然のことだって受け入れることができた。


 研究室での執拗な態度・・・・・・粗探し、揚げ足取り、悪意、etc・・・・・・。


 うん。仕方ない。


 あれ? なんだろう。泣きそうになってきた。


 まぁ、いいさ。今後あの子と俺の人生はもう交わることはない。後悔していることはたくさんあるけど、お互いのためにも絶対そのほうが・・・・・・・・・。


「あはははは~。ごめんってれみ~」

「もう、まりあは。謝るなら気をつけてください。ただでさえあなたは――」


 コンビニを出た瞬間、出入り口ですっ転びかけて大股になって辛うじて免れる。


 そのせいで逆に注目を浴びてしまった。


 目の前にいる少女たちもその類いであることは火を見るより明らかだった。ぱちくりと大きく開いた目が、共学の色に染まっている。


 そしてどうしてここにいるんだって憤怒に塗り替えられるのに時間はいらなかった。


「あれ? パイセンじゃないスか。奇遇スね」

「う゛、ううぅん?」


 幻覚でもなんでもない。バスに乗って帰ったはずのれみとまりあちゃん。約一時間ぶりの再会。


 嘘だろ・・・・・・・どうしてここにいるんだ・・・・・・・・・。


「二人とも、ここでどうしたの?」

「あ、あははは~。ちょっとすいませんっス」


 もじもじしたまりあちゃんはお腹を抑えて一目散にトイレへ。それをぼけ~っと眺めたときに、なんとなく察することができた。


 自然と取り残された俺とれみは微動だにしないで対峙する。


 これでもかってくらいこわい顔で見上げられてくる。ちょっとこわくはないけど、後ろめたさから顔を背けた。


 コンビニに入ろうとするお客に気づいて、れみは店内へ。避ける余裕がなくて、圧される形で一歩一歩下がって、俺もまた戻ってしまう。


 れみはまりあちゃんが出てくるまで待っているつもりなのか、頻りに店内を動き回っている。さっさと出ればいいのに、と自分でも呆れたけど、彼女が心配になって残ってしまう。


 雑誌を読むフリをして、それとなくれみを見やる。いくつか商品を手にしたあと、れみは俺と同じ雑誌コーナー、というか俺の隣へ。


 ・・・・・・生きた心地がしねぇ。心臓が潰れそうだ。


「どうしてここにいるんですか、兄さん」

「え」


 信じられなくて、息を呑んでから二度見した。


 今俺のこと?


「なんですか、鳩が豆鉄砲くらった顔をして。兄さん?」


 兄さん、にいさん、ニイサン。


 小さいときと呼び方は違うけど、兄であるという認識しているからこその名称。


 例えられない感動と申し訳なさから、俯いて返事ができない。


「なんですか、まりあだけじゃなくて兄さんまで体調悪いんですか? なにしてるんですか兄さんは」

「いや、ちょ」

「はい? なんですか? ちゃんと大きな声で喋ってくれないと聞こえませんよ兄さん」


 いや、やめて。その呼び方は今の俺には効果抜群すぎる。死んじゃいそう。


「れみ、だよな」


 落ち着きを取り戻して少し。何を話せばいいか逡巡して。後ろめたさが勝っているメンタルで咄嗟に出たけど、


 「はぁ?」とれみに首を傾げられた。


「当たり前です」

「うん。だよな。そうだよな・・・・・・・・・大きくなったな」


 改めて、成長を実感する。


 きりっとした顔つきは大人っぽくて、幼い頃の名残があるけど記憶のれみと結びつかないほど。時間が経ったんだなぁってしみじみ。


「最低です」

「は!? なんで!?」

「義理とはいえ、元とはいえ・・・・・・・血の繋がりがないとはいえ、いもうとにセクハラするなんてどういうつもりですか」

「なんでだよ!」

「だって人の体を見ながら大きくなったなんて。どこのことを言っているんですか」

「違うわ!」


 隠しているつもりか。片手をバッ! と胸の前でクロスさせた。


 視覚から逸らしたいのか身を捩り、もう片手を太ももに当てている。僅かに半歩下がったあたり、冗談じゃなくて本気で勘違いしているのか。


「まりあともデレデレしながら話してましたし。大学でも先輩と近すぎる距離で一緒でしたし。いつからそんな節操ない男性になってしまったんですか?」

「穿った見方やめてくれない? 健じゃないんだから」

「兄さんも一人の男となってしまったんですね。この数年、さぞ乱れた時間を過ごしたんでしょう。それとも大学に入ってそうなってしまったんですか? 私は悲しいです」

「その台詞そのままバットで打ち返していい?」

「バットって、またいやらしい」

「どこが?」

「兄さんは変わってしまいました」

「俺からすればお前のほうが変わりすぎてるよ・・・・・・・・・」

「この変態」

「だからなんでだよ!」

「変わりすぎって、幼い義妹としてじゃなくって一人の異性に変わったってことでしょう。肉親ではなくて性的欲求を抱く存在へと変わったってことでしょう」

「お前はなんでもかんでもそっち系統に勘違いしないと気がすまないの?」


 とんでもないことを喋るもんだから、俺も緊張感とかなしに普通に喋れたりツッコんじゃったりしちゃってるよ。


「兄さん、もしかして毎日そんな食事をしているんですか?」


 手に持っている菓子パンと飲み物を目敏く発見したれみは、責めるように次いで俺の顔に移った。


「そんな食事を毎日していては栄養が偏りますよ。勉強も仕事も、体が資本です。バランスもちゃんと考えた献立をしないと。将来的には重大な病気にも繋がって、普段の生活態度にも影響して――」


 なんだろう。年下の女の子に説教されるのってすごい悔しい。情けない。というかもう義妹じゃなくて・・・・・・おかん?


「昔はこんなんじゃなかったのに・・・・・・・・・」


 何歳のころだったかな。俺がはまってたアニメのロボット。あれのストラップをほしがってれみは泣きじゃくってたっけ。


 仕方ないから譲ったら喜んでいた。


 あとスポーツとか勉強とかお手伝いとか。頑張ってやろうとするけどできなくて。俺が手伝おう教えようとすると意地になって怒ってきたり。


 頼ってくれて、後ろにいつもついてきて真似して。かわいかった。


 けど今じゃあこんな風になってしまって。


「は?」


 あ、失言だったと慌ててももう遅い。


「こんなんってなんですか? 私は規律正しくあるだけです。逆に兄さんのほうがいけないのでは? 第一、誰のせいで・・・・・・・・・」

「い、いや。立派な女の子になったなって。もう大人だなって意味だぜうん。言葉が間違ってたうん」

「おだてて話を逸らさないでください。ああ、なるほど。そういうことですか」

「え? なに?」

「だからナンパしてきたんですね。だから偽名を使ったんですね」

「発想の突飛さがもう理解できねぇよ!」

「あの長井って人と毎日誰彼かまわずナンパしまくって爛れた生活をしているのでしょう。いもうとだって気づいたけど、成長した私が魅力的すぎて、いつもの癖が出たってことでしょう?」

「お前変に自信満々だな!」

「そのまま大学の使われていない講堂に連れ込むつもりだったのでしょう? こうやって私を待ち伏せしていたのもどこかの路地裏に連れていく魂胆でしょう?」

「お前の中の俺はどれだけ餓えているんだよ!」

「男は皆狼だと父さんが言っていました」

「あんのくそやろおおお!!」

「どうせあの年上の先輩とも良い仲なのでしょう? 体だけで恋愛感情がない都合のいい関係なんでしょう?! 常にチョメチョメしたいんでしょう? いやらしい!」

「いやらしいのはお前の頭だああ!! というかチョメチョメって微妙にセンスが古いわ!」

「店内で迷惑ですよ兄さん。声を抑えてください」

「原因わかってる!? わざと?!」


 そんなこんなをしていたら申し訳なさそうなまりあちゃんが戻ってきた。れみはまりあちゃんに駆け寄って、さっき俺にしたのと同じでお説教をはじめる。


 まりあちゃんは慣れているのか笑いながら受け流している。


 しきりに髪を撫でるれみの姿は、なんだか不思議なかんじがする。表情と行為が一致していないがゆえの違和感。


 だけど、なにに対して違和感を抱いているのか。気づけていないっていう不思議な心境。どこか既視感も加わってきて違和感も強くなる。


「それじゃあにい、ウエストハイマーさん。私たちはこれで」


 コンビニを出た後、そう言い捨てて冷たく去っていく。


 まりあちゃんは手を小さく振って遅れて追いかける。


 短い時間の間にどっぷりと日が暮れてしまい、街には朧気な光しかない。どっと疲れながら見送って背中を向けそうになって、自問自答をする。


 このまま終わりにしていいのか。なにかしなければいけないんじゃないか。謝るべきじゃないのか。許されるのか。


 けど、れみは望んでいるのか。怒っているんじゃないか。人混みに紛れていって、そのまま一生会えなくなると錯覚に陥る。二人は遠目でだけど、立ち止まっている。なにかあったんだろうか。


 自然と昔の記憶をおもいだしてしまう。買い物に行ったとき、はぐれて迷子になったれみが浮かぶ。迷子センターに行ったときの所在なさげで、さみしそうで、俺を見つけた瞬間泣きだして抱きつきにきた、幼いときの記憶。


 少し早足で追いかけた。言葉も心も決まっていない。それでもいてもたってもいられない。なにがあったのかわからないけど、声をかけた。振り向いたときの顔。迷子になったときの不安そうなれみの顔と一瞬重なった。


「あ、パイセン。駅のバス停留所ってわかります? 私たちのバスそこで待ってくれてるんスよ」

 

 場所がわからなかったらしい。よほど焦っていたのか。残念ながらこことは反対方向だと説明して案内する。


 駅特有の路線バス用の広めな停留所には一台しかない。女の子的緊急事態であると認められる必要はあったのかどうか。それは今どうでもいい。


「ありがとうございました。おにい、ランドルフさん」

「お、おう」


 まりあちゃんの手前だからか、執拗にランドルフ呼びをする。こちらが帰る意図がないと察しているからか動こうとしない。


 まりあちゃんは既にバスに乗ってしまったし、ちらちらとバスのほうを見てしきりに髪の毛をさする仕草は、早くしろと急かしているみたいで申し訳ない。


 けど、また既視感を覚えてしまう。所在なさげな視線を動かしたとき、れみが持っているビニール袋が気になった。コンビニにいたとき買った、あれはたしか薬だったか?


『おにいちゃん、だいじょうぶですか? れみになにかできますか?』


 そういえば昔風邪ひいたときも、ああやってたっけ。髪の毛を頻りに撫でるように擦っていた。俺を心配して。


 それだけじゃなくて俺が母親と喧嘩した後も。それだけじゃない。随所に癖をする場面があった。あれは心配しているときの癖だって気づけたのは何歳だっただろう。


「あ・・・・・・・・・」


 不意に合点がいって微笑んでしまう。安堵と嬉しさがこみあげてきて、小さい笑い声を我慢できない。


 れみは体調を崩した友人、まりあちゃんを叱りながらも心配していた。今このときもそうなんだ。バスに乗っているまりあちゃんを気にかけている。


 幼いときからの癖と、成長したれみの落ち着いた大人っぽさとのギャップに違和感があったんだ。


「ちょっと?」

「いやぁ、お前は、変わってないな」

「は?」


 一頻り笑って落ち着いたからか、心が落ち着いている。自分が何を伝えるべきかはっきりと定まった。


「なぁ、れみ」

「どういう意味ですか?」


 予想だにしていなかったれみの反応。怒気を含んだ声音。続いてあからさまな憤怒の顔。迫力に呑まれたこともあってえ、と紡ぐはずだった言葉を失ってしまう。


「ふざけないでください!」


 パァン! 


 勢いよく頬を張り飛ばされた。


 ヒリヒリとした痛みが遅れてやってくる。


 え、え、と頭に疑問符が浮かんでいる間にれみは走ってバスに乗ってしまった。そのままバスは一息つく間に豆粒ほどの大きさになって夜の街並みへ。


「なんでだよ」


 決して痛いわけじゃない頬を押さえながら、バスが消えた方向をぽかんと眺めながら独りごちた。


 バイト先に行く決心をして移動しながら頭を捻る。なんでれみは怒ったのか。


 俺の馴れ馴れしい態度がいい加減嫌になったのか。結局俺を許していないのか。自己嫌悪で満たされていく。


 謝ることができなかった。そして今後もチャンスは永遠にこない。そんな罪悪感も相まって、生きているのが申し訳なくなってくる。

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