第23話 天使の大切な人
空調設備を整えた救護班に引きずり出され、イリスは胃の中のものを全部吐き出した。
デアクストスは灰色に戻り、海に佇んでいる。
「イリス」
あやめが震えながら降りてきた。イリスは飲んだ水をまた戻してしまいながら、あやめを見た。
「イリス」
「はは、きつい……あやめ、お前毎回これやってんのか、すごいな……」
「イリス……!」
あやめがイリスにしがみついた。
イリスは生還した。
イリスはその後脱水がひどく1日入院することになったが、命に別状はなかった。あやめはずっと付き添っていた。
そして退院するなり2人は蓮太郎の店にやってきて、夜はカレーが食べたいと言った。2人そろっての笑顔に、蓮太郎は泣きそうになりながら了承した。
白い魔女とあのオリジナルのデアクストスで出撃して、帰ってこられた。エースパイロットもだが、何より魔女がどんなにか嬉しいだろう。
帰りに渡そうと、蓮太郎はお祝いのフラワーアレンジメントを作った。ご飯のときテーブルに飾れるように小ぶりな、しかしあやめが持ったら小さなブーケになるような、可愛らしい花束。この前と同じにならないよう、今回使うアヤメは薄いピンクにした。他の花も種類を変え、形も少し変えた。気に入ってもらえるといい。
2人は時間前に現れた。早過ぎる訪問にあやめは少し遠慮がちにしていたが、イリスはさっさと上がり込んで座布団に座った。カレーはまだ作りかけだ。
「蓮太郎、花があるな!俺たちのための奴か?気が利いてるな!」
イリスはテーブルの上のアレンジメントを見つけて、台所の蓮太郎に呼びかけた。蓮太郎は慌てて静かにするようにイリスに言った。魔女と操縦者の宿舎に比べて、こちらは防音も普通だし、夜勤や早番の人たちも住んでいる。
イリスはわかったわかったと笑顔で請け合い、あやめを呼んだ。やはり声が大きい。
あやめは明らかに表情が変わっていた。ずっとまとわりついていた暗さが消え、瞳が明るい。もともと美しい人だが、輝くようにきれいになった。
その美しい人がイリスに微笑みかけ、寄り添う。イリスはエースパイロットが見る影もないデレデレぶりであやめに甘えた。蓮太郎は見ないふりをしてあげた。
2人は蓮太郎のカレーをおいしそうに食べた。お祝いだからと思ったものの、結局いつもと同じにして良かった。
イリスはいつもより元気なくらいでたくさん話していたのだが、食べ終わると急におとなしくなった。やはり体への負担は大きかったらしい。
今度はあやめがイリスを膝枕して、イリスは気を失うように眠ってしまった。
「すごく、無理してくれたんです」
イリスの髪を撫でながら、あやめが言った。
「私の役目を半分背負ってくれたから、私は意識を保てたんです。イリスを死なせないですんで、本当に、良かった」
大きな目から大粒の涙がぽたぽた落ちた。
「2人で帰ってきてくれて、本当に嬉しいよ。あやめさん、良かったね」
蓮太郎が言うと、あやめは何度もうなずいた。イリスを起こさないように声をひそめて、あやめは泣いた。
ひとしきり泣いて、あやめは涙を拭くと恥ずかしそうに笑った。
「ごめんなさい、泣いたりして」
蓮太郎も笑顔を返し、あやめにお茶を渡した。イリスが膝で寝ているので、テーブルに手が届かないのだ。
「よく寝てるね」
蓮太郎はそのついでにイリスを見て、何だかおかしくて笑ってしまった。子供みたいな顔で、すっかり安心して眠っている。あやめは微笑んだ。
「疲れたんでしょう。ずっと手をつないで戦ってくれたから」
「ずっと?じゃあ片手で操縦してたの」
蓮太郎は驚いた。蓮太郎が乗った時はもちろん両手で操縦した。片手を離す余裕もなかった。エースパイロットというものはもう、計り知れないというか、正気の沙汰ではないというか。
この、恋人の膝の上で世にも平和な顔で眠る彼が。
「すごいんだね」
「すごいんです」
あやめはまだ赤い目元で、嬉しそうに笑った。蓮太郎は眩しくて少し目を逸らした。本当にきれいになった。
「あなたに泣かされたおかげです」
あやめは悪戯っぽく言い、蓮太郎は苦笑した。このことはもう今後ずっと言われてしまうのだろう。本当のことだから仕方ない。蓮太郎は諦めた。
あやめがイリスを優しく見つめる。本当に天使のようだ。
その天使が小さく囁く。
「……あなたは少し、兄に似ているの」
蓮太郎はあやめを見た。あやめは蓮太郎を見なかった。あやめと最初に出撃したのは、彼女の兄だったと佐々木が言っていた。
懐かしさを追うように、あやめが遠い目をする。
「話してくれる時の間というか、声の感じや空気が、兄みたいなんです」
「そうなんだ」
「見た目は似てないんですけどね。兄は蓮太郎さんと違って、長いっていうより、岩みたいな感じでしたから」
長いと言われたのも初めてだが、あやめの兄が岩に例えられるのも意外だった。蓮太郎は何となくすっきりした二枚目を想像していた。
「早くに両親をなくしたので、兄は軍隊に入って私を養ってくれました。そうでなければきっと軍になんか入らなかったわ。岩みたいな顔だったけど、優しい人だったんです」
いつになく饒舌なあやめの話を、蓮太郎は静かにうなずきながら聞いていた。ようやく思い出を辿れるようになって、思い出話がしたいのかもしれない。今まではきっとつら過ぎて思い出すこともできなかっただろうから。
「あなたと話したくなったのも、それがきっかけでイリスに見つけてもらえたのも、もしかしたら兄が引き合わせてくれたんじゃないかって思ってるんです。ずっと私を心配していたから」
「そうかもしれないね」
蓮太郎はうなずいた。あやめは嬉しそうにしていたが、不意に笑顔を消し、大きな目をまっすぐ蓮太郎に向けた。
「お兄さん、私のことを恨んでいるしら」
そんなことを蓮太郎に聞いても仕方ないことは、あやめが一番わかっているはずだ。しかし聞かずにはいられないのだろう。蓮太郎を見つめるあやめの目は不安に揺れている。
「恨んでないよ」
蓮太郎はしっかりとあやめを見つめて言った。あやめは、そうかしら、と小声で呟き、うつむいてイリスの髪をなでた。
蓮太郎はもう一度恨んでないよ、と繰り返した。
「だってイリスに会わせてくれたじゃないか。あやめさんの大事な人に」
あやめは顔をあげ、嬉しそうにうなずいた。
それから何日も経たないうちに、再び敵機が来襲した。
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