四ノ巻6話  集う仲間の決戦当日


 結果から言えば、その晩は何もなかった。



 打ち合わせの後、渦生と至寂は紫苑の住居――古い公団住宅の一室だった――を交代で張り込んだ。

 かすみは崇春と百見に家へ送ってもらい帰宅。二人はその後、近くのお堂――地蔵の怪仏事件のときに崇春が野宿した場所――で、交代でかすみの護衛に当たってくれた。


 そのどちらからもこれといった連絡はなく――賀来や斉藤に連絡を取りたかったが、互いにゆっくり休むため連絡しないよう百見から言われていた――、重い体を引きずるように布団に入った。

 考えるべきことは色々あるのだろうが――自らが怪仏の力を持ったこと、その力を黒幕が求めていること、賀来と斉藤は大丈夫か、そもそも自分はあんな力を持って大丈夫なのか――そのどれもが形にならないまま渦を巻き渦を巻き、眠気の中に吸い込まれていった。体の中で泥のように重く溜まった、疲れに引きずり込まれるように。


 疲れすぎて判断が鈍っているというのもあるだろうが。明日黒幕に当たるというのに、不思議なほど不安はなかった。なぜだろう、我ながらのんきなものだと思ったが。

 一つあくびをして気づいた。


 崇春が、百見がそばにいてくれる。護ってくれている。


 そうか、だったら安心安心。

 眠気でネジの緩んだ頭でそう思い、目を閉じ。枕に柔らかく、頭の重さを預けた。


 本当に、あの人たちといると。いつだって、不安になれない。





 翌朝――黒幕を待ち受けるためかなり早朝に出たが――、いきなり攻撃された。黒幕にではない。


 登校の用意を終え、二人のいるお堂に行くと。お堂の敷地、生垣の向こうから平坂円次が姿を見せた。今日は道着姿ではなく――当然だが――、前のボタンをはだけたブレザー姿だった。

 平坂はひどく眉根を寄せ、思い切り顔をしかめ――チンピラの演技をする芸人みたいな顔だ――ずんずんと音がしそうな大股で歩み寄ると。いきなり掌で、かすみの肩を突いてきた。

「てンめェェこら谷﨑ィィ……! 何してくれてんだオイ!」


「え!? あ……いや、ごめんなさい……?」

 思わず後ずさりながら、反射的に謝った――肩はちょっと痛かった――直後に気づく。本当に、謝るべきことがあることに。

 深く頭を下げる。

「すみません……私と賀来さんで勝手なことを――」


「あァ?」

 不機嫌に眉を歪めた後、鼻息をついてまたにらむ。

「ンなこたァどうでもいい。水くせェンだよ……呼・べ・よ! オレも!」


 目を瞬かせるかすみをよそに、平坂は続ける。

「事前に聞いてりゃ野宿ぐらいするわ、知ってたら護衛ぐらいついてやッたッつーの! な・ン・で、聞いたの今朝なンだよオイ!」

 言いながら、またも肩をどついてくる。


 突かれた勢いによろめきながら――加減はしているのだろうが、男子の力だ――かすみは言う。

「いや、私が隠してたわけじゃあ……」


 生垣の陰から姿を見せた百見が言う。

「平坂さんには昨日大役を押しつけてしまいましたので。ゆっくりと休んでいただきたく、あえて連絡はしませんでした」


「大役?」

 かすみが言うと、平坂は頬を引きつらせた。

「ああ、確かに大役だったぜ。何せ……こいつら全ッ部丸投げしていきやがったからな! 品ノ川が倒れた後のこと!」


 百見から昨日のことは聞いている。馬顔の怪仏の正体が品ノ川先生で、そちらは黒幕の部下たるライトカノンを抑えようとする、いわば味方だったということ。


 百見は表情を変えず言う。

「あの場は谷﨑さんらの方に急ぎ向かわねばなりませんでした。かといって先生を捨て置くわけにもいきません……これが最適解かと」


 平坂は百見に向き直る。

「だったらお前が残りゃよかったろうが! オレが残って何説明しろッてンだよ、担任だろがお前らの!」


 百見はため息をつく。

「それはそうですが、平坂さんの方がむしろよくご存じのはずです。顧問でしょう、剣道部の」


「え?」

 かすみがつぶやくと、平坂は顔を向けてきた。決まり悪げに視線をそらしながら。

「や、顧問は顧問だがよ……あいつ剣道経験もねェし、大して部活にも来ねェ。大会とかの引率はともかくよ」

「そうなんですか……とにかく、大変でしたね。でも、なんて説明を?」


 急にうつむいて、黙った後。平坂はつぶやいた。

「そりゃあお前……『なんか……大変なんスよ、悪の組織の手が今まさに学校に』……ッて」

「それは……通じたんですか」


 沈み込むように深くうつむき、平坂はつぶやく。

「『大丈夫か?』ッて……言われたよ、倒れた品ノ川からよ」


 かすみは、何も言えなかった。


 沈黙が続き、ごまかすように大きく咳払いをして平坂は顔を上げる。

「まッ、とにかくだ! 疲れが溜まってヘンな感じに倒れたンだろってことにして、品ノ川は保健室に預けてきた。それと一応聞いたが……『誰かと話して相談に乗ってもらったような気はするが、誰かは覚えていない』ッてよ。怪仏になって駆け回って、戦ってたときのことも覚えてはねェようだ」


 黒幕のことを聞いておいてくれたのか。先生への説明というかごまかし方は無理やりだが、黒幕の情報を気にかけてくれている辺り。

 この人は決してバカではないし、怪仏事件にも真剣に向き合ってくれている――そう思えた。


 百見は小さく何度かうなずく。

「なるほど、斉藤くんのときと似ている。怪仏に操られ、意識にまで干渉されつつも、おそらくは学校と生徒を守るためライトカノンに敵対した……ということでしょうね」


 平坂は小さく唇を噛み、うなずく。

「ああ、つまンねェ先生ヤツだと思ってたがよ……あいつはあいつなりに、オレら生徒を守ろうとしてたンだ。……ありがたいぜ」

 先生に小さく頭を下げるかのように、うつむいた。

 やがて顔を上げると、かすみたち一人ひとりを見て言った。

「あいつにゃ大会の後、メシおごってもらった恩がある。その分ぐれェは返させてもらうぜ……奴の分まで、オレが守る。学校も生徒もな」


「平坂さん!」

 笑みの形に、自分の頬が緩むのを感じながら。かすみは思い切り、平坂を指差した。

「――義理堅い! ……カッコいいです、先輩は」


 平坂は目を見開いたが、口の端を吊り上げて笑った。

「……ふン。もっと誉めていいンだぜ? とにかく――」

 平坂は細く強く、吐き出すように息を吐く。それで気持ちを切り替えたかのように、眼差しが鋭くなる。硬く音を立て、自らの拳を打ち合わせた。

「黒幕とやるッつうンなら俺も混ぜろよ。黒田と品ノ川の分、そいつに返してェ借りもある」


 崇春が微笑む。

「うむっ、さすが平坂さんよ! 闘志満々じゃの!」


 口の端を吊り上げて平坂は笑う。

「当然のことだろが、お前らは後輩だしな。心配すンな、オレがきっちり守――」


 そのとき、百見の携帯が鳴る。

 スピーカーモードに切り替えたそれから、渦生の声が響いた。

『揃ってるか! 聞け、奴がもう――』


 百見が応える。

「家を出たんですね、学校の方へ、それとも――」


 その言葉を食い気味に携帯から、渦生の携帯が拾った音声が響く。東条紫苑の発する、真剣な声が。

『――します、どうかお願いします! 彼女を……谷﨑かすみさんを、僕に下さい!』


「むぅ!?」

 崇春は眉を寄せる。

 百見と平坂も顔を見合わせた。

 そして同時、かすみは口を開けていた。

「な……なんでそうなるんですかーーっっ!」


 その声に、携帯の向こうから反応があった。東条紫苑の朗らかな声で。

『やあ、谷﨑さんかい。昨日はどうも、おかげで助かったよ。学校の前庭もずいぶんきれいになった』


 その話が剪定せんていの片づけを手伝ったことについてだと、気づくのに時間がかかった。


 その間に紫苑が言う。

『それと、いくつか謝らせていただくよ。まず、昨日のその後。うちの者が大変失礼をした、申し訳ない。ようく言い聞かせておくよ、鈴下紡と帝釈天にはね――それともう一つ、さっきのは言い方が悪かった、まるで求婚だ。要は、君の力を貸してもらいたいということ。君の怪仏、毘沙門天の力をね』


 覚悟はしていた、こちらから追求するつもりだった。それでもかすみは息を呑んだ。

 その話をその名を、この男が自ら言ったということは、つまり。


 携帯の向こうで渦生が言う。

『やはり……てめえが黒幕か。一連の怪仏事件の』


 落ち着いた様子で紫苑の声が返る。

『そう取ってもらって間違いではありませんがね。少し説明したいことも――』


 そのとき、携帯の向こうから。つぶやくような声が聞こえた。念仏のような低い響きと一定の速度を保った言葉が。

 そしてそれ――至寂の声――が一際高まり、聞こえた。

『……にして不動なる者、明呪みょうしゅの王よ! 大日の化身にして聖なるその姿を今こそあらわせ! 帰命頂礼きみょうちょうらい……大日大聖だいにちだいしょう不動明王!』

 同時に上がった、燃え盛る炎の音が。


 思い詰めたような至寂の声が聞こえた。

『覚悟なさい……大暗黒天。貴方を二度と自由にさせてはおきません。もう、二度と』

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