第5話  帰り道に


 その後も思いつく限りの地蔵像を巡ったが、特に収穫はなかった。分かったのはこの町に、意外に多くの像やお堂があるということ。そして、それを歩いて回ろうというのが無謀だったということだけだ。


日はもうとっくに暮れている。西の空にわずか、燃え残った炭のような赤味が残るのみで、雲の出始めた空には星さえ輝いていた。


「ふむ、もうこんな時間か。今日はこの辺にしておこうか」

「そう、ですね……」

 答えながらかすみは両手を膝についていた。運動部に所属したこともなく、これだけ歩いたことも数えるほどしかない。校内マラソン大会か遠足ぐらいか。軽く膝が震え、ふくらはぎは筋が張って、既に筋肉痛すら起こりかけている気がした。


 崇春が言う。

「うむ、谷﨑のお陰でずいぶん助かったわい。さて、家はどっちじゃい」

「え?」

「すっかり遅うなってしもうたけえのう、何かあってもいかん。わしらがきちっと送っちゃるわい」


 紳士的な申し出で、なんだか意外にさえ思えた。けれど、そこまでしてもらうほど遅くはないし、この足では二人に余計な時間を取らせてしまうだろう。


「いえ、大丈夫ですから」

 膝に手をついて身をかがめた姿勢のままそう答えたが。


 崇春はかすみの方に背を向け、かすみ以上に身をかがめながら。手を後ろ――かすみの方――へ広げ、滑り込むように近づいてきた。


「へ……ひえっ!?」

 次の瞬間。大地が丸ごと隆起したかのような力で、かすみの体は宙に浮き上がった――崇春の両手で両脚の裏側を抱えられ、その広い背に体を乗せられて――。要はおんぶされていた、軽々と。体ごと跳ね上げられるような勢いで――そのせいでスカートがまくれ上がる、無防備な感覚が一瞬あったが。後ろに誰もいないのが幸いだった――。


 思わず膝から離していた手が、反射的に崇春の肩へ伸びる。抱きつくようにぴったりとしがみついていた。

「あ……や、ちょ、な、~~!?」

 声にならない言葉を口の中で叫び、手を離してもがくが。崇春の背は分厚く腰は太く、大木のように揺るぎなかった。


 前を向いたまま崇春が言う。

「さ、どっちに行けばええんじゃ。時間取らせてしもうたけえのう、猛ダッシュで送っちゃるわい! さあ遠慮はいらん! さあ、さあ、さあっ!」

「~~や、ちょ、待っ――」


 そうしてかすみがもがくうちに。つかつかと歩み寄った百見が、おもむろに本を振りかぶり。乾いた音を立てて崇春を叩いた。

「痛ったああああ! 何すんじゃい百見!」

「何してると言いたいのはこっち……いや、谷﨑さんの方だ! まったく、朝刊の見出しはこれで決まったな。『生臭坊主ついに御用! 女子高生の太ももに伸びるセクハラの魔手!』明らかにこれは訴えられる。そして負ける」


 そして叩きつけるような勢いで――眼鏡がちょっと宙に浮いたほどのスピードで――深々と頭を下げる。

「すまなかった谷﨑さん! だが彼も悪気はなかった、そして思慮もなく……何より知能もなかったんだ! 許してやってはくれないか!」

 さらに何度も頭を下げる百見を、かすみはおぶわれたまま見ていた。


崇春が声を上げる。

「うおおおお! すまなんだ、すまなんだあ百見! おんしに、おんしにそこまで謝らせるなんぞ……わしゃあなんちゅう過ちをしたんじゃああああ! 許してくれ、許してくれい谷﨑ぃぃぃ!」


 かすみはおぶわれたまま、二人の男が頭を下げては上げてまた下げるのを見ていた。その度に、崇春の上にいるかすみの体もまた上下していた。振り回されるような勢いで。

「~~、あ、あのっ。もっ、もういいで、すからー! 下ろっ、して! 下ろし、て下さいっ!」


 かすみがどうにか地面に立ったとき、二人の男は額の汗を拭って息をついた。そこからさらに、崇春は深く頭を下げる。膝に顔がつきそうなほどに。

「すまなんだ、すまなんだ谷﨑ぃぃ! わしが悪かったあああ!」

 その頭を百見がさらに押さえつける。

「ええいぬるい、ぬるいぞ崇春! その程度で谷﨑様が納得するものか、五体投地して拝まんか!」


 その言葉はチベットかどこかでのドキュメンタリーで聞いたことがある。その土地の仏教での礼拝だ。確か地面に頭や体をつける、土下座以上みたいな感じの。


「や、あの……いいですから! そこまでしなくていいですからーー!」

 投げ捨てるように言って、かすみは背を向けていた。家へ向かい、全力でダッシュする。脚は筋肉痛でろくに動かなかったはずだが、そんなことは全然なかった。間違いなく今なら――体育でしか計ったことはないが――短距離走の自己新記録が出ている。おそらく中距離、長距離でも出せるだろう。


「すまなんだ、すまなんだあああああぁぁ!」

 遠吠えのような崇春の声が聞こえる。五体投地しているかどうか、確かめたいとは思わなかった。




 さすがに途中で息が切れ、膝が再び笑い出して。かすみは立ち止まり、古びた木造の電柱に手をついた。そこに取りつけられた街灯の、おぼろげな光の下で息をつく。

二人と分かれるまではわずかに青みを残していた空の色も、今は完全な黒。そこに白く星が散らばり、街灯と同じ色をした月がぼんやりと浮かんでいた。


何度か深呼吸して、速まっていた鼓動が収まった後でつぶやく。

「何だったんだろ……」


 本当に何だったんだ、昨日今日は。変な事件に巻き込まれ、変な転校生に助けられたり連れ回されたり。それで何の収穫も無かったり。


 大きく深く、ため息をついた。

「ほんとにもう……何やってるんだろ」


 まだ震える足で腹いせに小石を蹴飛ばす。軽い音を立てて飛んでいったそれをもう一度蹴ろうとして足を踏み出す。しかし、蹴ることはできなかった。どこに行ったか分からなかった。夜の闇のせいと言うより、地面の上に漂う霧のせいで。


「え……」

 霧が出ていた。昨日と同じような、目の前も見えないような霧が。有り得なかった、これほど急に濃霧が出るなんて。

見上げれば、そこに灯っていたはずの街灯の明かりも、白い闇に包まれたかのように目に映らず。どころか、いくら手を伸ばしても、そこにあったはずの電柱にすら触れなかった。


 幕のように周囲を覆う霧の向こう、音が聞こえた。しゃん、しゃん、しゃりん、と、金属が軽く打ち合うような。聞き覚えのある音、錫杖の音。崇春が送りに来てくれたのかとも一瞬は思ったが、違った。音が違った、崇春のそれよりも軽い錫杖の音。

 それが道の先からこちらに近づいてくる。一歩一歩、歩むように。石を引きずるような足音と共に。


 声が聞こえた。地の底から響くような、石と石とがこすれ合うような声。


――一つ積んでは父のため……二つ積んでは母のため――


 昨日聞いたばかりの、あの地蔵の声。


 ――三つ積んではふるさとの……兄弟我が身と回向《えこう》して――


 指先が震えるのを感じながら、かすみはゆっくりと、足音を立てないようにゆっくりときびすを返した。もうずいぶん離れてしまったが、二人の所に戻れるだろうか? それとももう帰ってしまって、元いた場所にはいないだろうか? 何にせよ、彼らに頼るしかなかった。あの二人なら――崇春なら――何とかしてくれる、はず。


 しかし、足音を忍ばせて踏み出した一歩目は。爪先が霧の向こうの何かに当たり、かち、と小さく音を立てた。何か、金属に触れたような音。


 ぬるく風が吹き、霧が流れて薄まったそこには。草木のようにびっしりと、大小さまざまに煌めく針がひしめいていた。


 かすみの背後で錫杖が鳴る。

「――ほうら、迷うた」

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