六ノ巻3話 新たなる結界
――駆けていた、駆けていた。
そのもやの先、かすみに背を向けて歩むのは東条紫苑。
その行く先はどこなのか分からないが。止めねばならない、彼を。
けれど駆けても駆けても、手を伸ばしても。その背には追いつけず、遠ざかるのみ。それでも駆ける、それでも届かない。
そうするうち、どこかから声が降る。聞き覚えのある声が――
「――さん、谷﨑さん! 大丈夫か、しっかりするんだ!」
百見。百見がかすみの肩を揺すり、間近で声をかけていた。
夢。今見ていたのは夢、か。
そうしてようやく思い出した。かすみは倒れていた、屋上の床に。そう、紫苑に力を吸い取られて。
そこで目を見開く。
そうだ、こっちは夢じゃない。そうだ、そうだった、奪われたんだ毘沙門天を、最強の怪仏を。何より、黒幕たる紫苑が求めていた怪仏を。
こうしている場合じゃない。そう思って、跳ねるように身を起こして。
かすみの顔をのぞき込んでいた百見と額をぶつけ合い。互いにしばし、痛みに
傍らで賀来が息をつく。
「仲がいいのは分かるがな。何をやっておるのだ、こんなときに」
とにかく、額を押さえながら。かすみは話した、ここまでの経緯を。
紫苑が全ての黒幕であり。至寂さえも配下としていた存在、シバヅキや四大明王を操っていた者であり。傷を受けても周囲の生物の生命力を吸い取って回復する、特殊な体質であり。さらには彼の怪仏に毘沙門天を吸収され、三面大黒天とされてしまったことを。
「……っ!」
百見は目を見開き、頬をひどく歪めて口元を押さえていた。まるで叫び出すのを、こらえているかのように。
「……谷﨑さん」
君は
「……よく、頑張ってくれた。大きな怪我がなくて良かった」
そう言った、百見は。目を伏せ、拳を握り締めながらも。
かすみが口を開くより先に、謝るより先に。
百見は一つ手を叩く。
「さ、こうしてはいられない! 東条紫苑が何を企んでいるのか、はっきりとしたことはまだ分からないが。止めなくてはならない」
賀来が声を上げた。
「いや、待たぬか。斉藤くんと崇春、それに平坂もか? 無事なのか、どこにいるのだ」
確かにそうだ。心配だった、それに。
考えたくはないが、紫苑が毘沙門天の力を手にした、しかも至寂まで向こうについたのだとすれば。全員の力を合わせなくては、彼らに対抗することはできないだろう。
ただ。その全員に、かすみは入っていない。毘沙門天の力を奪われたのだから。最強の怪仏を、紫苑の目的の鍵となるらしいそれを、取られてしまったのだから。
座ったまま、深く頭を下げた。
「……すみませんでした。本当に……すみません」
両の手はひざの上で、スカートの生地を握り締めていた。
自分のせいだ。自分のせいで崇春や百見たちを、また危険にさらしてしまう。戦える力を身につけたばかりだというのに――
うつむくかすみの胸ぐらがつかまれ、引っ張り上げられる。
その手は百見でも賀来でもない。かすみの怪仏、吉祥天。
え、とつぶやく百見らをよそに、吉祥天は右手を振りかぶり、
が。顔面に食らう前に、かすみの手はそれを受け止めた。
「……二度目は、いいです」
口を開けたままでいる百見らを放っておいて。震えながらもかすみは立ち上がる、吉祥天の手を握り締めたまま。
その手を握手のように握り替えた。
「でも。お気遣い……どうも」
吉祥天はにっこりと笑う。空いた片手の人差指を立て、銃で狙うようにかすみを指した。そしてウインクしてみせる。
賀来がつぶやく。
「……よく覚えてはいないのだが。こんな自己主張してくるタイプだったか? この者は」
賀来の右目と、右側の髪の房が金の光を帯びる。アーラヴァカの低い声が響いた。
「――まったくよ。出過ぎるのも考えものぞ、奥ゆかしさのない奴め。品性に欠けておる」
「君もたいがいだと思うが……」
つぶやいた後、百見は眼鏡を押し上げた。
「それより、だ。皆の無事を確かめたい、何より状況が良いとはいえない……全員の力を合わせる必要がある。だが、崇春たちはどこにいるのか……僕たちは明王を倒した後、物音に気づいてここを目指したわけだが」
紫苑と戦っていたときの音だろう、そう考えるうちに賀来が口を挟んだ。
「い、言っておくがな! 大丈夫だったからな私……我は! 百見も! こう、危うかったときも広目天が、筆で書くやつで受け止めてくれて――」
百見が小さくかぶりを振る。疲れたようにほほ笑んで。
「賀来さん。……いいんだ、その話は。もう、いいんだ」
「……すまぬ。あの、本当、ごめんなさい」
賀来は身を縮めるようにして頭を下げていた。
「……もういいと言っているだろう。それより、元々は生徒会室で合流の手はずだった、まずはそこへ――」
二人のやり取りはよく分からないが。
かすみは思い出した。戦っていたとき、紫苑が見せたビジョン。黒いもやの中に崇春らの様子が映し出されていた。
「体育館……それに、畳の広間」
そこで崇春と斎藤、そして円次が戦っていた。
その説明を聞いて百見がうなずく。
「なるほど。まだそこにいるかは分からないが、まずは作法室を目指そう、次に生徒会室を確認して体育館へ。入れ違いにならなければいいが、それに明王の話では渦生さんもこちらに来ているはず。無事でいてほしいが……」
そこでふと、かすみは気づいた。
「でも、校内はあの壁、結界で仕切られてるんじゃ。私たち四つに分けられた組が、合流できないように」
紫苑がかすみたちを分離させたのは、かすみ一人と対峙して確実に毘沙門天を手に入れるためだったのだろう。だとすれば崇春たちと合流されないように仕切りは完全に閉じられていて、各組とつながったりはしていないはずだ。
そこまで考えて、また気づいた。
合流できないも何も、今目の前に百見と賀来が来ているではないか。
百見がうなずく。
「ああ、そもそもは完全に仕切られていたのだろう。が、今はその壁が消えている。だから僕たちもここに来られたんだ。おそらく四大明王を倒したことで結界が解かれ――」
そこで不意に眉根を寄せた。
「いや……おかしい。『四大明王を倒せば【裏獄結界】が解かれる』、そういう話だった。つまり『この異界そのものがなくなり、元の世界に帰る』はず。まだ倒されていない明王がいるのか? だが、だったら仕切りだけが消えた理由は、四大明王は何を……」
そのとき、
「いや、五大……明王だ」
見れば、階下からのドアの前で、渦生が円次に肩を借りて立っていた。片手に持ったタオルで後頭部を押さえている。そこには血がにじんでいた。
百見が声を上げ、駆け寄る。
「渦生さん! 無事ですか」
「聞け、あいつが、至寂が……裏切ってやがった」
渦生が顔をひどく歪めたのは、傷の痛みのせいだけではないのだろう。
至寂が一人で屋上に来るには、行動を共にしていた渦生をどうにかしなければいけなかったはずだ。つまり裏切られ、おそらく不意に攻撃された――
百見が同じ顔でうつむく。
「……分かってます。もう、毘沙門天は奪われました」
「遅かったか……」
渦生はうつむいていたが、不意に顔を上げた。
「待て。何だ、ありゃあ……」
その視線の先をかすみも見る。
屋上の手すりからずっと向こう、
その壁、薄墨色の結界が。広がっていた、音もなく。移動していた。学校の周りから外へと。
結界は建ち並ぶ家並をすり抜け、音もなく四方へ広がっていく。町全体をその内に取り込もうとするかのように。
そうして遥か遠く、山々の手前で止まった。まるでこの町一つが、巨大な水槽にでも収められてしまったかのような光景だった。
そして、学校の周りに再び黒いもやが立ち昇り、新たに結界が形作られる。学校の敷地を囲うように、先ほどと同じ場所に。
そのとき、低く遠く声が聞こえた。聞き覚えのある声が。
「……アサンマギニ・ウンハッタ、オン・バザラギニ・ハラチハタヤ・ソワカ。いざ結界し
至寂。紫苑の側についた――元よりそちら側だった――その人が、グラウンドの端、裏門の前で。印を結び、真言を唱えていた。
その傍らには帝釈天と
屋上の柵をつかみ、渦生が頬を震わせ顔を歪めた。
「至、寂……っ!」
至寂は渦生を見上げる。
その顔はすぐにうつむけられてしまったが、かすみには見えた。至寂はもう、いつものようにほほ笑んではいなかった。
「……おいでなさい、問いたいこともあるでしょう。ただし――力を以て問うがよいでしょう。
二人を交互に見るうち、かすみの目にとまった。裏門の先にそびえ立つ結界の向こう側、町の中を続く道を紫苑と紡が歩み、遠ざかっていくのが。
そして、同じく見えた。体育館の方からよろめきつつも、崇春と斎藤が裏門へと向かうのが。
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