六ノ巻26話  熱闘、決着


 土の味がした。

 辺りには何も見えない。

 目の前に土の壁でもあるのか、紫苑の体の前面全てが何かに突き当たっていた。


「ぐ……」

 どうにか身をよじらせる。それでどうやら、分かってきた。

 紫苑は目をつむったまま、うつぶせに地面へ倒れていた。


 黒田の一撃を喰らい、ほんの一瞬気を失っていたのか。そしてその一瞬に、倒れた。

 ゆえに倒れていることも認識できず、重力の向きさえまともに知覚できていなかった。


 目をつむったままの暗闇の中、声が降る。


「いや師匠これ……死んでませんよねこれ、この人!? 僕、なんかっちゃいました!?」

「――うるせェェ。そーいやそーだわ、コイツ殺してもなねーんだったわ。どんな傷を受けようが回復すんだわ……クソ厄介なことに、敵の力を吸い取ってよォォ」


 紫苑は薄目を開け、視線だけ動かして様子をうかがう。


「そんなっ、そんなの有りかどうしたら……」

 黒田はあたふたと辺りを見回していたが、放り捨てていた自分の竹刀袋に目を止めた。

「これだ! これを裂いて紐みたいにしてですね、今のうちにふん縛って――」


「――ヌルいぜ。ちっと借りるぜ、体ァァ」

 黒田の顔の周りに橙色の粒子が集まったかと思うと、面をかぶせたようにして阿修羅の三面が形作られた。


「――拘束ってなこうやるのよ……チェェりゃァァア!!」

 竹刀に加え、火の粉のように粒子を吹き上げる刀と剣が振るわれる。その先にあるのは境内に生える木々の幹。いずれも人の脚か胴ほどの太さがある。

 それらが軋むような音を立て、枝葉をしならせ他の木々に当たりつつも倒れ込む。重なり合いながら一斉に、紫苑の方へと。


「――どォォだァァ! 何を隠そう、ぅオレはノーベル木こり賞を受賞したァァ! 昨日!」

 黒田の背を反らし、叫ぶ阿修羅。


「……ふん」

 地に伏したままつぶやく紫苑の背から。ご、と空気を震わす音を立て、黒いもやが吹き上がる。一瞬、ほんの一瞬。


 その一瞬のうちに。倒れ来る木々は全て、掌ほどもない木片へと斬り裂かれ。ばらばらばらと、地に落ちた。


 その木片と舞い散る木くずを背に浴びながら、ゆっくりと紫苑は立ち上がる。

「やれやれ、僕としたことが。ちょっと気を遣い過ぎたな……気配り上手も考えものだね」

 その背には、両肩には。黒いもやが寄り集まり、形作っていた。木々を微塵に斬り裂いた、刀八毘沙門天と八臂はっぴ弁才天の姿を。大暗黒天たる紫苑と同体化した、二尊の怪仏の姿を。


「――な……」


 一歩足を引いた黒田――阿修羅王――に向かい、紫苑は二歩前へ出る。

「阿修羅王? ちょっと手を抜いてやれば、ずいぶんと調子に乗ったものだね、えぇ? 阿修羅王よ」

 ほほ笑んだつもりだが。頬が引きつっているのが自分でも分かった。


「――ひ……」

 阿修羅はさらに身を引いたが。

 その三面が不意に激しくかぶりを振る。阿修羅の顔は粒子へと振り飛ばされて消え、その下から黒田の顔が現れた。


 竹刀を構えつつ、黒田は紫苑を見据えていた。

「あーそれいかにも、手加減してやってたぜー、負けてもしょうがないぜー、みたいな言い訳? 正直カッコ悪いですね。今のは、僕らの一本ですよ」


 紫苑は剣を提げたまま、ほほ笑んでみせる。

「おや、あれが一本と? 妙だね……平坂くんならこう言うんじゃないかな、『相手の命を取れる一撃、それが一本』と。おかしいな、僕はこうして元気いっぱいだがね」


 黒田が表情を失う。その構えから柔らかさが、余裕が消える。


 平坂云々うんぬんの話は半ば出まかせの挑発だったが。思った以上にその効果を発揮したようだった。


 そこまで考えたところで、紫苑は自分を嘲笑う。

 挑発だって? そんな戦術を必要とするほど追い詰められたのか、この僕は。最強を越えた最強の力をすでに手にし、それをも越えるものを手に入れようとする僕は。


 かぶりを振った。顔が苦く、笑みの形に歪んだ。

 そうだ。僕は、弱い。弱いからこそ必要としているんだ、望みを叶える力を。業曼荼羅ごうまんだらを。


 だが、だけど。そうして望みを叶えたところで、僕は、紡は。

 ――決して救われることはない。この世の誰もと同じに。あるいは今と変わらず、この世の誰よりも。


 わずかに横へ回り、間合いを調整しながら黒田が言った。

「確かに、師匠の言うとおり……あんたの傷、いつの間にか治ってる。こっちの力を吸い取られたみたいに、疲れた気もする。これって、つまり……」


 顔を見せず、阿修羅の声だけが響く。

「――ああ。ヤツは殺してもなねェェ。なら、どーするか分かるな」


「ええ。――殺す気でやる」

 黒田の視線は、真っ直ぐに紫苑を見ていた。その構えには固く力がこもっていたが、揺るぎはなかった。

「一本だなんてぬるいことは言わない、きれいに入らなくてもいい。どうやってでも叩き斬る。その後はふん縛ってええと、穴掘って埋めて。上から石でも木でも載せて……逃げる」


「――それしかねェェなァァ。後は、百見とかいう野郎を呼んでこれりゃイイんだが。ソイツなら怪仏を封印できるはずだ、オレ様をそうしたようによォォ」


 黒田がうなずく。

「とりあえず学校に行ってみましょう。あっちの二人が制服で来てるってことは、彼や円次も学校にいる可能性がある……というか、他に当てもないんですけど」


 紫苑は口を開けていた。ぽつり、と言葉がこぼれる。

「……すごいな」


「え?」


 紫苑は息をつき、笑っていた。苦く。

「うらやましいね、君が。実に前向きだ。絶対的苦境にあると分かっていてなお、でき得る限りの解を求め、行動する……素晴らしい」


 表情が消えるのが自分でも分かった。

「……うらやましい。僕らにも、そんな解があれば良かったのだがね」


 黒田は困惑したように目を瞬かせていたが、構えは崩していなかった。

「そっちの事情は知りませんが。興味もない、叩き斬るまでです」


 そして、音を立てて息を吸い込む。静かに、しかし真っ直ぐ、声を上げる。

「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。流派は現代剣道、プラス阿修羅の力。所属は斑野まだらの高校剣道部。剣士・黒田達己たつみ――」


「――アァァンド、阿修羅師匠――」


「いざ尋常に。勝負」


 そう言い終えた直後、黒田は動いていた。

「【修羅烈剣閃しゅられっけんせん】!」


 竹刀から噴出させた粒子を飛ばし、刃のように叩きつける。紫苑ではなく、その前の地面に、横殴りに。

 衝撃と熱による上昇気流に巻き上げられた土煙が壁のように立ち昇り、たちまちに紫苑の視界を覆う。


「何!?」

 初手から目くらましとは予想していなかった、剣道の技で来ると思っていた――こいつ何が現代剣道だ、尋常に勝負だ――。


 反射的に防御を固めた、そこへ。


「――【修羅月精結しゅらげっしょうけつ】!」

 青白い光が足下へ放たれた。枝を踏み折るような音を立て、氷が紫苑の脚を、周囲の地面ごと覆っていく。


 そして、土煙の幕を自ら裂くように黒田が跳び込む。竹刀、そして阿修羅の刀が剣が粒子を吹き上げ、三方向から紫苑へと繰り出された。

「【修羅! ――」

「――惨条剣さんじょうけん】だァァ!!」


 刀八毘沙門天と八臂はっぴの弁才天、合わせて十八の腕で受けるも、そのいくつかが焼き斬られて黒いもやへと変わる。


 黒田と阿修羅はさらに連続で剣閃を繰り出す。


 それを受けつつ、紫苑はつぶやいた。

「時よ。駆けろ」


 とたん、速まる。焦がされつつ受け手に回っていた、三面大黒天の多腕の動きが。刀が戟が多臂たひ弁才天の鎌が剣が、早送りのような速度で走り、相手の斬撃を弾き、いなし、逆に斬り込む。何度も、何度も。


 やがてそれは阿修羅の刀を、剣を弾き落とし。その二腕を、肉片へと刻んで散らせた。


「ぐう……!」

 大きく跳び退いた黒田は、しかしそこで大上段に構えた。その竹刀から炎のように、だいだい色の粒子が噴き上がる。

「なんの、受けろ……僕ら最大の剣! 【修羅――」


 阿修羅の残る二腕、そこに握られた宝珠がそれぞれ燃え上がるように、凍りつくように輝きを放つ。その光が竹刀の方へと昇り、だいだい色の粒子と混ざり合う。

 阿修羅の声が上がる。

「――日月じつげつ! 烈精れっしょうゥゥ! ――」


 黒田と阿修羅、二人の声が重なる。

「――烈剣閃れっけんせん】!!」


 竹刀から放たれたのは、燃えるような粒子でも凍るような輝きでもなく。それらが混ざり合った、澄んだ光。昇りゆく太陽そのもののような。

それが巨大な刃のように、紫苑へと迫り来る。


「その程度か」

 紫苑は片手でゆっくりと剣を掲げた。

「【三面大黒天・絶刀伐牙ぜっとうばつが】」


 振り下ろす剣は、斬撃ではなく号令だった。

 紫苑の背から、刀八毘沙門天から八臂はっぴ弁才天から、黒いもやが立ち昇る。渦巻くそれは黒く濃くこごった、もはや質量すらそなえた闇。大いなる暗黒そのもの。

 それが巨大な、巨大な刃の姿を取り。迫る光を、たやすく呑み込んだ。粉々に砕いた。辺りの木々、石畳、離れた辺りの石鳥居も、もろともに。


 声もなく吹き飛ばされ、倒れた黒田は。えぐれた地面の上であお向けに倒れ、わずかに震えていた――手加減は成功したようだ――。


 紫苑は片手を上げる。その上にもやが上がり、やがて巾着袋の形を取る。黒絹造り、金襴緞子きんらんどんすの大黒袋。


「さあ、もういいだろう。力を以て僕は示した、阿修羅王――ヴィローシャナよ」


 袋からもやが溢れ、黒田の体へとつながる。そのもやの中から引きずり出されるように、だいだい色の粒子が力なく漏れ出し。宙に浮かぶ、阿修羅王の姿を取った。

 うなだれた三面の目は閉じられ、その六腕は今や持物じぶつもなく、力なく垂らされ。足はあぐらをかくように組まれていた。


「さあ、僕の下に戻れ、新たなる世の礎となるがいい。遍く照らす者よ」


 三面の目を閉じたまま、阿修羅王の正面がつぶやいた。

「――ぅオレは……照らした」


「……何?」


「――照らした。コイツの……『敵愾心てきがいしん』を」


 右の面がつぶやく。

「――照らした。コイツの、『愛』を」


 左の面が同じくつぶやく。

「――照らした。それら業を、悟りと、等しく」


 三面の目が、ゆっくりと開かれる。半眼に開けられた、どこをも見ていないかのような目が、紫苑を見ていた。

「――照らそう。オマエの、『き場なきいきどおり』を。『る方なき哀しみ』を。照らそう、オレが――」


 気づけば。六腕のうち一組は合掌していた、国宝たる阿修羅像のように。

 足は結跏趺坐けっかふざに組まれていた。


 残る四腕のうち、一組が印を結ぶ。掌を上に、軽く伸ばした右の四指を同じく伸ばした左の四指に重ねる。両親指はその上で自然に伸ばし、互いの先を軽く触れ合わせる。

 座禅の際に組まれるのと同じ、禅定印ぜんじょういん。あるいは胎蔵界曼荼羅たいぞうかいまんだらにおいて大日如来が結ぶ、法界定印ほっかいじょういん


 そして、残る二腕もまた印を結んだ。左の拳が親指を握り込み、拳を作る。そこから人差指だけを伸ばし、その指を右手が握る。左人差指の頭にかぶせるように、右親指と人差指が曲げられた。

 金剛界曼荼羅こんごうかいまんだらにおいて大日如来が結ぶ、智拳印ちけんいん


 紫苑はつぶやく。

「お前は……お前は、何を……! 早く来い、我が下に――」

 大黒袋からなおいっそうのもやを上げ、阿修羅王を黒く包み込む。


「――オレは。我は、遍く照らす者ヴィローシャナ……照らそう、オマエも。迷いも悟りも」

 静かな声が響き。黒いもやを裂くように、光が漏れ出る。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る