取り扱い注意
その翌日、土曜日の昼下がり。
「ねえチェシャくん。もしも、もしもだよ。あたしに彼氏ができちゃったら、寂しい?」
昼間から『和心茶房ありす』で寛いでいた愛莉は、唐突にそう切り出した。拳銃の手入れをしていたチェシャ猫は、迷惑そうに顔を上げた。
「心の底からどうでもいい」
「うーん、最高。この、あたしに対して全く興味がない感じ。やっぱこれだね」
柔らかな陽射しが差し込む、窓際のテーブル。その上には和紅茶と、温かい小豆ミルク、チェシャ猫の手にはそこに不似合いなほど物騒な拳銃があった。
「どうでもいいが、あんたに恋人がいれば俺に突っかかってこなくなるのか? だとしたら彼氏ができてくれたらありがたい」
「冷たーい! でもちょっとこの反応を求めてた自分がいる!」
拳銃のメンテナンスをするチェシャ猫に相席して、愛莉は数学の課題を広げていた。広げているだけで、解いてはいない。
「実はね、あたしにひと目惚れしたっていう男の子が現れたんだよ」
愛莉がそう切り出すと、反応したのはカウンターの向こうのシロだった。
「いいね、青春だねー。そっか、ついに愛莉ちゃんにも彼氏さんかあ……」
「待ってシロちゃん。あたし、付き合うつもりはないよ。チェシャくんの方が好きだから」
「前にも言ったけど、愛莉ちゃんは趣味が悪いよ。ね、チェシャくん」
シロがいたずらっぽくチェシャ猫に振る。チェシャ猫は半分以上聞き流して、拳銃のメンテナンスに集中していた。無視された愛莉は、少し前屈みになってチェシャ猫を上目遣いで見つめた。
「その男の子、健気な弟系というか小動物系というか。照れて真っ赤になっちゃうかわいい人だったよ」
チェシャ猫の返事はない。
「ねえ! もうちょっと気にしてよ! チェシャくんはあたしより拳銃の方が大事なの!? 」
愛莉はわざとらしくむくれると、チェシャ猫はメンテが終わった拳銃をすっとテーブルに置いた。
「当たり前だろ」
「あたしはチェシャくんに彼女ができたらショックだよ!? 冷徹で無慈悲で鬼畜な天才のチェシャくんが、人を愛してたらつまんないよー!」
「なんなんだよあんた。俺をなんだと思ってやがる」
チェシャ猫に呆れられながら、愛莉はくたりとテーブルに突っ伏した。顔の前にはチェシャ猫が置いた拳銃がある。愛莉はなんとはなしに、それに手を伸ばした。
「チェシャくんの拳銃って、かっこいいね」
「おい、触るな。メンテしたばかりだ」
チェシャ猫が低い声で威嚇する。
「今夜仕留める予定のレイシーがいる。そいつのために状態整えたんだよ」
「へえ、今夜! 」
「今夜、必ず現れる。逆にそれ以外の日と時間帯は完全に隠れて出てこない、厄介な奴らだ。今夜を逃したら次は来月になる」
「なるほど、だから今夜決行なんだね」
愛莉はそう言いつつ、顔を上げた。腕を伸ばし、拳銃を真上に掲げる。
「ねえねえ、これ誰でも簡単に扱い方を覚えられるもの? あたしでもできる?」
「触るなっつってんだろ」
「レイシーってお化けみたいなものなのに、弾丸が効くの不思議じゃない? 物理攻撃が効くイメージないんだけど」
「いいから課題を進めろよ」
チェシャ猫が愛莉の手から拳銃を取り上げる。愛莉は問題集の上に顔を突っ伏した。
「なんでよー、お喋りしようよ! 構ってよー!」
しばらく黙ってふたりのやりとりを見ていたシロが、はははと笑い出す。
「ふたりとも、いつも仲がいいね。そういえば愛莉ちゃん、この前言ってた小テストはどうだったの? 満点取れたらケーキ作るよって言ってた件」
「全然だめだった。平均点も取れなかったよ」
愛莉は再び顔を上げた。
「おかげさまで課題が増えちゃった! 平均点以下の生徒には、プリント三枚追加だって。酷くない?」
「それ、俺の拳銃を気にしてる場合じゃねえだろ」
項垂れる愛莉をチェシャ猫が叱ると、愛莉は嘆いた。
「無理! 分かんないんだもん。虚数ってなに? チェシャくん教えて」
問われたチェシャ猫は、拳銃をテーブルに置いてしれっと顔を背けた。
「知らん。虚数っていう名前がついてるくらいだから、存在しないんじゃねえの。ないもん気にしても仕方ねえ」
「チェシャくんも分かんないのね……歳上だからって勉強教えてくれるとは限らないんだなあ」
愛莉が重たげに頭を上げて、今度はシロに助けを求めた。
「シロちゃん、数学得意?」
「数学ね……あまりいい思い出はないかな」
シロも目を逸らす。察した愛莉は、再びチェシャ猫に向き直った。
「シロちゃんも数学苦手だって」
「シロさんはやめとけ。一見まともそうに見えるが、あの人は学力面はあまり……」
途中まで言いかけたチェシャ猫はそこで言葉を止め、仕切り直した。
「あんた、自力でやった方がいいんじゃねえのか。好奇心は旺盛なんだし、勉強だって分かってくれば楽しいんじゃねえの」
「うーん、それとこれとは別。数学興味ない」
愛莉はツンとそっぽを向いて、開いていた問題集を閉じてしまった。
「それよりチェシャくんのことの方が知りたいなー。今、目の前にいるのはチェシャくんなんだしさ」
「今、目の前のやるべきことは課題だろ」
「それはいつでもできるから」
「なら今やれよ」
「ねえ、チェシャくんって、どうして狩人やってるの?」
「あんたには関係ないだろ。それより課題を進めろ」
冷たくあしらうチェシャ猫に構わず、シロがあっけらかんとして答えた。
「チェシャくんはねえ、僕にド借金抱えてるんだよー。それも普通に働いて返済できる額じゃないから、気配が薄いという持ち前の特性を活かして、一気に稼げるこのお仕事をしてるの」
「借金!」
愛莉がシロにくるっと顔を向ける。その正面では、チェシャ猫が決まり悪そうに眉を寄せていた。
「おいシロさん。余計なこと言わなくていい」
しかしシロは構わずに続ける。
「チェシャくんにすごいお金が必要だったとき、僕が一時的に肩代わりしてやったんだ」
「あー! だからチェシャくん、シロちゃんに頭が上がらないんだ! そのうえ狩人の仕事を仲介してくれてるんだから、シロちゃんに生かされてるようなものだね」
愛莉は納得して両手を叩いた。だがすぐにまた首を傾げる。
「あれ。そういえば、シロちゃんがなんでそんなにレイシーに詳しいか、まだ聞いてなかった。はぐらかされたままだったな」
愛莉は前のめりになり、シロをじっと観察した。
「実戦はチェシャくんだけど、役所からの書類受け取ってたりとか情報集めたりとかはシロちゃんもしてるよね。シロちゃんの指示で、チェシャくんが動いてるように見える」
問われて、シロは不機嫌なチェシャ猫を横目に笑った。
「そうだね。僕が雇い主でチェシャくんが労働者という感じかな。僕が仕事を与えればチェシャくんはお金を稼いできて、僕に少しずつ返済する」
チェシャ猫の不満げな面持ちを存分に楽しんでから、シロはさてとと切り替えて洗い物をはじめた。
愛莉はへえ、と楽しげに言った。
「チェシャくんがこのお店にいつもいるのも、お仕事の話してるの?」
「ううん、そればかりじゃないよ。僕にとって大事な相棒だから、特別にドリンクを無料サービスにしたら、気に入ったみたいで居着いたんだ。だから仕事の話をする方がむしろ少ないね」
シロが洗い物がてら答えると、愛莉はチェシャ猫にくすっと笑った。
「餌をくれる人に懐く猫みたーい。シロちゃんに拾われた野良猫!」
「っせえな」
チェシャ猫は舌打ちして悪態をついた。愛莉がまた、テーブルの上の拳銃を手に取る。
「あたしもシロちゃんくらいチェシャくんに懐かれたいな。こういう、拳銃とかの使い方をマスターすれば、もっとチェシャくんの役に立てるかなー」
「不要だ。あんたをレイシーのところへ連れていく予定などない。おい、触るな。危ない」
チェシャ猫が愛莉の持つ拳銃に指を伸ばす。その手を、愛莉は拳銃をひょいと掲げて避けた。
「どこを触ればどうなるの? 持ち方はこう?」
「危ないから返せ」
「構え方はこんな感じ?」
チェシャ猫の手が追い回すも、愛莉は動きを読んだかのようにひょいひょいと躱して拳銃を離さない。チェシャ猫はついに、両手で愛莉の手首を取り押さえた。
「危ねーっつってんだろ」
そのときだ。愛莉の手指から力が抜け、チェシャ猫の指が拳銃に接触した。愛莉の手の中からぽろっと、拳銃が転げ落ちる。
チェシャ猫と愛莉、遠巻きに観察して楽しんでいたシロまでもが、「あっ」と口をついた。
銃口から落下した拳銃が、床にカシャーンと叩きつけられる。それと同時に、黒い欠片が弾け飛んで壁まで転がっていった。
チェシャ猫も愛莉もシロも、その姿勢のまま、砕けた拳銃を見つめ絶句した。
数秒の沈黙ののち、シロがぽつりとため息混じりの声で言った。
「あーあ。今夜お仕事なのに……」
呆れのような軽蔑のような目が、チェシャ猫に向けられている。
「それ、チェシャくんがお仕事をする上で必要なものだから、それこそこちらからお金を工面してお渡ししたものだったと思うんだけど。大事に扱ってくれないのはどうしてかな?」
固まっていたチェシャ猫がハッとする。掴んでいる愛莉の手首に、ぎゅっと力を込めた。
「あんた……なにしてくれやがる。危ないから離せとあれほど……」
愛莉も我に返って、声を裏返す。
「えー、あたしのせい!?」
「当たり前だ。弁償しろ」
「いや。テーブルの上に拳銃なんて置いておく方が悪い」
素早く返したのはシロだった。チェシャ猫は耳を疑う。
「は!? 落としたのはこいつだぞ」
「危ないと分かってるものを、そんなところに置いておく方がいけないんだよ。ましてそれを扱い慣れてない愛莉ちゃんに迂闊に触らせるという、隙だらけのチェシャくんがいちばん悪い。自分が扱う道具がいかに危険か、自覚がない。ゼロ百でチェシャくんが悪い」
にこにこしつつも容赦しない。シロに圧倒されて、チェシャ猫はやや肩を竦めた。
「なっ……。非を認めるところは、あるけど……。ゼロ百ではないだろ」
「ゼロ百です。潔く認めようね」
シロは一方的に締め切ると、さてと、と店の電話の受話器を取った。
「今夜のお仕事に間に合わせないと。羽鳥くん、すぐ来られるかな……」
「羽鳥くん?」
初めて聞く名前に、愛莉が首を傾げる。
それが、「羽鳥」がやってくる三十分前の出来事だった。
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