三ノ巻20話  音が聞こえる


 ――一方、それより前。


 かすみと賀来、斉藤は夕暮れの道を帰っていた。生徒会の二人――会長、東条紫苑しおんと書記の鈴下すずしたつむぎ――は片づけをするとのことで、校門の所で別れていた。


 前を行く斉藤は油断ない様子で、辺りをうかがいながらゆっくりと歩を進めていたが。

 辺りには田畑の広がる中、民家がぽつぽつと、少しずつ離れて建っている。まるで指先でそれらをつまんで、ぱらぱらと軽く地にまいたみたいに。無論その景色のどこにも、怪しいものは見当たらない。そもそも人通りが見当たらず、車が通るのすら時々のことだ。


 賀来が言う。

「そんなに気を張らなくてよいぞ、斉藤くん。この分なら何もなさそうだし、崇春たちの方が先に終わらせるのではないか? そしたらそれで安心であろうし」


 かすみは言う。

「それはそうですけど、敵は二体いるわけですし。それに百見さんの話じゃ、狙われているのはむしろこっち――」


 そこまで言って気づいた。同じく百見の話では、狙われているのは『こっち』ではなく。

 敵に把握された『怪仏を持たない無力な者』、かすみだった。さらに言えば賀来と斉藤は、敵に把握されていなかった可能性もあり。ただ、今かすみについて守ってくれている、それだけで危険にさらされている。


 肩に、頭にのしかかるようなものを再び感じ。かすみは歩みを止め、その重さのままに頭を下げた。腰より深く。

「……ごめんなさい」


 二人が足を止め、振り向く。


 かすみは頭を下げたまま言った。

「ごめんなさい、本当に。お二人まで巻き込んで、危険に――」

「だああああっ!」

 不意に、賀来がいら立ったように声を上げる。潰すように握りかけた形の手を宙に払う。

「それ前も言ったであろうが! 学校出る前に! 終わった話を蒸し返す奴だなお前は!」


 腕組みをして続ける。

「だいたいだな、我らは巻き込まれた覚えはないわ。そなたやら自分やら崇春ら、怪仏……そうした諸々のことの当事者としてここにおるのよ」


 斉藤は無言だったが、うなずいた。そして、親指を立ててみせる。真顔のままで。


 顔を上げていたかすみは目をつむって。また礼をした、さっきと同じぐらい深く。

「お二人とも。ありが――」

「だからやめろ!」


 賀来は横に並び、かすみの手を取る。

 顔を上げたかすみにささやく。目線を遠くへそらしながら。

「……そもそも、忘れたのか。死の他は、何者も我らを引き裂けぬ」

 慌てたように顔を――目をそらして口の辺りを――見て続ける。

「も、もちろん帰るまでは、だがな!」


 かすみはまた頭を下げそうになって、けれどやめた。

「はい」

 ただそう言ってほほ笑み、手を握り返す。


 賀来は急に前を向き、歩き出しながら片手で顔をあおぐ。

「ふ、ふん、何だな、ちょっと歩きすぎたな、暑いな今日は! しかし――」

 辺りに目をやる。広がる田畑やその向こうに続く山並みへ。

「なんというか。こんな田舎で、そんな事件というのも妙な感じだな」


 かすみは首をかしげる。

「そうです? ある意味むしろ似合ってるような……山あいの村に突如起こった惨劇! 鍵を握るのは謎の仏! そこにふらりと現れた名探偵……みたいな。横溝正史先生の作品世界というか」


 賀来が思い切りため息をつく。

「気楽だなお前は……でもそうか、崇春が探偵か。ちょっと面白い――」

 そこまで言ったとき。不意に賀来の口が止まる。


 しばらくして、小さくなった声で続けた。

「でも、探偵ってことは。これが解決したら、帰っちゃうのかな」


 かすみの足が止まりそうになり。けれどもどうにか、そのまま歩き続けられた。


 そうだ、考えてみれば。言っていた、斑野高校でのみ頻発し始めた怪仏事件、それを解決するために転校してきたと。校内を自由に調べられるよう、高校生である二人が。

 だったら。黒幕が分かり、全てが解決すれば。二人がここにい続ける理由はない。


 賀来は強くかぶりを振った。銀髪交じりのツインテールが揺れる。

「いや……それこそ今考えることじゃないな、やめよう、やめようこの話! いやーそれよりやはり、田舎だなここは。あの会長ではないが、確かにイノシシなんかが出ても――」


 言ううちに少し先、道の片側を覆うように続く竹林。その辺りから、何かが動くような音がした。生き物が笹を踏み分けるような。


「ひ!?」

 賀来が声を上げる間に、音の主が姿を見せる。くすんだ色の野ネズミが顔を出し、すぐに竹やぶの中に消えた。


 かすみは言う。

「なんだ。ネズミ……それにしても、なんだか。妙にネズミを見る日ですね」

 会長と話していたときもそうだった。それまで学校でネズミなど見たことはなかったが。思ってみれば、それがあったせいで会長が植木を剪定し出して。流されるようにかすみたちが生徒会活動を手伝い、遅くなったのだった。


 そのまま歩き、竹林の横を通っていたとき。不意に後ろから自転車が走ってくる。ごく普通のママチャリを立ちこぎで快走させるその女子には見覚えがあった。

「よっ」

 立ちこぎの姿勢のままブレーキをかけてぴたりと止まり、片手を挙げてみせたのは。生徒会書記、鈴下紡。


 三人、小さく頭を下げる。

 かすみとしては別に話したいわけではなかったが、あいさつの言葉ぐらいは交わしておこうかと思った。


それより先に鈴下が言う。

「帰りですか、ちょうど良かった。さっきのアドバイスじゃあんまりだと思ったんでね、もう少しちゃんとしたことを言っておこうかと思って、ね」

 路肩に自転車を止め、手刀を突き出して斉藤と二人の間に割って入る。

「ああすまない、女の子の話なので。ちょっとこちらの方はご遠慮いただきたいですね~」

 手刀をそのまま、拝むように斉藤に向ける。


「……ス。先輩。……オレら、用事あるんで……急ぐ、ス」

 無表情のまま斉藤は答えた。


 賀来が指で頬をかく。

「あ~、そうだな。そうなのだが、せっかく来てくれたんだし……聞くだけは、一応」


 鈴下は斉藤へ首をかしげてみせる。

「だそうです、ちょっとねー、プライバシーにもかかわるのであちらでお願いしたいですね~」

 少し離れた辺りを、バスガイドみたいな手つきで示す。


 賀来は離れていく斉藤と、鈴下を見比べながら言う。

「あ~その、先輩。気持ちはありがたいのだが、言ったように急いでるので。二言三言でいいんで、手短にお願いしたい」


 落ち着きなく何度も地面を踏む、賀来のつま先を見ながら。ふと、かすみは気づいた。

 なんでプライバシーのために、斉藤さんは遠ざけられて。私は残されているんだろう。


 鈴下は苦笑する。

「いやほんと、一言は我ながらひどかった。今度はもうちょい喋らせてもらいます。まず……そう、お相手の男の子ですが彼――おや、何だろう」

 言って目を遠くへ向け、それから耳をそちらへ向けた。

「何だろう……音がする。カーン、カーンと音がする」


 言われて、耳を澄ませてみたが。特に何も聞こえなかった。


 かすみらが何も言わないうちに、耳を澄ませたままのうちに。鈴下は言葉を滑り込ませた。

「いや、音はしているんだ、今もしているカーン、カーンと音はしている。耳を澄ませて、響いてくるカーンカーンと。足からすでに響いてきた、カーンカーンと響いてきた」


 分からない、鈴下が何をそんなにこだわっているのか。正直さっさと話を進めて、帰してほしい。もう耳は澄ませていない。


 なのに、カーン、カーンと音がした。


 鈴下が言葉を継ぐ。

「そうだね耳は澄ませていない、君はとっくに聞いていない。けれど確かに音はして、カーン、カーンと二度響いた」


 賀来が目を瞬かせ、遠くを見た。次いで別の方向を、さらに空を。

 気づけばかすみもそうしていた。聞こえる、カーンカーーンと。音のする方を次々探るが、それはどこか分からない。


 鈴下は言葉を紡ぐ。

「カーン、カーンとまた響いた。けれどもそれはまるで空耳、どこにも聞こえぬ空耳の音。けれどもほら、また響いた」


 カーン、カーンと聞こえてきた。かすみはとっくに耳を覆って、それでもそれは聞こえている。たぶん、同じことをしている賀来にも。


「そうら聞こえた、空耳のはずが。それは君にまとわりつく、蜘蛛糸のように粘りつく、カーン、カーンと音がする。空耳のそれがまた聞こえる」

「聞こえぬそれはどこから聞こえる? カーンカーンと頭の中から。蜘蛛糸のように粘りつく、それは頭蓋の裏側に。カーンカーンと音がして、君の脳に蜘蛛が巣を張り、君は決してかき出せない。君の頭の中が鳴る。ああほらまたもや、カーンカーンと。音は決してかき出せない、それは君の脳みそだから。かき出したければ脳をかき出せ、君の全てをここにかき出せ。ああ、ああそれでもまたしても、空の頭の中でほら。カーンカーンと音がする」


 もうはっきりと聞こえていた、カーーン、カーーンと聞こえていた。賀来が何か口を動かしたが、何と言ったか聞こえない。鐘の音だけが、耳をふさいでも鳴る鐘の音だけが頭の内を交錯して、その震えのみで耳孔が満たされ、弾け飛ぶほど鼓膜が震えて。もう何も聞こえない。


 なのに鈴下の声だけが、とろり、と冷たく流れ込む。


「そう、カーン、カーンと音がする。聞け」

「聞・け。私はお前の名を知っている」

「聞・け。私はお前の目を知っている」

「聞・け。私はお前の欲を知っている」

「聞・け。私はお前の味カーン、カーンと音がするを知っている」

「聞・け。私カーン、カーンとはお前の匂いを知っていると音がする」

「聞・音がする音がする私はカーン、カー知っているお前がンと音が嫌うものカーンカーンと」


 鈴下の声は鼓膜から入って頬に染み込み、舌の上に、とろ、と溜まった。

 かすみは舌を丸め、その先で鈴下の声を舐めた。冷たく、甘い。


「聞け、私はお前の名を川に流してしまった。聞け、私はお前の目を井戸に捨ててしまった。聞け、お前の欲は今も池に溜まっている。お前の味は汲み上げられ私の喉をうるおしてしまった。お前の匂いは雨となり降り注ぎ万人を濡らしてしまった。お前の嫌うものはもう海に流れ出て、どこまで行ったか誰も分からない」


 鈴下の声は染み込んでいた。鼓膜から染み込んで脳の隙間へ――あるいは脳などすでにかき出してしまったのかもしれないが――ちゃぷちゃぷと流れ込み、冷たく青く快適にかすみの脳を――あるいは空っぽの頭蓋を――満たしていた。森林を模した芳香剤の香りがした。


「聞け。お前はもう流れてしまった、捨てられてしまった飲まれて散って見失われた失われた。ただお前の欲が残った、それだけが池に溜まっていた」


 気づけば、鈴下が目の前にいた。手を取られていた。冷たい脳髄と同じ温度の全身の中、その手だけが温かかった。そこだけに、かすみの体があるような気がした。


 見れば、賀来も手を取られていた。ほうけたような、焦点の合わない目で鈴下を見ていた。小さく開いた口の端からは気持ちよくよだれが垂れて、多分かすみも同じような顔をしていると思われたけれど、それ以上の感慨は湧かなかった。


 辺りに目をやれば、いつの間にか霧が出ていた。視界全てを白く覆う霧。その中で、離れて立っていた斉藤が倒れていたけれど。どうすべきかは考えが湧いてこなかった。それを考えるべきと言う考えも、水の流れにさらわれるように消えていった。


 鈴下の声だけが聞こえる。絹のような心地で頭蓋の裏側をでる。

「さあ、ここにお前の欲を持ってきた。水に濡れたそれを持ってきた。水を吸い膨らんだそれを持ってきた。さあ、お前はもうそれしか残っていない。その欲しか残っていない。さあそれを育てよう、お前の脳にうずめ、胸に――」


 そのとき。ずぅ、と這いずる音がした。ずぅ、ずぅ、と低い音、快さのない音。それでも音は続く。途切れさせまいという意思を込めているかのように続いている。

 それはかすみと賀来の足下を過ぎ、その先へ。


 アスファルトの上。歯を食いしばり、地面を這いずってきた斉藤逸人が。その太い両手で、鈴下紡の足をつかんでいた。


 斉藤は歯を剥いたまま、身を起こせぬまま。鈴下の目をにらむ。


 二人の手を取ったまま。鈴下は足下に顔を向け。ぬた、と笑う。

「ふぅん、私のパンツでも見に来たかな。つくづく残念だ、もう少し短いスカートを履いてきていれば、いい景色を見せてあげられたんだがね。それにしても」


 かすみの手を離す。下を向いたせいでずれた、分厚いフレームの眼鏡をかけ直す。

「妙だね。言葉の神仏かみたる我が怪仏の力、その言葉を流し込まれて、まだ自らの意思で動けるだなんて」


 身を起こそうと手をつき、その肘から力が抜けて。顔を地に打ちつけつつ、斉藤はまた顔を上げる。

「聞き覚え、ある……ス。あなたの、声。今の、詩みたいな」


 鈴下の顔が固まる。

「詩みたいな、ではなく、詩だが。まあいい、作品をどう受け取るかということは結局最終的に受け手の問題であり、よって受け手自身の感性に――」


 耳を貸した風もなく斉藤は言う。

「聞いたことある、ス。オレ、だけじゃない……怪仏、が」

「あぁあ?」


 はっきりと鈴下は顔をしかめた。

「そりゃそうだろうが、君には怪仏を憑ける前も憑けた後も、うたってやったことがあるが。だから何だ、もういない怪仏のことなど――」


 顔を下ろし、斉藤は言う。

「それより。やめてもらって、いいスか。……この人たちの、こと」


 鈴下は斉藤から視線を外す。

「嫌だね。その理由がなく必然性がない。――さあ、お前の頭に埋め胸に埋め――」 


 再びうたい始めた鈴下に、斉藤が聞く。

「あの。リンゴジュース、好きっスか」

「あぁ? ――そしてその手に腹に埋めてしまった。それはすでに根を――」


 うたい続ける鈴下に。つぶやくように斉藤は言う。

「オレは、別に。ただ……得意、ス。作るのは……リンゴ握ったら、できるんで」


 握った。グローブのような斉藤の手が。ただの女子の足を、そのか細い足首を。リンゴを絞り潰すという握力で。


「張っ……おごっ、あっがががっがあ、がががああああ!?」

 低く大きく響いたその悲鳴がつんざいた。辺りの静寂を、かすみの耳を。その声は乱暴に鼓膜を駆け抜けて脳へと押し入り、跳ね回り。頭の中のもやをも引き裂いた。


 とたん、バランスを失ってかすみはへたり込む。吊り下げられていた糸が切れたように。見れば賀来も同様だった。

 とにかくかすみは地面を後ずさり、鈴下から距離を取る。まだ、立ち上がるほどの力は入らない。


「がっがっがががああああ! あああ痛ってえええ!?」

 横倒しに座り込み、頬をひくつかせて足を押さえる――描いたように赤く指の跡が残る、つかまれた箇所は触っていないが――鈴下に。


 震えながら立ち上がる斉藤が、膝に手をついた姿勢のまま言った。

「先輩。地声、汚いスね。バカ」


 鈴下ははみ出そうなほど目を見開き、歯を剥く。

「あああじごっ、うたってたときのが地声に決まってぁ痛ったああ!」


 足を押さえてのたうちまわる鈴下に。ゆっくりと立ちながら斉藤は言葉を投げる。

「悪口、苦手なんで……このぐらいしか、ッス。……あとオレ、頭古いん、で。女の子、に、手上げられない、ス。あとオレ、武道家の端くれ、で……暴力も、振るえない、ス」


 今、完全に立ち上がった斉藤は。真っ直ぐに鈴下へ目を向けた。

「けど。それ……捨てます。この人を護るためなら、今だけは。男女平等、暴力上等……ス」


 今、巨大な男は。

「先輩。もっと汚い地声、上げることになる、スけど。オレ、謝らない、ス」

 巨大な足でアスファルトを踏み締め、巨大な拳を握り。構えた。


「……申し訳ない、ス」

 そしてもうすでに、小さな声で謝った。


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