人魚の心臓

位月 傘


 脚に鱗が生えてきたのは、心臓を移植されてからひと月ほど経った頃のことだった。医者に行ったが原因は分からないらしい。

 いや、原因は分かっている。正確にはどういう原理なのか分からないだけだ。


「おはよう。素敵な朝だと思わない?」

 

 声の方に視線を向ければ、水面がばしゃりと波打ち、冷たい飛沫が足元を濡らす。正にその原因である、男とも女ともとれぬ美しい容姿を持つ相手は、相変わらず意図の読めぬ顔で微笑んだ。それが不気味だとか不快だとか、そういう印象を与えることは無い。だけれど私はわざと不機嫌なふりをして首をすくめる。


「私にとっては最悪な朝だった。激痛でまともに寝れやしないのに、最終的には痛みで失神するんだ。寝た気がしないよ」

「それは災難。だけど死ぬよりマシだろ?」


 けたけたと声を上げて笑っている姿は、神秘的な見目からは想像もつかないが、決して下品ではない。改めてまじまじと姿を見てみる。人間みたいな上半身、魚の尾みたいな、鱗で覆われた下半身。



 水底へ誘う半人半魚の怪物、もしくは恋に殉じる美しい存在、それが昔の人魚のイメージだ。しかし現代の人間と人魚が、世界と神秘が近づいた世界で、人魚を象徴する言葉はただ一つ、不老不死だ。


「ヤオ、いくら怖いからって、あんまりオレに当たるなよ。お前はオレの心臓ハートを奪ったんだ。むしろこっちが責任取ってほしいくらいだぜ?」

「私は怖がってなんかいない。アン、妄想をしたり顔で話すのはやめろ」

「冗談だよ。オレが本気でそんなこと言う訳ないって、分かってるくせに」


 眼鏡を軽く指で押し上げて目を瞑る。最近はなんだか度が合わなくなってきて、なんなら眼鏡なんてないほうがよく見える。それでもかけ続けているのは、もはや意地だった。

 アンは私を見透かしているのか、身を乗り出して手を伸ばし、眼鏡を奪おうとする。海の中に居るアンに合わせてしゃがんでやったりなんかしないから、当然取られることはない。

 立ち尽くしている私を見て、アンは悪戯をする子供を見るような微笑ましさを以て腕を下ろした。見下ろしているのは私だのに、ちっとも優位に立ててる気がしないのはどうしてだろう。

 

 こうして陸に出たときに邪魔だから、と言ってまとめている短い髪は、その名称の通り馬の尻尾みたいにぴょんと跳ねている。やっぱりなんでも分かっている顔をされるのは腹が立つのでその尻尾を引っ張ると、アンは「いてっ」っと声と共に降参を示すため両手をあげた。

 こんな態度を取っているけれど、私は彼のことが嫌いなわけではない。むしろ感謝していると言っても良い。

 

「心臓が無いって不便じゃないの?」

「不便だって言ったら返してくれるのか?」

「無茶言うな」

 

 この問いに真面目に返答する気が無いことが分かって、早々に切り捨てる。それに、それじゃあはいどうぞ、なんてほいほい返せる代物でもないことは事実だ。技術的にも、心情的にも。


「そもそもキミの方が自分から私に心臓を渡すことを提案したんじゃないか。今更返せだなんて言い出すな」

「例えばの話だよ。そんなこと言わない。誓ったっていい」

「誓うって、神に?生憎と私は無神論者なんだ」

「何に、そうだな……」


 アンは考え込むように一瞬水の中に潜った。それから音を立てて水面に上がると口の端を釣り上げて妖しく笑って見せ、それから私の心臓に向かって指を差した。


「オレに誓ってやる。それともアンタに誓ってるって言ってほしいか?オレはどっちでもいいぜ、どちらも同じことだからな」


 まるで言葉遊びだ。アンはきっと何かを試しているのだろう。確認しているだけなのかもしれないが、どちらにしろ気分の良いものではなかった。


「……意味が分からない」

「そっか。それなら別の話にしよう」


 アンが安心したようにも不満そうにも見える顔を覗かせたのは一瞬のことで、それから両手をパンっと音を立てて合わせ、この話を終いとした。これ以上同じ話を続けても、私の機嫌を損ねるだけだとでも思ったのかもしれない。


「それじゃあ問題。自分を自分たらしめるものとは何だと思う?」

「……それまた心臓の話に帰結しないだろうな」

「しないって!疑り深いなぁ。だけどいい着眼点だ」


 偉い先生が生徒を褒めるみたいな話し方で、彼は朗々と語り続ける。こういうところが、自分が優位に立っていると思えない要因の一つかもしれない。


「心臓は肉体にとって重要な部分だ。だけれど心臓をアイデンティティにしている者はいないだろう?その理由は?普段目に見えないから?いざとなれば代替可能なものだから?」

「……基本的に、キミの言うようなアイデンティティは複合的なものを指すからじゃないか。肉体と、思考と、所属場所とか。そもそも確固たる自己意識があるような、大きなことを為せる人なんて一握りだろうし」

 

 自分で喋ってて混乱し始めそうだったので、そこまでで話すのを止める。私は哲学家でもなんでもないので、特に面白い回答はできているとは思えないが、いったい彼は何を求めているんだろう。

 私の疑問など全く意に介さない様で、アンはなお問いを重ねる。

 

「それじゃあヤオ、自分のことだったらどう?」

「私?」

「そう、他の誰かとか一般的にじゃなくて、アンタがアンタであるとはっきり言える証拠は何?」

「……なんでそんなことを気にするんだ」


 決して時間稼ぎの意味を含んでいない、なんて言えないけれど、口をついて出たのはおおよそ素直な疑問だった。そもそも答えたくなかったのも、理由の一つかもしれない。

 この手の考えというのは往々にして即答できるものではないはずだ。だけれど答えが見つけられなかった場合には、それなりの喪失感が伴う。考えた分だけ損をする。


 アンは珍しく不完全な、へたくそな笑みを浮かべて、眉を下げる。困っているとも照れているとも判別がつかない表情だった。

 アンはいつも完璧で、彼が聞けば気分を害してしまうかもしれないが、魔性と呼ばれる性質を持っている。それはまるで物語の登場人物みたいで、同時に彼が望んで得たものには思えなかった。そして同時に私が苦手な部分だ。だって。


「ただ知りたいからさ。それじゃあダメ?」


 水滴が乗るほど長い睫毛を震わせる姿に、庇護欲と加虐心が煽られる。透き通った肌は華奢なガラス細工を連想させ、触れることさえ躊躇ってしまう。

 かっと心臓から熱い物が迫ってきて、喉につっかえた。ほら、こういうところが。


「べつに、かまない、けれど」


 負けた気分になるから嫌なんだ。勝負なんかしてやしないのに。


「私は、キミのことも知りたい」


 暴君みたいに周りを跪かせたと思ったら、子猫みたいに甘えてくる。そんなひとだ。そんなひとだから、純粋な好意からの言葉であったとしても、相手の心に届くころには歪んでいる。

 物語の人間たちはこうやって死んでいくんだろうな、なんて考えながらも、私はアンのことがとうの昔から、きっと出会ったその時から気になっていた。そして一線を越えたのは今日が初めてだった。


 アンは一転してすべて理解していたかのように、目を細めて満足そうに笑った。どぷんと音がして、アンは姿を消す。またね、なんて言って次の約束を交わしたことはないけれど、いつだってそんなことをしなくても会えるだろうという確信があった。



 床に就き、初めて出会ったときのことを思い出す。数か月前、心臓の病で余命残り僅かだと聞かされた私は、海へと向かった。特に自死するつもりは無かったのだが、うっかり足を滑らせて溺れた私を助けたのがアンだった。

 人魚に人工呼吸されるだなんてお笑い種だ。人工呼吸できる人魚というのも、だいぶ変わっているが。


「おはよう、素敵な朝だと思わない?」


 意識を取り戻して最初に見えたのは、月明かりに照らさたアンの顔だった。彼はそう言うや否や、顔を近づけて口づけをひとつ落とした。今考えると自分でもどこにそんな力を残していたのかと驚くほど、勢いよく慌てて起き上がった。


「な、キミ、なにを」

「人工呼吸がファーストキスだったら可哀想かなと」

「ばかじゃないのか!?」

「ごめんって。でも嫌じゃなかっただろ?」


 人間は、人魚のことを好意的に捉える。それは整った容姿を持つ者が多いというだけが理由ではない。砂糖が甘いだとか、陽の光が暖かいだとかと同様に、人魚は愛されるように出来ている。

 だけれどそれとこれとは、話が別だ。それに私は、ただ流されるままで居ること、それを甘受することが、なにより嫌いなのだ。

 

「……だったら?」

「え」

「不快感を与えないことと、無許可で他人に触れて良いことは別の話だろう。他の人間はこういった行動を許容してきたのかもしれないけれど、私は同情で慰められることが嫌いなんだ。そこに嘲りが含まれているなら、尚更」


 声を荒げたり、まくし立てた訳ではないけれど、それなりに威圧感を受けのだろう。そこまで言えば、アンは罰が悪そうに視線を彷徨わせた。その姿もまるで捨てられた子犬みたいで、そう見えること自体が腹立たしかった。 


「……ゴメンナサイ……。でも一言だけ言っていい?アンタってちょっと珍しいタイプのひと?」

「捻くれてるってはっきり言えば?それに、キミがしたいと思っていないのなら、罪滅ぼしのつもりでキスなんてするんじゃない」


 こちらは不機嫌さを隠しもしていないというのに、アンは私の言葉を聞いて目を丸くしたあと、何故かきらきらと瞳を輝かせだした。

 言いたいことはあるものの整理できていないのか、何度か声を出さずに口だけをぱくぱくと動かしている様は金魚みたいで、こんな間抜けな顔もできるのかと思うとそれだけで胸がすく思いがした。

 

「あ、あのさ!」


 やっと声を上げたかと思うと、興奮しているせいか音量の調整を間違えたらしく、目覚めたばかりの頭を揺らす音に思わず顔を顰める。私の眉間に皺が寄ったのを見て、彼はしまったと途端にひそひそとした声音に切り替えた。両極端性格なのだと受け入れていたが、今になって思えば、この時が特別珍しい様子だったらしい。


「まず一つ目、珍しいって良い意味の方だってこと。それで二つ目、オレに嘲ってるつもりはこれっぽっちも無かったってこと」


 彼はひとつ、ふたつと指を折る。どうやら頭の中で整理しながら話しているようで、第一印象に反して実は理性的な性質なのかもしれない、と感心したことを覚えている。


「三つ目、最後の、オレがやりたくないことはしなくていいってやつ、もしかして心配してくれた?」

「さぁね。言いたいことはそれだけ?」

「まだある。もし良かったら名前を教えてくれよ」


 この時ようやく自己紹介をしたわけだけれど、アンと言う名前は平凡すぎて彼に不釣り合いな気がした。後に聞いたら、どうやらアンというのは愛称らしく本当はもっと長いらしい。面倒がって教えてくれなかったが。


「五つ目、今欲しい物あるか?」


 彼はどうやら正しく贖罪をしてくれるつもりらしい。確かに私は怒ったものの命を助けられたのだ。何かをたかるつもりは無かった。


「心臓が欲しい」


 だから私は冗談のつもりと、ほんの少しの諦念を滲ませてそう告げた。それこそ頭のおかしいやつだと思われて、逃げ出して欲しかったのかもしれない。

 だけれどアンは私の期待を――良い意味か悪い意味かはさておき――心底嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、オレの心臓をあげる」


 いっそ恍惚としていると表現するのが正しかった。呆気にとられ、しばしの間口を閉ざした私を、彼は心配そうに見つめた。この異常な決断を、彼は最も正しいことだと信じているようだった。

 当然その場で断ったが、死にはしないからと言う彼に押し負けたのは、それからさらにひと月以上経った頃のことだ。



 其処まで考えて意識が現実に帰ってくる。眠くないからと何となくそこまで思い返していたものの、むしろ目がさえてしまった。もう本当に寝てしまおうと頭まで布団をかぶる。

 足に違和感を覚える。ほんとうは、もう痛みを感じることは無くなっていた。




 幾日か経った日の夜。なんとはなしに海へ足を運ぶことにした。もしかしたら誘い出されているのかもしれない。

 

 海辺に人の気配は無く、切れかけの街灯が時折あたりを照らしていた。なんだか鬱陶しくなって、靴と靴下を脱ぎ捨てて、水へ足を付ける。


「答えは見つかった?」


 底の見えない海面からアンは顔出してそう言った。穏やかな笑顔は、今夜はいない月明かりの代わりみたいだ。

 彼は答えを求めた。私のアイデンティティ、存在の証明。まるで面接だ。そういった確固たる己を持っている人間というのは、いったいどのくらい居るのだろう。


「見つけられなかったから、今のところは人魚の心臓を持つ人間ってことにしておいてくれ」

「あはは!じゃあオレも人間に心臓をあげた人魚ってことにしておこうかな」

「適当に流すな。キミの方から聞いてきたんだから、もっと正確な回答を用意しているんだろう」

「えぇ、言わなきゃダメ?」

「ダメ」


 本当に困っているのか、アンはおどけてみせたが、私は有無を言わさないために即答した。彼が言いたいことを隠しているのは分かっている。それにもう負けているのだから、今更何かを恥ずかしがって、語るべきこと飲み込むなんてしたくない。


「恥を忍んでキミを知りたいと言った私のことを、どうか無下にしないでくれ」


 今日を逃しても、いつか正しい答えを聞くことは出来るんだろうという予感があった。だけれど私は、それを待てるほど悠長な人間にはなれない。


「本当に知りたい?アンタは後悔するかもしれない」


 警告のつもりか、真剣さを含ませて、脅迫のようにそう問われる。だけれどその程度で引くくらいなら、初めから心臓なんてもらっていない。黙って頷けば、アンは恋する少女のように頬を上気させ微笑んだ。


 私がそう返すことを分かっていた悪女じみた仕草にも、どちらを選んでも受け入れる聖人みたいな仕草にも見えた。こんなにも彼のことが分からないのは、きっと私には無いものしか持っていないからだろう。


「きっと自分を証明することなんて、誰も出来ないんだ。そんなに多くの物を、ひとは持っていないから」

 

 世界の終焉を預言するみたいな、諦めが濃く滲んだ声音。私とは違ってなんでも出来そうな彼がそう考えているのは、なんていうか意外だ。

 私の驚きを理解しているのか、アンは小さく笑って、それからまた口を開く。


「人間が語るおとぎ話の人魚たちの姿、きっとあれは真実なんだ。恋の為に命を散らすことも、死んでしまうことが分かっていながら人間を海に引きずり込むことも、寂しさを埋めたかっただけなんだ」

「『多くの物を持っていない』から、寂しいのか?」

「そう。心の大きさに対して、隙間が大きすぎるんだ。きっと人間も同じだよ。ただそれに気づく前に死んでしまうだけ。隙間を埋めたいから、誰かを愛せずにはいられない」


 そこまで言い終えて、アンは自嘲気味に口の端を吊り上げて、視線を落とす。手持ち無沙汰になったのか、彼は結ばれた髪をほどいて、また適当に結びなおしている。


「とは偉そうに言ったものの、これを本当に理解したのはつい最近のことだ。わざわざ美しい声を捨てるほどの恋の情熱も、命を奪ってでも相手を欲する欲望も知らなかった。その日をどうにかやり過ごせば、満たされなくても生きていけると信じていたから、誰にだってキスできたんだ」

「……今は違うのか?」

「うん。許したいのも許されたいのも、ひとりだけだ」


 それは、愛の言葉に違いなかった。それならば彼は何を求めているのだろう。言葉?行動?肉体?それとも心?きっとそれらすべてだ。

 そして求めることを愛すると名付けた以上、それは私にも同じだけ返ってくる。


「アンタがはっきりした回答を持ってきてくれたなら、こんなことは言わないつもりだったのに。ひとつになれるかもなんて希望は、オレの自惚れだったと笑えるはずだった。なぁ、心臓を失ったら不死じゃなくなるのか?それなら不死でない人魚は人間か?ヤオは不老不死になったのか?アンタは人間のままでいられるのか?」

「さぁ?生憎と学が無いもので分からないな」


 突き放すための音だった。だけれど同時に悪あがきでもあった。彼に残された良心と常識が、きっと穴を埋めることを拒んでいる。

 そしてここまでお膳立てされたのだ。最後の壁を壊すのは私の役目だろう。


「オレは心臓を渡したことでヤオの体にどんな異変が起きるのか知っていた。激痛に襲われることも、それからその鱗がどこまで広がるのかも」

「……それなら、なんで?」

「アンタを一目見たとき、運命だと思ったんだ。夜空が溶けたみたいな黒髪を持った人間が海に落ちてくるのを見たとき、神様がオレだけのものを空から落としてくれたんだと思った。サンゴ礁みたいな赤い瞳と目が合って、オレはアンタの物になるために生まれたんだと思った。だから絶対、一緒に居たかった。ひとつになりたかった。――――オレの心の隙間は、きっとアンタの形に空いているんだと、信じたかった」


 愛の囁きのような言葉は、懺悔だった。誰からも愛されるなら、誰からも愛されていないことと同義だと、彼は知ってしまったのだろう。きっとアンは私のことを神様か何かだと思っているけれど、奴隷のように自分の所有物にしたいとも考えている。


「あれは贖罪のキスなんかじゃない。隷属のキスだ。…………馬鹿だっていつもみたいに言ってくれ。どうしてもアンタが欲しくて魔が差したオレを軽蔑してくれ。そうすれば、おれは、アンタのために海の怪物にならないでいられるから」


 彼は自分を罪人だと勘違いしているらしい。真実罪人だったとしたら、彼の心臓をもらってしまった私も同罪だ。あんまりにもしょげているから、つい悪戯心が湧いて不機嫌を装ってみる。その不機嫌の数パーセントは本気のものだが。


「本当に、キミは馬鹿だ。私が考えなしに心臓をもらったと、本気で思ってるの?」


 前例が無いからどのような結果になるか分からないと何度も医者に忠告された。それでも決行したのは、私もどうせ穴を埋めるなら、相手はアンが良かったからだ。

 もしかしたら、私はこの人魚に魅了されているのかもしれない。それでも良かった。だってこの憐れな人魚を愛することを決めたのは、間違いなく自分自身の決定によるものだったから。

 運命だとか、人間の本能だとか、そういったものが作用していたんだとしても、どうして彼を愛するようになったかの意味は、ちゃんと私が決めて持っている。


「そんな情けない顔するな。余計なことを心配してる暇があるなら、口説き文句の一つでも考えろ。ここまで外堀を埋めておいて、どうして最後の最後に躊躇うんだ、ばか」


 手を差し出すと、アンは何事かと言うようにまじまじと私の手のひらを見つめる。鈍感さに呆れてため息を吐く。数秒経ってようやく理由が分かったのか、アンはおずおずと私の手を掴む。手をしっかりと握り締め、ひとつ大きく息を吸って、私はどぼんと水に飛び込んだ。


「海で暮らすのは初めてなんだ。しっかりエスコートしてくれ」


 笑ってそういえば、彼もつられて笑う。その表情に罪悪感はもう見えない。私たちは狂ってしまったのかもしれない。

 海水は暖かく、肌を隙間なく覆った。それは愛に違いなかった。

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