アルプトラムⅠ ―名もなき管理者―


「名前はないの?」

 あてもなく闇を進むふたりの道中、たわいのない質問と回答が繰り返されていた。


「B-88だ」

 自分の胸にかすれた蛍光塗料で印刷された製造コードを指さす。

「そうじゃなくて、"あなたの名前"は?」

 彼女はふるふると首を横に振る。

 はじめ、彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。よくよく聞けば、人間で言うところの姓名はないのかと訊ねているようだった。


「ない」

 きっぱりと否定する。


「ないこと、ないでしょ? だって、あなたにもパパやママがいて、名前をつけてくれたはずよ? ほら、思い出してみて」


 しかしそういわれても、これは自分のコードなのだからどうしようもない。

 自分を造ったのは確かに人間だが、親と呼べるほどの関係でもない。


 人間は僕に命令し、僕はそれに従った。

 ただそれだけだった。


 僕が、やはりそんなものはないと答えると、

「じゃあ、わたしがつけてあげる!」

 彼女はそう言うと今度は悶々と頭を抱えて悩みはじめる。


 思い付いた名前を口にするもすぐに、それじゃあ かわいくない……などとつぶやきながら、少女のふらふら歩きは大きくなっていく。


 前がまったく見えていない彼女が夢の残骸につまづかないように、手を引いて方向を絶えず変えてあげるのに苦労した。


 そしてようやく彼女の歩みが止まる。


 その数瞬前には足の筋肉の動きの変化を読み取って、今度は彼女とほぼ同時に立ち止まる。

 同じ過ちは繰り返さない。

 それが僕の、僕たちの最も優れた点だった。


 ふるりとこちらを振り返る彼女の頬には、わずかな ふくらみがみられた。

 こっそりと秘密を教えるような、そんな表情でこちらに歩み寄る。背伸びをした彼女に合わせて、僕も頭を屈ませる。


「あなたの名前はねっ………『エイト』」


 つと、その澄んだ声が演算機をふるわせる。『エイト』。耳元にささやいた彼女は、僕をそう呼んだ。


 回路が停止し、意識が視覚に集中される、彼女の月光のような笑顔が時を満たしていた。

 顔に手を当ててみると、幾分か回路が熱をもち始めていた。


「あり、がとう……」


 そして僕は笑顔というものを少女に返し、彼女からの名前を受け取った。

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