六ノ巻33話 誰の人生だ
気づけばそこに、かすみのいる場所に雨は降っていなかった。夜ではなかったし、かすみはその場に立っていた。
紡の記憶の中の、夜の庭ではなく。元の、小さな神社の境内――それを模した異界の一角――にいた。
紡の記憶を体感してから、かすみのひざは震えていた。
そして、広目天につかまれたままの紡自身もまた、ひどく震えていた。
小刻みに速まった呼吸の下から、時折かち合って鳴る歯の向こうから、彼女は言った。
「どうだ……見たか。見たか!」
誰も何も言わなかった、目をそらし、うつむいたままでいた。
「おう。確かに、見せてもろうたわい」
だが。崇春だけが、紡へ深くうなずいた。
未だ唇をわななかせながら、紡は無理のある笑顔を浮かべる。
「どうだい、まあまあの見世物だったろ? 見物料取るとこだぜ」
崇春は重く、首を横に振る。
「
紡の震えが止まり、頬が引きつる。
「人生? お
「むう……」
視線をそらすことはなかったが、崇春も口を横一文字に結ぶ。
ややあって紫苑が口を開いた。
「……あの頃。僕は大暗黒天を完全なものとすべく、片割れたる
視線をうつむけたまま続ける。
「そしてあの夜。
紫苑の言葉が止まる。うつむいたまま、小さく唇を噛んでいた。
「……そんなこと言ってる場合じゃなかった。僕がもう一度
かぶりを振る。
「それからそこへ走ったが。よほど慌てていたんだろうね、間抜けなことに僕も刺された。まあその傷はどうとでもなる、だが紡は。僕が父親を打ち倒し、伊舎那天を回収したときには、呼吸をしていなかった。脈拍は……どうだろうね。一応手首を触ってはみたが、分からなかった。僕自身の鼓動がひどく打つばかりでね。……とにかく無理やり弁才天を憑けた、大暗黒天の一部と共に。だが、もしかしたら。あるいはその直後ぐらいには、死んでいたんじゃないかな。医学的なことは分からないが」
小さく、長く息をついた。
「……それでも、無理やり外から弁才天を操り、大暗黒天の力を使わせ。虫の息だった母親と、打ち倒されていた父親を、吸収させ。後はとにかく、心臓マッサージをしていたよ。生きているようには見えなかったんでね」
むうぅ、と低く
「……わしが、わしらがお
紫苑の目を見、紡の目を見て言った。
「……つらかったの。いや、今もつらいじゃろう」
二人の反応が返る前に、崇春は声を上げた。
「じゃが、それよりも。これだけは聞かせてくれい……
「まるで。『僕らと同じ者を作り出そうとしている』――そのとおりだよ」
紫苑は自らの顔に手を当てていた。その手がかきむしるように、握り潰そうとするかのように震える。
「ああ、そのとおりだ。世界の全てを、あらゆる命を『僕らと同じようにしてやる』――それが、僕らの望みだ」
「……どういうことじゃ」
震える手の下で、紫苑の顔は笑っていた。そして震えていた、頬がひどく引きつっていた。
「……ひどいもんだぜ、この体は。そもそも自分の体と言っていいのか、それさえも分からないが。まあある意味では便利かも知れないね、何しろこれは『決して死なず、決して老いない』」
紫苑は手を下ろす。無理に歯を剥き出して、不自然に笑っていた。
「やってみたことがある、この体がどこまで生きるか、僕の中の時を速めて。……どうも、どこまでも生きるらしい。ある程度以上老いたら、ご丁寧にも勝手に体の時が巻き戻る。周囲の生命を吸って、また若々しくね。――僕が生まれ出たとき、至寂にあれを与えるのには苦労したよ。寺院へ持って帰る偽の証、怪仏と一体化した師とその妻子、それを倒したという偽の腕。ある程度齢を取ったところで、無理やり腕を切断して若返りを止め、どうにか壮年男性の腕を作り出せたが」
「それは……」
崇春が何か言いかけたが、紫苑は構わず声を上げた。
「なあ。どこにいるんだ、いつまでも生きる者が。どこにいるんだ、いつまでも老いない人間が。やがて明らかに不自然な年齢、明らかに不自然な存在となったとき、どこに行けばいいんだ僕らは。どこにいればいいんだ、どこにならいてもいいんだ? 僕と、紡は!」
「……むう」
崇春は
「じゃが、それならいっそ、お
百見が眉を寄せる。
「いや、おそらくそれは――」
その声をさえぎるように紫苑が笑った。吐き捨てるような声を上げて。
「は。ははは、はは。なるほどなるほど当然の案だ可能だろう、可能だろうね、多分それは。だが……それを為したとき、僕らはどうなる? そのときいったい、僕らはどこにいる」
歪んでいた紫苑の表情が、消えた。
「僕の出生のことを知っていると言ったな、なら分かるだろう。『そもそも東条紫苑という人間が、この世に生まれ出ていたか?』」
かすみは思い出していた。至寂の記憶の中で見た光景を。
――至寂の師、つまり紫苑の父は、未だ妻の胎内にいる紫苑へ大暗黒天を憑けていた。
そして至寂が、両頭愛染が師と妻を刺してしまったとき。大暗黒天は紫苑を護るため、その力を以て周囲の生命を吸収し一体化させた。すなわち紫苑と、父と母と。母についていた
そうして生まれ出た赤子は、紫苑と名乗り。至寂へと語りかけていた――。
見る間に紫苑の頬が歪み、震え出す。内から爆ぜるのをこらえているかのように。
「……どこにいる。どこにいるんだ、生まれてすぐに喋り出す赤ん坊が! その時点で自我を持ち、明確に思考する人間などが! どこに存在するというんだ!」
崇春の眉がきつく寄る。
「じゃが。じゃったらお
「知るかそんなもの僕が聞きたいっっ!!」
頭に
その頬が引きちぎれそうなほどに震える。常に楽しげな笑みか穏やかな表情を崩さなかったその顔が歪み、内から赤く染まっていた。
「僕こそ知りたいそれを、あのとき喋っていたのは誰だ、そして今喋っている僕は何だ! この僕はあのときの僕だ、だがそもそもあのときの僕は誰だ? 父・
肩を大きく上下させる、紫苑の荒い呼吸音。それだけが辺りに響いていた。
ややあって汗を拭い、紫苑が言う。
「いや……すまない。分かっているさ僕だって、あのときの僕が言ったとおりの者だって。両親と子と怪仏、それらが混ざって一体となった者、それが僕なのだろう、って。……だが、だからこそ。もしも『怪仏との一体化を解いたなら』。そのとき『この僕は、どこにいるんだ?』」
開いた両手に視線を落とす。その手は、震えていた。
「……いや、僕はまだいいのかも知れない、だが紡は。……死んでいたんだぞ彼女は、怪仏を憑けられてほどなく、おそらくその時点で。それが一体化を解けばどうなる? ……聞くまでもない」
百見が口を開いた。
「待って欲しい。……だとすれば、あなたは。『自分たちの、怪仏との一体化を解くことはできない』、つまり『
紫苑は小さく鼻で笑う。
「分かっていたさ。不完全にしかならないことも、そもそも怪仏の力に拠る願い、『必ず歪んで叶う』ことも。……構うものか」
拳を握り、
「構うものか! 僕らの願いが歪もうと不完全だろうと、この世がどうなろうとも! 本当の願いが叶うことなどない、『元の自分たちに戻りたい』などと! その『元』がどこにも無い……!」
ため息のように、紡の口から言葉がこぼれる。
「私だって、両親に死んで欲しかったワケじゃないけど。生きてて欲しいってワケでもないさ。それに、もし『元の鈴下紡と両親を生き返らせて』と願ったとして、それがもしも叶ったとして。紫苑と出会ってからの私、色々混ざった『今のこの私』はどこへ行くんだ? 無かったことになるのか、つまり……死ぬのか。『生き返ろうとしたら、死ぬ』」
唾を飛ばして紫苑が叫ぶ。
「構うものか、この世などがどうなろうと! 僕らの願いが叶わないならば! いるべき場所が無いならば! ――この世の全てを、同じにしてやる」
表情が消えていた。紫苑も、紡も。彼らの目だけが、
紫苑の口から低く低く、擦り切れるような声が響く。
「そうだ同じにしてやるよ、亡くす心配などは無い、最高の命を与えてやるよ。死への恐怖から解放して、全ての命を救ってやるよ。……死にかけた者は再び生きよ、周囲の命を喰らい、混ざって、新たな一つの命として。そうして
崇春が目を剥き、声を詰まらせる。
「むうう……!? じゃが、じゃがしかし! それではただの八つ当たりじゃ、お
「ああそうさ、そのとおりだ。これはただの八つ当たり――」
紫苑は
「不完全だろうが構わない、いくら歪もうとそれでいい。その八つ当たりで滅ぶがいい、この世よ! いや、
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