二ノ巻17話  二人の怪仏


 寄りかかられ、崇春はその場に膝から崩れ落ちた。ただ、両の掌だけはぴたりと合わせたままだった。


 言葉はなかった。そのままの体勢で二人はいた。荒い息と、喉のかすれる音だけが聞こえていた。


「なんだよ……これ」

 絞り出すように言ったのは黒田だった。

「なんで、だ、これだけ打って、あれだけ、打ってそれでも……何も、変わりやしない……勝ちたいって想いだけがこびりついて、いや、もやもやと、つかみどころもなく胸に! 頭に! 漂って消えない……なん、なん、だよ」


 頭から流れる血が崇春の髪を濡らし、鼻筋の横を流れ落ちる。

「むう……それは――」

 崇春はそう言って、血と汗の染みた目を強くつむる。

「――すまぬ、分からん」


「……そう、か」

 黒田が身を起こし、地面の上を後ずさる。竹刀をかたわらに置き、崇春へと深く、頭を下げた。

「そうだな、すまない……こちらこそ、何というか、本当にすまない。君にここまで――」


「む? 分からんと言えば、じゃ」

 ふと何か気づいたように、崇春が目を瞬かせ、眉を寄せる。

合掌を解き、目元の血を拭ってから続けた。

「渦生さんをあれほど追い込んだのは、おんし一人ではあるまい……渦生さんと戦うて無傷でおれるはずもないからのう」

 神社に向かう途中、炎が輝き爆音が聞こえた。あれほどの大技を使ったのなら、相手が無事で済むわけはない。

 だが、出会ったときの黒田も阿修羅も、攻撃を受けた様子はなかった。それなら渦生は誰と戦ったのか。


「それ、は……」

 なぜか焦点の合わない、遠い目をして。黒田は視線を上に向け、何度も目を瞬かせた。まるで、遠い記憶を思い出そうとするかのように。

「それ、は。円次だ、円次のんだ怪仏……帝釈天たいしゃくてん


 崇春はさらに眉を寄せる。

「むう? しかし、今回の怪仏騒ぎ、正体はおんしなんじゃろう? 何故平坂さんが怪仏をべる?」


 黒田もまた眉根を寄せた。それから何度か目を瞬かせ、思い出したようにつぶやく。

「そう、だ……この力を、もらった時……頼んだ、僕は、円次にも、同じ力をと……あの人に……」


「むうっ?」

 崇春は、ずい、と黒田へ顔を寄せる。

「もろうたじゃと? 怪仏の力を。そりゃあ誰にじゃ、いったい誰にもろうたんじゃ!」


 黒田は手を片目に当てる。もう片方の目は何度も瞬かせる、口を半ば開けたまま。何かを思い出そうとするように。

「それ……は……」


 そのとき。声が降った。

「――バカが」

 二人の上から声が降った、聞き覚えのある声が。阿修羅の声。ただしそれは太く鎮守の森に響いた。黒田に叩きのめされた、小さな阿修羅の声ではなかった。

 崇春が顔を上げた、そのときには。頭上から、巨大な足が踏み下ろされた。まな板ほども面積のある、薄紅色の足が。


「むうっ!?」

 踏みつけられ、地面にはりつけにされた格好で崇春は見た。自身の倍ほどもある、巨大な阿修羅を。

 そしてそれが、六本の腕で。踏みつけられた崇春へ、掌打を叩きつけてくるのを。


「――チャハハハーっ! ねっ、【修羅俎上撃しゅらそじょうげき】ィィ!」

 土砂降りのように繰り出される巨大な掌打を――自らの足に当たらぬようにか、爪での刺突でこそなかったが――、幾度も食らう。避けようもなく踏み止められ、衝撃の逃げ場のない、地面を背にした状態で。打ちつけるてのひらと、打ちつけられる背後の地面――二重の衝撃。それはいわば、掌打による爆撃。


「ご……お、あ、あ……」

 打撃の雨がんだとき。崇春は踏みつけられたまま、うめき声を上げていた。わずかに震え、もはや焦点の合わない目を、空へ向けたまま。


 どうにか身を引いていた、黒田が口を開く。

「な……阿修、羅、何を……」

竹刀を杖に立ち上がり、続ける。

「何をやってる、やめろ! もういい、もういいんだ! そんなことをしても――」


阿修羅が振り向き、正面の顔を黒田に向ける。

「――もういい、だァァ?」

 右の面が言葉を継ぐ。

「――何がだ! 続けようぜ、いたぶり尽くせよ憎いこいつを! お前はどうだか知らねえが……たぎってきたぜオレのごうはァァ!」

 左の面が言葉を吐く。

「――それによう、達己たつみィィ……あのお方のことはナイショだ、そうだろう? そんなことも忘れたてめぇにゃあ……お置きが必要だなァァ!」

 阿修羅は崇春から足を離し、黒田へと腕を伸ばす。


「くっ……!?」

 黒田は竹刀を構え、その腕を振り払おうとするが。振るった竹刀は、阿修羅の腕を通り抜けた。だいだい色に薄く光る、粒子と化した阿修羅の体を。


 阿修羅の声が聞こえた。

「――オレは業、お前の業、そして積もった人の業! 特定の者への『敵愾心てきがいしん』、それがオレとお前の業! オマエはすでに『阿修羅王』なりィィ!」

 粒子の群れは渦を巻き、竹刀を、腕を駆け上り。たちまち黒田の体を取り巻き。その身の内へとみ込むように、消えた。


「……」

 竹刀の先を地に下ろし、黒田は宙を見つめていたが。ひと瞬きした後のその目は、だいだい色の光を宿していた。

「僕は……僕、は……」

 阿修羅の声が続けて響く。

「――お前は阿修羅王……お前は、オレだ」

 その身からはだいだい色の粒子が立ち昇り。震える唇は二種類の声をつむぐ。

「僕は……お前……」

「――そうだァァ、お前は阿修羅王。争いのおさにして『敵愾心てきがいしん』の怪仏。だったらどうする、誰に向ける。煮えたぎるその業をォォ!」


 瞬く黒田の瞳が、倒れたままの――さすがに打撃に耐えかねたか、今や、ぴくりとも動かず。そのまぶたは閉じられていた――崇春を映す。


 切先を地につけたままの竹刀を、握り直そうとしたそのとき。


「みっともねェ」

 つぶやく声が聞こえた。平坂円次の。

 円次は立っていた。顔をうつむけ、月明かりから隠れ、影のように。


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