六ノ巻31話  紡と紫苑、真なる昔日(せきじつ)(前編)


 ――さぁぁ、さぁぁ、と音がした。紡はそれを遠くに聞いた。雨音を遠く、打ち寄せる波のように聞いていた――それは彼女の感覚を通し、この情景を見るかすみの内にも響いていた――。


 雨は紡を打っていた。打ち据えていた、大粒の雨がその顔面を。傘を持たずに出たならたちまち全身が塗れそぼるような雨、それを顔に受けていた、胸に腹に、全身に受けていた。あお向けに寝そべったまま。


 全身に白く飛沫しぶきを上げる、その雨粒を紡は遠い目で見ていた。いや、見ようとしたところで焦点がぼやけ、揺らぐ。

 雨粒が目に飛び込み、水の幕が何度も視界を半透明に塞いでいたが、それだけではなく。まるで遠くのことのように見える。全身で受けるこの雨音が、壁を隔てたように遠く聞こえているのと同じく。雨粒に打たれる感覚が、他人事のように思えるのと同じく。

 背中も水たまりに浸かったのかぬるま湯に浸かったのか、そもそもそこが濡れているのかどうか。そこからすでに自信がない――そんな風に彼女は思い、その感覚がかすみにも流れ込んでくる――。


 それでもやがて、紡の目が焦点を結ぶ。

 夜、自宅の明かりがわずかにこぼれる庭。そこであお向けに横たわる自分の体、制服姿の腹の真ん中。そこに突き立った大振りなナイフ。



 かすみは思い出していた。今日――どれぐらい前のことだったかすぐには分からない、色々なことがあり過ぎた――、一度見た光景。百見の力で映し出した、鈴下紡の過去。東条紫苑と彼女の出会い。

 そこで見た映像と、その後の紫苑の言によれば。


 ――約一年前。紡と母親は、紡の父に刺された。

 彼が密かに出していたDNA鑑定、その結果では紡と彼との間に血縁関係はなかった。それが示すものは、疑っていたとおりの妻の不義。

 そう確信した彼は妻を刺し、紡をも手にかけた。

 彼をそうさせたものは怒りと酒の酔いと。彼に憑いた暴虐の怪仏・伊舎那天いしゃなてん

 彼を力にて止めたのは、偶然近くを訪れていた、大暗黒天の力を宿す紫苑――。


 ――それから紫苑は紡に弁才天の力を与え、命を救ったと説明していたが。その辺りについてはあくまで紫苑の言だ、鵜呑うのみにするわけにはいかない。実際その後、シバヅキの来歴について彼は大いに嘘をついていた。

 ならばいったい、何が真実なのか。



 瞬きをする紡の目には見えた、父――着崩れたスーツ姿の中年、荒れた髪が雨で額に張りついていた。脂ぎった肌の頬がしかし、病的にこけている――が、焦点の合わない目をこちらに向けたのが。


 ふらふらと、酔ったような体の芯を失ったような足取りで近づいてくる父は。

震えていた、足もひざも肩も。何より激しく、その腕が。熱病にでもかかったかのように、その手が。赤く黒く濃く、拭えぬほどぬらぬらと赤黒く、血に染まったその手が。


「紡……紡いぃぃ……っ!」

肺の底から絞り出すように、食いしばった歯の隙間からうめくように。父は声を上げて、覆いかぶさってきた。


 紡は――こんなときに我ながら何でだ、そう彼女自身思ったが――、父親が自分を抱こうとしているのかと思った。性的な意味でだ。

 そうされたことは今までない、けれど。酔った父が戯れにそうした素振そぶりで抱きついてくることは何度かあった。


 あれが戯れだったのかそうではないのか、今となっては分からないが。少なくとも紡は今、そんなことより腹に突き立ったナイフに、覆いかぶさってくる父の体が当たらなければいいな、押し込まれなければいいな、と思い。そのくせ、身をかわす力もなかった。


 幸いに、といえるかどうか。押し込まれはしなかった。

父は紡のかたわらに、落ちるようにひざをつき。

 叩いた、紡の顔を、胸を。

 殴るのではなく、拳の小指側から叩いた、何度も、何度も。泣きじゃくる子供がそうするように。紡の名を呼びながら。


 痛みはなかった。ただ打たれるたびに視界が、体が揺れて、それが紡にはうっとうしかった。


 そして、父の顔から水滴が垂れる。

 雨なのか涙なのか。どっちでもいいと紡は思い。それよりなんだか息苦しい、いつの間にか呼吸が下手になったもんだ私は――そんな風に思い。

 それからようやく、首を絞められていることに気づいた。震えるほどに力のこもった、父の両手で。


 紡の意思とは無関係に口が開き、うめき。震える舌が天に向いて突き出されたとき。


 近くで、植え込みの間、一面に植わった芝の上で誰かが立ち上がる。今までひざをついていた、学校指定のジャージ姿の少年。――彼が東条紫苑だと、この時点の紡は知らない――。

 その腹には深々と、大振りなナイフが突き立てられていた。


 震えながら、腹のナイフを揺らしながら、紫苑は印を結ぶ。

「オン……マカキャラヤ、ソワカ……」

 その背後には浮かんだ、三眼三面六臂さんがんさんめんろっぴ――三つの顔にそれぞれ三つの目、そして剣を手にした六本の腕――、夜より闇より血よりも黒い、鬼神の姿が。

 その姿は幻のように消え。変わりに紫苑の手には、黒くもやを上げる剣が握られていた。大暗黒天が手にしていた剣。


 ――誰だろうこれ。何だろうあれ――。

 そんな風に紡は思い。


 一方、手を離して立ち上がった父の背後にも、黒いもやが立ち昇った。

 もやが寄り集まり形を取る。鬼神の姿を。

 その鬼神は青黒い肌をして、蛇のような目で紫苑をめつける。片手に三叉戟さんさげき、もう片手に髑髏どくろの杯を持った怪仏。

 この時点の紡は知るはずもないが、かすみには分かる。大暗黒天と同体、その片割れたる伊舎那いしゃな天。


 腹から血をこぼしてふらつく紫苑と、糸が切れたように揺らぐ父は。互いに歩み、駆け寄り、叫び、振るった。その手の剣を、怪仏の腕を、それが握るげきを。


 歯を食いしばり、腹のナイフを揺らしながらも剣を振るう紫苑を見て。

 ――誰かは分からないけれど。多分この人は、父さんを殺す――。

 そんな風に紡は思い。


 それから、近くで倒れている母を見た。

 珍しく早く帰ってきた母、そんな日に限ってこんな目に遭った母は。もう十歳ほど若い女性が着るような服を着て。お気に入りにその服に、その胸に腹に、いくつもいくつも穴を開けて。時折、思い出したように時折、わずかに震えながら、横たわっていた。


 紫苑の剣と伊舎那いしゃな天のげきがかち合い、白く火花を上げる下で、紡は。


 ――別に死んで欲しくはないなぁ。別にスキではないけど、父さんも母さんも。油が切れたみたいにきしんだ家族で、私だって潤滑油にもなれてはなくて。なる気だって全然ないけど。

 でも。死ぬんだろうなあ、少なくとも私は――。


 そんな風に、思っていた。

 そしてまた、今さら思う。


 ――ていうかホント、あの子誰なんだろうそれにあの鬼みたいな





 そこまでだった、紡の記憶は。

 まるで電源を切られたみたいに消え、後は何の物音も無く。

 何も見えない。黒く闇に覆われたわけではなく、まばゆい光に目をくらまされるでもなく。

 ただ全てが消えてうすぼんやりと、灰色の視界がそこにあった。映画の上映を終えたスクリーンのように。


 そのスクリーンの向こうでは、まだ何事かが起こっているのだろうけれど。

 鈴下紡には、もう届くことはない。

 鈴下紡は、もう動くことはない。


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