六ノ巻37話  鬼神


 崇春は丸太ほどもある両腕を祈るように掲げ、コッペパンのように太い指を不器用に――何度か失敗しながら――組み合わせる。


「オン・ビロダキシャ・ウン! 【げき増長天恵ぞうちょうてんけい!」


 増長天の印を結んだ手を、叩きつけるように地につけた。そこから透き通るような金色の光が、湧き上がる水のように溢れ、なおも溢れ、止まらず溢れ。かがんだままのかすみを過ぎ、地に手をついた百見の肩をなで。倒れた円次と、すがるようにそばにいた黒田の体を満たし。折り重なったままの渦生と賀来を包み込む。


 潮が引くように光が消えたとき。賀来の腕から流れていた血が止まっていた。そのいくつかが失われていたアーラヴァカの多腕も、再び元の形を取っていた。

 円次も――立ち木をへし折るほどの一撃を生身で受け、ぴくりともせず倒れていたというのに――身を起こし、目を瞬かせる。


 癒しの力、それ自体はこれまでにも崇春が使ってくれた。だがこれは、そのとき以上に――


 そう思う間に、立ち上がった百見がつぶやく。

「崇春。……思い出すなと言ったはずだ」

何か考えるように額に手を当て、かぶりを振った。

「だが……まあ、いい。そこまでならいい。その力、存分に振るってくれ」


 む? と崇春は首をかしげる。

「またそれか。何の話かは分からんが、存分に使うっちゅうんはもちろんよ。さて――」


 未だ紫苑が埋もれている経典の山を見る。かなりの量を消されたらしく、すでに元の高さから半分ほどになっていた。


 百見が言う。

「見ていたかどうか知らないが、言っておく。東条紫苑はあの下にいる。谷﨑さんの多聞天が現出させた経典の下に」


 崇春は腕組みをして――腕が太く長いせいで、体の幅を大きくはみ出す不自然な格好だったが――うなずく。

「そうか。どうも、経典に対してもったいない仕儀じゃが……やる他ないわい」


 拳を握り、片手を突き上げる。古木の幹を思わせてごつごつと節くれ立つそれを、真っ直ぐ、高く。

 そして、地へと叩きつける。

 ご、と地が響き、揺らいだ。多聞天が先ほどそうしたときと同じく。

 ばかりではなかった、ご、ごごご、と音は続いた。地は揺れ続けていた。外から打たれて震えるのではなく、内から湧き上がるように。

 やがて震えが極まったとき、地は割れた――卵がかえるように。


「オン・ビロダキシャ・ウン――【ばく芽立増長がりゅうぞうちょう】!」


 土を割っていくつも芽が吹き、それが早送りのように――まるで花火が打ち上がり、空で火花を散らすように――伸び、葉を茂らせ幹を膨らませまた伸び、枝葉を太く茂らせる。

 波が押し寄せるように、それが境内を埋め尽くし。なおも止まらず、紫苑の埋まる経典の方へと向かい。その経典からさえも芽が吹き、幹がそそり立ち、根が伸びゆく。経典の山から下へ下へ、地面へと根が伸びゆく。


「な……んだ!? が……あああぁあ!」

 経典の下から紫苑のくぐもった悲鳴が漏れる中。

 経典の山は、文字通りの山となっていた。巻物の、竹簡ちくかんの書物の上にこけし草が生え、木が根を下ろし。その根が太く長く幾重にも、地面とつながり。

 今や紫苑を地に縛りつける、巨大なかせとなっていた。


 森と化した境内で、崇春が分厚い手をはたいて砂を払う。

「うむ、まずは上々よ! 次はあれを持って来んとの」

 太く長い腕を揺らし、木々の間を駆けてゆく。紫苑の方ではなく真逆、境内の入口である石段の方へと。

 そのひじが当たった木の幹がへし折れ、重い音を立ててゆっくりと倒れた。


 かすみは口を開け、目を瞬かせて、崇春の走り去った方を見ていた。

 傍らでは多聞天が、宝珠を手にしたまま同じ顔をしていた。


「…………何、ですか、あれ」


 ようやくかすみがそう言うと、百見は首を横に振った。

「何もどうもない、見たままさ。崇春はび出した、鬼神たる増長天の腕を。傷を塞ぎ、自らの腕としてつなげるように現出させた。そうして、その力を自らのものとした。鬼の腕力も、護法神としての験力げんりきも」


 ぱくぱくと口を開け閉めした後、かすみは言う。

「できるもの、なんですか、そんなこと」


 百見は肩をすくめた。

「できるも何も、現にやっているだろう。……彼ならできる、彼なら。そういうことさ」


 なおも目を瞬かせながらかすみは思う。

 おかしい。

 崇春がやっていることもムチャクチャだが。百見がそれに驚いていない。

 あるいはこれまでにも、かすみが彼らを知る以前にも似たことがあったのだろうか。だがそれにしても――


 思っている間に、地の底から響くようなうめきが上がった。経典の山の、その底から。


「が……っ、おのれ、おの、れ……おのっ、れえええぇぇえ!!」


 うめきが叫びに変わり、けるような光が幾筋も山の底から漏れ出し。経典を、草木を裂いた。


「うがっ、があああぁぁぁっっ!!」


 荒れ狂う声と共に光条が躍り、何度も何度も振るわれる。苔が跳ね飛び、根が断ち切られ、木々が揺らいで倒れてゆく。

 やがて経典の山は内からり払われ、音を立てて崩れ落ち。その中心から、東条紫苑が姿を現す。

 その頬は絶えず震え、鳴るほどに歯が噛み締められていた。


「よくも……おのれ、よくも……!」

 その片手にえるような光を宿してこそいたが。もう片方の手は折れたように力なく垂れ下がり、片脚も同じく引きずっていた。し潰されて血を吐いたのか、口元には赤黒い跡が見えた。


 それでも。放っておけばその傷は――おそらく、大暗黒天と紫苑が一体である以上は――癒える、周囲の生命の力を吸い取って。いや、さらに打撃を加えたとしても同様だろう。なら、いったいどうすれば――。


「待たせたの」

 そう思っていたとき、石段の方から崇春の声が聞こえた。とはいえ、辺りにひしめく木々に隠され、その姿は見えなかった。


 一際高く音を立てて歯を噛み締め、紫苑が声の方を向く。

「そこか……死ねぇっっ!」


 空を震わせ木々を裂き、崇春へ向かって光が飛ぶ。

 が。


「効かぬわ」


 斬り裂かれた木々の先で、崇春は確かにそう言った。

そして、確かに。放たれた光条を、受け止めていた。


「なっ……!?」


 紫苑が目を見開く間にも、光を受け止めたまま崇春が駆ける。その両手には何か大きな板状のものが、盾のように構えられていた。

「どおぉぉりゃああああ!」


 光を受けて歪みながらも、その広い盾は――何かの金属板、しかしどうも見た覚えがある――、崇春の巨大な腕に支えられ、光を防ぎ止める。

 そのまま崇春は突進し、紫苑へとぶち当てた。その盾を正面から。


「ご!? ぉ、あ……」

 跳ね飛ばされ、地に転がった紫苑の前で。

 崇春は盾をかつぎ上げ、歯を見せて笑った。


「おんしの力、もはや効かぬわ。この盾があればのう」


 歪んだ――その一部にはめこまれた、分厚いガラスが割れ落ちている――大きく平らな金属板を見て。

 渦生が木の陰から姿を現し、悲鳴のような声を上げた。

「俺の……俺の車ーー!!?」


「さあ……ここからこそが目立ちの時間よ!」

 崇春は不敵に笑う。渦生の車の運転席ドア、無理やり引き剥がしたらしいそれを構えて。


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