初めての狩人マニュアル
愛莉が帰った、数分後。シロは自分用にコーヒーをいれながら、のんびりと問うた。
「あのさ、チェシャくん。僕が君に初めて拳銃を渡した日のこと、覚えてる?」
口元で紅茶を傾けていたチェシャ猫は、数秒黙った。涼やかな顔のシロを見上げて、やがてぽつりと答える。
「忘れられるわけねえだろ」
「だよねえ。たしか、夏だったよね。もうあれから一年と半年が経つ」
シロの手元で、コーヒーの湯気が漂う。
「あの日あの場所に、たまたまいたのが君だったというだけで、僕は君に対してなんのこだわりもない。だというのになんやかんやで一年半、二人三脚でやってきたよね」
「正直、未だに納得してない」
「当初は君に対してこだわりはなかったけど、今は君で良かったと思ってるよ? こんなに銃の扱いが上手い人、そういるものじゃないから」
シロはいたずらっぽく付け足して、コーヒーの香りを嗅ぐ。
「チェシャくん、最初は銃を撃つの『嫌だ』って言ったよね。レイシーのことを説明して以降も、あまり乗り気じゃなかった。そりゃそうだよね、関わりたくないに決まってる。自然な反応だよ」
チェシャ猫は無言で、自身の手の中のカップを見つめていた。シロがくすっと笑う。
「その点、愛莉ちゃんは自らずんずん飛び込んできた。レイシーなんて嘘みたいな話も、まずまずすんなり受け入れる。これには僕もびっくり。怖くないのかなあ」
「あいつは、能天気がすぎる」
「その能天気がレイシーにいちばん効くっぽい。っていうのがまた面白いよね」
シロはコーヒーを啜り、まったりとした息をついた。天井を仰いで目を細め、マイペースに口を開く。
「愛莉ちゃん、これからどうする?」
「どうって……どうもしないだろ」
「いや、もちろん現場に連れていくとか、役所には報告するとか、そういうことはしないよ。歴史的にもレアケースなだけに、被検体として回収されちゃうかもしれないからね。さっき例に出した三人だって、調査目的で私生活の自由を奪われていた」
湯気の香りが漂い、室内に馴染んでいく。
「チェシャくんも言ってたとおり、全くの部外者である愛莉ちゃんを、僕らの事情に巻き込むべきじゃない。これで彼女や彼女の家族がレイシーに狙われたりしたら、責任を背負いきれないよね」
しかしだ、と、シロはチェシャ猫を見下ろした。
「巻き込みたくないこっちの意思に反して、愛莉ちゃんの方は興味津々ときた。呼んでないのにほぼ毎日この店に来てる。頼んでないのに有栖川瑠衣を見つけてきた」
「来るなと言ってるのに、べたべたしてくる。そしてうるさい」
チェシャ猫がぼやくと、シロはぷっと噴き出した。
「それは単に、チェシャくんが懐かれてるだけ」
「いずれにせよ迷惑だ」
俯くチェシャ猫を眺め、シロはコーヒーを唇につけた。
「けど、秘密は守ってくれてるっぽいよね。一週間経ったけど、なんの異変もない」
シロに言われて、チェシャ猫は口を結んだ。正直、愛莉のような喋々しい人物は、面白がってすぐに秘密を喋ってしまうものと警戒していたのだ。愛莉はあれでいて案外口が堅かったので、偏見を持っていたチェシャ猫は少し反省している。
シロはコーヒーのカップを、カウンターに置いた。
「とはいえ好奇心の強い子だから、首を突っ込みたがると思う。実際、瑠衣先生を見つけてきたし、被害者に意図的に干渉してた。幸い今回は良い方向に転がったけど、危険に晒すのは良くないので……」
なにやらカウンターの内側で、ゴソゴソと手を動かしている。そして白いリングファイルを取り出して、顔の高さに掲げてみせた。
「彼女自身に危機感を持ってもらうため、レイシーについて知ってもらおうと思います」
ファイルには文字を打ち込まれたテープで、『極秘! 初めての狩人マニュアル』とタイトル付けされている。それを見て、チェシャ猫は反射的に顔を顰めた。シロがにこーっと笑い、ファイルを胸に抱く。
「覚えてる? 一年半前、僕がチェシャくんのために作った資料集だよ」
「忘れられるわけねえだろ」
先程と同じ返事を繰り返すチェシャ猫に、シロはより一層楽しそうに相好を崩した。
「だよねえ! レイシーへの見識ゼロの君に事実を認めさせるため、めちゃくちゃ勉強させたもんね!」
一年半前。まだレイシーなどなにも知らなかったチェシャ猫は、シロに短期間で諸々を叩き込まれたのである。そのときに使われた教科書代わりが、シロの持つリングファイルだ。おかげでファイルを見ただけで、チェシャ猫は勉強漬けになった日々を思い出して拒否反応を起こす。
チェシャ猫の苦い反応を楽しんで、シロはくすくすと笑った。
「そんな顔しないでよ。大丈夫、愛莉ちゃんには厳しくしないよ。君とは違って実戦に引っ張り出すわけじゃないから、これはあくまで彼女の好奇心に基づいて彼女のペースで読んでもらうの」
楽しそうに言って、シロはファイルをパラパラ捲った。
「愛莉ちゃんは明るくて元気で嵐のような子だけど、僕は好きだな、ああいう子。愛莉ちゃんが店に来てくれるようになってから、華やかで楽しい」
そしてファイルからちらりと、チェシャ猫に視線を投げた。
「僕とチェシャくんにとって、必要な子だと思うな」
「そうだな。あんたが言うなら、そうなんだろうな」
チェシャ猫は吐き捨てるように返事をし、紅茶を口に傾けた。シロがパタンとファイルを閉じる。
「チェシャくんが愛莉ちゃんくらいテンション高ければ、レイシーの駆除に有利かもね」
「無茶言うな……」
それぞれのカップに浮かぶ水面の円は、天井の灯りを反射して揺らめいていた。
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