代用ウミガメとグリフォン

 世界で初めてレイシーの存在が認められたのは一八六五年、イギリス。

 Lacie(レイシー)という七歳の少女に夢魔が取り憑き、眠りから覚めなくなった事案である。この件は少女の名前に因んで「レイシー事案」と呼ばれ、また死霊を意味する「wraith(レイス)」と混同したことも加え、それが定着しのちに人ならざるものを示す広義的な語として「レイシー」が用いられるようになった。


「ふうん、レイシーって女の子の名前だったんだ」


 資料を読んでいた愛莉は、ついぽろりと、ひとりごちした。

 放課後の教室、窓際の席。差し込んでくる西日を受けて、机がオレンジ色に染まっている。

 誰もいなくなった教室で、愛莉はシロから借りた一冊のリングファイルを開いていた。レイシーに関する基礎知識をまとめたもので、古びた文献のコピーから最新のデータまで詰め込まれている。内容ごとに情報が整理されており、丁寧にインデックスまで貼られていた。

 愛莉はその中の、レイシーの歴史を記したページを開いていた。日直の絵里香が、職員室に日誌を届けに行っている。戻ってくるまで教室で待機する愛莉は、その時間に資料を読むことにしたのだ。


 日本史においては、レイシーの名が浸透したのは戦後である。外国から「レイシー」、そしてそれに対抗する「ハンター」という語は明治後期にはすでに輸入されていたが、戦時中、敵性語が禁止され「霊姿れいし」という当て字と「狩人」という訳が広まった。戦後からはレイシーはカタカナのレイシーに戻ったが、一方で「狩人」の方はそのまま根付いた。

 レイシーの存在が伝わる以前から、国内にも同様の存在はあったが、それらは妖怪、物の怪と呼ばれていた。狩人に当たる存在としては、陰陽師や神官がそれを担っている。なお、現代でも民間にはこれらが一般的である。


「レイシー……レイス、霊姿……レイシー」


 登場してくる言葉が、無意識に口から出る。


「狩人、妖怪、物の怪……レイシー、事案」


 愛莉は文字の羅列に目を走らせ、やがて宙を仰いだ。学校では習わない歴史が淡々と綴られているのを見るのは興味深い。だがしかし、それこそ歴史の教科書みたいで、読んでいて飽きてくるのだ。

 ふわあと欠伸をして、ふと愛莉は横目で廊下に目をやった。なんとなく視線を感じると思ったら、教室の入口に立ってこちらを凝視する男子生徒がいた。

 爽やかなさらさらの髪に、くっきりした二重瞼。やや背が低い上に童顔で、ちょっと幼く見える少年である。知らない生徒だったが、ネクタイの色を見たところ、愛莉と同じ学年のようだ。

 愛莉と目が合うと、彼ははにかみながら会釈をした。


「あっ……ごめんなさい、つい見つめちゃった。なんかひとりごと言ってたのが気になって」


「あたし声に出してた? 出したな」


 愛莉は資料を閉じて、口を押さえた。そういえば、狩人の安全のためにも狩人の存在は極秘であり、レイシーのことは知らないふりをした方がいいのだと言れていた。ひとまず、それらしい言い訳でやりすごす。


「勉強中、つい口に出しちゃう癖があるんだー。ほら、声に出して文を読むと頭に入ってきやすいじゃん?」


「ああ、なんか分かるかも。俺も文章問題とか、口に出してるときある」


 引き戸の柱に手を置いて、男子生徒が笑う。愛莉はほっと胸を撫で下ろした。ひとりごとは聞かれたが、なにを言っていたかまでは聞き取られていないようだ。それに万が一聞かれていたとしても、レイシーと関わりのない人間には、なんのことか分からないのだ。

 男子生徒は目を泳がせた。


「えっと……じろじろ見たり急に話しかけたりしてびっくりさせたよね。ごめん、俺も普段はこんなことしないんだけど、なんていうか、その」


 定まらなかった彼の視線は、教室の床に落ち着いた。


「なんていうか……声、かわいいなって思って」


「へ?」


 愛莉が目をぱちくりさせる。男子生徒は一層慌てた。


「あっ、いや、また変なこと言っちゃってごめんね!? 自分でも気持ち悪いなと思うんだけど、君の呟いてる声がかわいくて、つい立ち止まって聞いちゃった」

 

 顔を真っ赤にして早口に喋る彼に、愛莉はしばしぽかんとしていた。それからにへっと笑いかける。


「そんなにかわいい? 嬉しい、ありがとー」


「かわいいよ! どんな子かなと思って見てたら顔もかわいいし、話してみたら天真爛漫で、明るくて、やっぱりかわいくて、笑ったらもっとかわいくて……!」


 勢いづいて畳み掛け、男子生徒は途中で口を止めた。そして顔を手で覆って俯いた。


「なに言ってんだろ、俺……」


「ありがと、褒めてくれて」


 愛莉はにまにまと口角を上げて、男子生徒を見守った。彼は顔を隠した手を少し浮かせ、目を露わにする。


「引いてないの? 初めて話すやつからこんなこと言われて、気持ち悪くない?」


「んー。少なくともあたしは、かわいいって言われたら嬉しいよ」


 初対面の生徒に突然たくさん褒められて、愛莉は上機嫌だった。彼女の屈託のない笑顔を見て、男子生徒も相好を崩す。


「あははっ、良かった」


 そして今度は真っ直ぐに愛莉の目を見て、目を細めた。


「俺、D組の小栗おぐり海代みしろ


「小栗くんね。あたしは愛莉だよ」


「愛莉ちゃんって呼んでいい?」


「うん!」


 愛莉がぱっと花笑む。小栗はまた頬を赤く染めた。


「うーん、やばいな。多分俺、愛莉ちゃんにひと目惚れした」


 照れながらも楽しそうに笑い、小栗は続けた。


「でも俺、誠実な男なんでいきなり告白とかしないからね。今すぐ付き合いたいとか言わない。仲良くなれたら嬉しいなって、それだけだから」


「OK。あたしも仲良くなりたいな」


 と、そこへ、反対側の引き戸からガラッと開く音がした。


「お待たせ。愛莉、帰ろ」


 職員室から絵里香が戻ってきた。愛莉はリングファイルを鞄に突っ込み、椅子から立ち上がる。


「お帰り! 約束どおりポテト奢ってね! お腹空いたからLサイズね」


「はいはい、心霊スポットに置き去りにして帰ったお詫びだからね。好きなだけお食べ」


「やった! やはり持つべきものは友達だね」


 苦笑する絵里香に駆け寄りつつ、愛莉は小栗の方を振り向いた。


「じゃあね小栗くん、ばいばい! またね」


「うん、またね」


 小栗は穏やかに手を振り、立ち去っていった。愛莉は浮き立った足取りで昇降口に向かう。その横で絵里香が、小栗の後ろ姿を見送っていた。


「小栗海代じゃん。あんたいつの間に仲良くなったの?」


「絵里香、小栗くんを知ってるんだ」


「面識はないけど、わりと有名じゃない?」


 絵里香は小栗を目で追うのをやめ、愛莉に向き直った。


「首席で入学してそのまま学年トップ独走中の、小栗海代だよ?」


「……え!」


 全然知らなかった愛莉のその声は、やけに大きく廊下に響いた。

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