軋む骨の音

Gacy

第1話 出逢いと別れ

 由香子は大学時代から付き合っていた三歳年上の栗原優くりはらゆうと別れて以来,この五年間ずっと一人で生きてきた。


 優と別れてからも何度か引っ越しはしたものの,通勤時間を考え都内のマンションに住み,職場での経験とともに責任のあるポジションについて忙しい毎日を過ごしていた。


 別れた理由は,優の浮気が原因だった。


 別れた日の朝まで,由香子は優との結婚を考えていた。考えていたというより,それが当たり前だった。


 毎日遅くまで一生懸命仕事をし,業務が終わらず忙しくて休日ですら潰れることもあった。しかし由香子は仕事にやり甲斐を感じ,自分のできることを常に精一杯頑張っていた。


 そんな由香子に優も最初のころは理解を示していたが,徐々に由香子から気持ちが離れ,由香子が気付いたときには優の心は完全に離れていた。


 優の気持ちにも気付かないほど,由香子にとっては優と一緒にいるのが当たり前だった。あまりにも当たり前すぎて,自分の頑張りを理解しない優に対して,職場で怠けているんじゃないか,ちゃんと仕事ができているのだろうかと心配するほどだった。


 あの日,優から別れ話をされるまで,こんな状況になっているなんて想像もしていなかった自分が情けなく,疑うことすらなく無条件で優を信じていた自分が愚かだと痛感した。


 あの日以来,由香子は男を信用できなくなった。


 学生時代の由香子は明るく真面目で,誰からも人気があった。几帳面な性格から,旅行や呑み会,サークルのイベントの幹事をよく任されて頼りにされる存在だった。


 みんなの希望に応えたくて,ネットでお店やホテルなど,なんでも一生懸命調べ常に完璧を目指していた。


 そのころ知り合ったのが同じ大学の先輩だった優だった。優は陸上部の部長で,中学生のころから国体に出場する陸上競技界では有名な選手だった。


 たまたま呑み会で席が近くなり,お互いに惹かれてすぐに付き合いはじめた。


 陸上の大会の日は必ず応援に行き,打ち上げでも隣に座っていた。誰が見ても羨ましいといわれる程,お似合いのカップルだった。


 優は大学を卒業すると,スポーツ用品を製造販売する会社に就職した。理由は,多くの大学の先輩がその会社の陸上部に入っていたからだった。陸上部に入る社員のほとんどが営業職で,仕事が終わった後は会社の近くにある運動場で汗を流していた。


 由香子は,お互いに頑張りながら成長していくような気がして,仕事でも陸上でも優が頑張っている姿を見るのが好きだった。


 由香子にとって,優は自分を癒してくれる存在だと思っていた。優も由香子と一緒にいることで毎日のストレスが解消されていると思い,優といるときは精一杯楽しみたかった。



「なあ,由香子。最近,俺たちさぁ……ちゃんと話をしてないよな……」



「どうしたの? 突然」



「ほら,由香子は平日はいつも遅くまで働いてるし,週末だって出張とか休日出勤とか忙しいことが多いじゃん……」



「そうだけど,その代わり会えるときは時間を無駄にしないように頑張ってるじゃん……優だって仕事の後に陸上の練習で遅いし」



「お前の頑張ってるって,朝からディズニーシーに行ったり,夜景の綺麗なレストランで食事をしたり,マニュアル本に載ってるような場所に行くだけじゃん……。俺はもっと一緒にのんびり寛いだり,ゆっくり映画を観たり,リラックスしたいんだよ……それにもう随分とレスだし……」



 優の言葉に刺があった。由香子は自分が精一杯頑張っていることを否定されたみたいで,どうしたらよいのかわからなかった。



「それにお前,映画を観るって言っても,六本木ヒルズでチケットを予約してから行かないと嫌がるし,食事だって高級な店ばかり行きたがるじゃん……。星がいくつだの,評価が何点だのってさ……」



「だって……せっかくだから,優と一緒に美味しいレストランに行きたいじゃん……」



「なんで一緒にのんびり寛げないの……? 一緒に駅前でラーメン食ったっていいじゃん」



 由香子にとって優と一緒にいるときは楽しむ時間であって,のんびり寛ぐのは毎日のお風呂と寝る時だけで十分だと感じていた。


 しかし優に言われたことは,由香子の価値観を否定しているとしか思えず辛かった。



「だって……せっかく一緒にいるんだから,もったいないじゃん……」



「俺は2人だけで,のんびり一緒に過ごしたいって言ってるんだけど……」



「…………」



 どう応えてよいのかわからず,黙ったままなにもいい返せなかった。優もそれ以上なにも言わず,黙ってしまった。


 空気が重く,いままでこんな時間を過ごしたことがなく,どうしてよいのかわからなかった。


 それから半年近く,お互いに問題なくこれまで通り一緒に食事に行ったり,デートを繰り返していたつもりだった。しかし仕事も忙しく,会う頻度はこれまで以上に少なくなっていた。



『お疲れさま。今週末,どうする?』



 由香子は仕事帰りに優にLINEを送った。すぐには既読にはならなかったが,翌日のお昼休みに返信があった。



『ごめん。今週末は予定が入ってて会えない。ちょっと仕事が忙しいんで,また後で連絡する』



 最近,LINEの文章の雰囲気が変わってきていることはなんとなく気付いていた。前はもっと優しい言葉が入っていたのに,最近は用件だけの短文が多くなっていた。不安な気持ちが由香子のなかにゆっくりと広がってゆくのがわかった。忙しいのはわかっていたが,我慢できずに思い切って夜遅く優に電話をしてみた。



「もしもし,私。どうしたの?」



 電話の向こうで沈黙が続き,かすかに呼吸音が聞こえた。なにかを言おうとしているのか,時々呼吸が乱れ,沈黙のなかに息を飲む音がした。



「ごめん……由香子。俺,他に好きな子ができちゃったんだ……」



「え……? どういうこと?」



 なんとなく,こんなこともあるんじゃないかと想像はしていたが,電話をした途端に言われるとは思ってもいなかった。こういった話はもっと段階があると勝手に思っていた。



「ごめん……俺,もう由香子のこと,好きじゃないんだ……」



 ショックだった。なにを言ってよいのかわからなかったが,優がふざけていないことだけは理解できていた。



「あ,あの……それって……ずっと浮気してたの……?」



 咄嗟に出た言葉が,『浮気』だったのに自分でも驚いた。頭の片隅にあった怖さのようなものを確かめたかったのかもしれないが,自分のプライドが想像していた以上に傷つき,自分自身を守ろうと頭のなかで必死に言葉を探した。



「い,いや……あの……。由香子にどう言おうか悩んでたんだ……」



「ねえ……浮気してたの………?」



「ごめん……」



 由香子の胸が締め付けられるように苦しくなり,自分でも驚くほど体が震えていた。節々が痛みだし,指先が激しく震えて全身から力が抜けた。これまで経験したことのないショックに,呼吸が正しくできなくなり,このまま死んでしまうんじゃないかと怖くなった。



「ね……ねえ。前に約束したよね……。あ,あの……お互いに……もし好きな人が……他にできても……浮気だけは絶対にしないって……私達……付き合い長いし……裏切るような行為でだけは関係を終わらせないようにしようね……って……約束したよね……」



 由香子は震える声で,冗談であって欲しいと願った。息ができずに何度も深呼吸をしたが,頭が真っ白になるだけで息苦しさは増すだけだった。



「あ,あの……もし冗談だったら……早く言ってね……。まだ,私……今だったら許してあげられるから……」



「ごめん……」



「あ,あの……私……どこが悪かったの? 悪かったとこがあれば,なおすから……」



「ごめん……もう他に好きな人ができちゃったんだ……」



「あ……あの……。私に……もう一度……チャンスもらえない? ぜ……絶対に……頑張るから……ちゃんとやるから……」



 電話の向こうで優が黙っているのが辛かった。



「ごめん……」



「ねぇ……どうすればいいの? 私……優と結婚まで考えていたのに……」



「…………」



「私……絶対にやり直せる自信あるから……ねぇ……私,頑張るから……もう一度チャンスが欲しいの……」



「ごめん……無理だよ……もう……」



 由香子の全身が激しく震えていたが,不思議と涙は出なかった。頭が割れるように痛み,どこを見ても焦点が合わなくなっていた。空気が肺まで届かないのか,呼吸が浅くなり目の前が霞んで見えた。



「で,でも……どうしてあんなに二人で決めたのに……約束したのに……なんで……なんで裏切ったの……?」


 お互いに結婚まで考えた付き合いをしていたのに,最後の最後にもっともしないようにしようと二人で決めた約束を簡単に破った優が理解できなかった。


 もし,優が他の人を好きになっても,裏切る行為だけはして欲しくなかった。もし,優が他の人と付き合いたいから別れようといわれても,きちんと二人で話し合って決めたかった。



「ねぇ……どうして……どうして……裏切ったの……?」



「ごめん……。でも,俺……由香子といても楽しくなかったんだ……。それに……由香子にそのことを伝えようと頑張ったけど……」



「聞いてないよ……そんなの……。な,なんで,ちゃんと言ってくれなかったの……?」



「何度も言ったよ……。でも聞いてくれなかったじゃん……」



「じゃあ……いま。いま聞くから……。私,変わるから……」



「ごめん……。もう……本当に好きじゃないんだ……」



 由香子は自分でも信じられないほど,優を愛していた。


 今までだったら浮気した相手を許すなんてことは絶対に有り得ないと思っていたが,優を失うのが怖かった。やり直してくれるのであれば,チャンスをくれるならいくらでも変わろうと思った。



「本当にごめん……」



 信じていた相手に心を踏みにじられ,心を締め付け押し潰されそうになったが,わずかに残ったプライドが折れかかった心を支えていた。



「新しい彼女はどんな人なの……?」



「え……? そんなこと聞きたいの……?」



「……うん……」



 自分より魅力のある女がどんな人なのか知りたかった。絶対にどんな女より自分のほうがすべてにおいて頑張っているし,魅力があると思っていた。そんな自分から優を奪った相手がどんな女なのか知りたかった。


「いや……実はまだ……数回しか会ってないんだけど……」



「え……?」



 数回しか会っていない女に大切な優が取られたと思うと,悔しくてどうしようもなかった。



「数回って……何回……?」



「えっと……四回……」



 由香子の頭が真っ白になった。優が自分から離れた理由がまったくわからなかった。



「あ,あの……四回って……も,もうセックスはしたの……?」



 優は答えにくそうにし,少し間があいた。



「……うん……」



 もしかしたらまだ優の気持ちが浮ついているだけで,少し時間をおけば戻ってきてくれると勝手な期待を抱いていたが,という言葉を聞いてすべてが吹き飛んでしまった。



「ねぇ……どうして……どうして……約束を破ったの……? なんで,裏切ったの……?」



「マジで……ごめん………」



 どうしてよいのかはわからなかったが,もう元に戻れないことを悟った。



「あ……あの……じゃあ…最後にもう一度だけ……直接会って欲しいんだけど……」



「え……いや……できればこのまま,もう会いたくないんだけど……」



「でも……こんな電話だけで終わるの嫌じゃないの……?」



「だって会えば寂しくなるじゃん……」



「やだ。どうしても会って……こんなに長く付き合ったのに……こんな電話で終わらせたくないの……」



 少し間があったが,電話の向こうで優が考えているのが手に取るようにわかった。



「うん……じゃあ……どうしようか……」



 優がどうしたらよいのかわからなくて困っているのも,会うことを了承したがいつどこで会うべきか悩んでいるいのも由香子には手に取るようにわかった。


「私……今から優のところに行く……」



「え……? 今から……?」



 時計を見ると,まだ電車はあったので由香子は急いで洋服に着替えてタクシーで駅に向かった。


 通い慣れた優のアパートに着くと,見慣れたスウェット姿で由香子出迎えた。自分だけの特別だと思っていた匂いを感じた瞬間,胸が締め付けら心が張り裂けそうになった。それと同時に,いままで当たり前だった優の匂いに知らない女の匂いが混じっているように感じ困惑した。


 慣れ親しんだ優のアパートから少しでも離れ,ゆっくり話ができるところに行きたいと伝え,近くの二十四時間営業のファミレスに行くことにした。



「ごめん……。なんか……こんなことになっちゃって……」



「いいよ……もう……」



 優に会った瞬間,すべてが過去の出来事のように感じられ,目の前の光景ですら薄っすらと見えた。すでに陸上で輝いていた優は目の前にはおらず,そこにいるのは自分に嘘をついて裏切って他の女のところにいった男でしかなかった。



「取り敢えず,これ返すね………」



 由香子は優から貰ったリングと時計を返すと,寂しそうに長いことリングがあった指を触っていた。そこには今まであって当たり前だったリングはなく,いつもと違う感覚の指が冷たくなって小刻みに震えていた。



「これ……返されても……どうしていいのかわかんないんだけど……」



「いいよ……捨てて……」



「捨ててって,この時計十五万円もしたし,リングだって安物じゃないんだぞ……」



「もう……私のじゃないから関係ないよ……新しい女にでもあげたら……」



「…………」



 二人の間に気まずい空気が流れた。


「好きな人ができてもさ……約束だけは,破らないで欲しかった……裏切らないで欲しかった……」



「あの……ごめん……」



 優と別れることよりも何年も信じてきた男に最後の最後で裏切られたことがショックで,なにを言ってよいのかわからなかった。必死に気持ちを伝えようと思っても唇が震え,頭が真っ白になり,思ってもいない言葉だけが感情のないまま口から洩れた。



「あんなに……あんなに何度も約束したのに……」



「えっと……ごめんって……」



 周りの目など気にならなかったが,これ以上一緒にいても自分が惨めになると思い,ファミレスを出ることにした。



「もう……さようならだね……」



「ああ……そうだな……」



「寂しくなるね……」



「おう……」



「嘘ばっかり……今は他に好きな子がいて,楽しい時なんでしょ……」



「…………」



「もう……いいよ……バカみたいじゃん,わたし……」



 そのまま黙って店を出ると,タクシーに乗って自分のマンションへ帰った。


 タクシーの中では,いままで優と過ごした楽しい思い出が頭の中いっぱいに広がり,寂しさと懐かしさで胸が張り裂けそうになった。そしてこれから先,どうしたらよいのかわからず,感じたことのない不安に包まれ全身が震えた。

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