コインの裏はでない

ケン・チーロ

コインの裏はでない

「殺人事件の事情聴取に参加してくれない?」

 私の人生の中で一番理解に苦しむ電話を受けたのは、昼食のざるうどんを御汁おつゆに漬けた時で、相手は大学時代からの悪友で、秋川という女性だった。

「いま警察ではそんな冗談が流行っているのか」

 秋川は卒業後、警視庁に入庁していた。

「占い師連続殺人事件、知っているでしょ?」

 自宅にテレビがない私は、ネットニュースも滅多に見ない。

 子供の頃から自分の興味があること以外に関心がなく、世の中のことを一方的に報せてくるニュースの類に触れない生活を長年続けてきたが、困ったことはなかった。

 だがわずか一年で8人もの占い師が連続して殺害された異様な事件は、さすがに私の耳にも多少は入って来る。

 最近犯人が捕まり、その犯人が顔を整形していたと先日聞いた覚えがあるが、私が知っているのはそのくらいだ。捕まれば極刑になるのだから、顔を変えて逃げようとしていたのだろうとその時思った。

「小耳に挟む程度には」

「相変わらず仙人のような生活しているね、君は」

「まさかその犯人と話せと言っているのか」

「御名答、でも犯人じゃない。まだ容疑者」

 私にはどうでもいい情報だった。

「瀧上君、宇宙物理学者でしょ。その知識を活かしてもらいたいの」

 増々意味が分からなくなった。私の職業が連続殺人犯の事情聴取とどう関係あるのか?

 ふと手元に視線をやると、黒い御汁の中に沈んでいるうどんが見えた。私はうどんをすくいすすった。漬かりすぎてふやけたうどんは、えぐみが強く不味まずかった。

 ●

「あ、ウサギさんだ。可愛いな」

 恐らく相手が見ているモニタの画面には、私がウサギの姿で映し出されたのだろう。そして私が見ているモニタには、そのウサギを可愛いと言った相手が映っていた。

「こんにちは、ボクの名前はレンだよ。君の名前を教えてよ」

 レンと名乗った人物の装いと顔は、いささか尋常ではなかった。

 長い金髪に、恐らくベルベット生地だろう、少しくすんだ赤色のドレスを着ていた。そのドレスの襟元や長袖の袖口には細かいレースが施され、胸に取り付けられた大きな白いリボンが一際目につく。

 そして肌は白磁のようにつるっとしているが、二重の目は異常に大きく、人工的に筋の通った小ぶりの鼻、毒々しい赤く厚い唇のレンの顔は、造形に失敗した少女人形のようだった。 

 事前に秋川から聞いてはいたが、実際目にすると脳が混乱し、胸騒ぎを覚える。

「瀧上といいます」数秒経ってから私は名前を告げた。

「瀧上さんか、タッキーって呼んでいい?」

「……構わないです」

 レンは目尻に皺を寄せ、満面の笑顔になった。「タッキーは、少しは分かる人?」

 私は自分の職業を名乗った。

「よかったぁ、今までのオジサンたち、全くボクの話を分かってくれないんだもん」

 レンは先ほどから自身の事をボクと呼んでいる。

「じゃあもう同じ話しなくてもいいんだよね」

 私は首を振った。多分ウサギの長い耳も左右に揺れただろう。

「可能な限り最初から話してくれませんか」

 えー、とレンは不満を口にした。「ボクもう疲れたよ」

 頼みます、と私は言った。もー、とレンは天を仰いだ。机の下で足をバタバタさせているのだろう、画面が小刻みに揺れた。

「あなたのことを理解したい。お願いです」

「仕方ないな、これで最後だよ」レンは天井を向いたままそう呟いてから前を向いた。

 私は頷き、長い耳が前後に揺れた。多分。

「タッキーもコペンハーゲン解釈とか納得している人? ああやはりそうなんだ、だから量子力学とは距離をとった分野にいるんだね。

 やっぱさ、物理学の定理とか法則ってこの世界がどうなっているのか知るためにあるのに、この世界を作っている量子には、それまでの法則なんて通用しないし関係ないんだよってなったら、誰でもおかしくなるよ。

 あ、話しが逸れちゃったね、ごめんなさい、えーっと最初から話すんだったね。

 ボクが行動するきっかけになったのは『光は波であり粒子でもある』って聞いた時だよ。そう、二重スリット実験の、例の有名なやつ。

 え? 二重スリット実験のことから話すの? タッキー内容分かっているじゃん。

 まあタッキーならボクの話を理解くれるか。

 うん分かった。でもちょっと長くなるけどいい? 」

 私は軽く頷く。レンは芝居がかったように、ゴホンと軽く咳をした。

「実験のことは知っていると思うけど、光は観測される前は波だけど、観測されたら粒子になりますって、どっちなんだよってなるけど、どうしてもそれしか考えられない。

 だって実験結果は確かにそうなんだし、誰もが実験して同じ結果になるんだったら、それが真実だもんね。だから『光は波であり粒子でもある』って解釈が生まれた。それってコペルニクス的転回だよね。揺るぎない実験結果に合わすために、その前提が矛盾を含んでいても構わないとか、因果律や決定論が通用しないなんて、普通は混乱するよね。

 だからシュレディンガーはそんな訳ないでしょって、猫を毒ガスが噴出する箱の中に入れちゃう残酷な実験思いつくじゃん。でもさ、なんで猫なんだろうね。犬でもいいし、猿でもいいと思うんだけど。シュレディンガーって猫が嫌いだったのかな? ボクだったら虫にするな。ゴキブリとかハエの方が、もし死んでも罪悪感ないと思わない?

 あーでも『シュレディンガーのハエ』ってインパクト弱いか。やっぱネーミングって大切。

 話しがまた横にズレちゃった、ごめんごめん。どこまで話したっけ?

 そうそう、シュレディンガーの猫。あれのポイントは、あらゆる可能性の世界が多重に存在しているってとこでしょ。

 猫が生きているのか死んでいるのか、箱を開けるまでは分からないけど、箱を開け『観測』した瞬間に、そのどちらかが『決定』される。逆に言えば、『観測』されなければ、猫は『永遠』に生死が重なった状態のまま。それは猫だけじゃなくて、この世界全ては、観測されない限り、決定されない。普通に考えれば、そんな馬鹿なことはないって思うよね。

 でもボクはその世界を、ボクはなんて文学的で、クールで、美しいんだろうって思ったんだ。その時、電流が流れたって言うか、空から物凄い光の洪水が降って来て、そして全部分かっちゃんだ。これが天啓ってやつなんだね。そしてその時が、ボクが神の子になった瞬間だったよ。ボクって最高で究極的にロックな存在じゃん」

 満面の笑みのレンはそう言うと、細い華奢きゃしゃな指をパチンと鳴らし、私に向って指差した。私は、漏れそうな溜息を呑み込んだ。

 ●

「容疑者の話はどうだった?」

 机を挟んで正面に座っている秋川が話し掛けてきた。私たちは天井は高いが窓もない、机と椅子とドアだけの無機質な部屋にいた。机の上にはカメラ付きのモニタが置かれていて、それを通じてさっきまで別室にいるレンと会話をしていた。

「その前に聞きたいことがある。どうしてウサギのアバターなんだ?」

「だってあなたうさぎでしょ」

とらだよ」

「瀧上君、年下だったんだ」

 私の渋面も気に留めず、秋川は続けた。

「それで、瀧上君の感想は?」

 私はレンの前で呑み込んだ溜息を吐いた。

「レンは現代物理学の基礎を正確に理解している」

「生きている猫と死んでいる猫が同時に存在するって、そんな馬鹿な話が物理学なの?」

「シュレディンガーは物理学概論でやっただろ、忘れたのか?」

「その節は瀧川君のノートに助けられた。ありがとう」

 物理学は必須単位で秋川も講義は一緒だったが、静かに単行本を読んでいる彼女の姿しか覚えていない。

「光は粒子であり波でもあると言うのも現代物理学の常識?」

「それこそ量子力学の根幹だ。シュレディンガーの猫は思考実験だが、光が粒子と波のふたつの性質を持つというのは実験から得られた不動の事実だ。レンの言う通り、量子力学は前提が矛盾していても観測結果が説明できる理論や数式を求めてきた学問だよ」

「容疑者の言葉ではなく、瀧上君の言葉で分りやすく説明して」

 私は少し斜め上を見た。

「例えばそうだな、今から君はこの部屋を出てレンのいる部屋に行けるかい?」

「もちろん、当たり前でしょ」

「でももし君が量子だとしたら、部屋を出て行ったあとの行動は確率でしか決まらない。違う部屋に辿り着くこともあるし、そしてその時の君は年老いた男性になっている」

 秋川は露骨に眉間に皺を寄せた。

「でも君の年齢性別が変わったことなど問題にせず、君がどの部屋に入る確率が高いのか方程式を用いて予想するのが量子力学だ」

 秋川はまだ怒っている表情だった。

「要はレンが言った通り、普通の常識が通用しないのが量子力学だと解釈してくれ」

「つまり容疑者はそんな奇妙奇天烈な量子力学を理解するほどの高度の知性と正常な思考を持ち合わせていて、奇抜な格好やトリッキーな言動は芝居でやっている訳ね」

「物理学に対する見解だけを話すという約束の筈だが」

「そうね、悪かった」秋川は両肩をすくめた。

 現代物理学、特に量子力学の説明は、それが学問的には正しいことを言っていたとしても、常軌を逸しているとしか聞こえない。

 秋川の依頼は、そのレンの話が物理学的に正しいのか判断してほしい、だった。

 心神喪失の者が犯罪を犯しても法で裁けない。理解不能な話を一方的に話すレンはそれに該当するのではないかと、警察は懸念していた。

 医者でもない私が容疑者の精神状態を判断できないと断りを入れたが、物理学に関することだけ判断してほしいと食い下がる秋川に結局押し切られた。

 今更文句は言わないが、何故かその時食べたうどんのえぐみが口の中に甦り、不快になる。

 とりあえずこれで私の役目は終わったと思い、帰っていいかと尋ねようとした時、秋川が意外な言葉を呟いた。「量子力学ってまるでこの事件みたい」

 なんだって? と私は思わず声をだしていた。

「警察を悩ませているのは、容疑者の供述内容だけではないの。容疑者と被害者たちとは一切の面識がないのよ。つまり容疑者と被害者の因果関係は全く成立していないのに、連続殺人だけという結果だけが明確に存在しているってこと」

 その言葉の意味を理解するのに数秒掛かった。

「動機が全く分からない?」

「そう。容疑者と被害者の間には血縁地縁学歴職歴、なーんの接点もない。容疑者が客だった形跡も皆無。そもそも被害者たちの主な顧客は政治家や資産家で、一般人が会える占い師じゃなかった」

「占いに顧客っているのか?」

「良く当たるって評判で、予約は半年先まで埋まっている。人気の占い師なら普通よ」

 占いの顧客も、良く当たる占いも、私にはその方が量子力学より奇妙奇天烈に思えた。

「実は今警察内部には動機なき連続殺人で送検する動きがあるの。でも私はそれに抵抗している」

「法的に罪に問われない可能性があるからか?」

 8人の人間をあやめたのに理由がないとなれば、それは本当に狂人の所業だ。

「違う、通り魔的に殺して来た被害者が全員同じ職業でしたって、そんな訳がないでしょ、絶対に動機はある。例え極刑の判決を得たとしても、その動機を法廷の場で、遺族の前で容疑者の口から語らせなければ、この事件は未解決と一緒」

 秋川の言葉には微かに力が籠っていた。

「カッコつけて言ったけど要は警察のメンツってこと。正直、遺族が動機を知ったからって苦しみは消えないし、誰もが納得する犯罪の動機なんてある訳ない。だからって警察以外に誰が容疑者の口を割らすことできるの? 警察の存在意義が問われるでしょ」

 それは秋川の本音だろうと私は思った。

 ――動機

 心の中でそう呟く。量子力学や現代物理学の基礎を把握している人物が、何故占い師だけを連続して殺害したのか、全く見当がつかない。秋川の言うように偶然そうなったとは確率的にあり得ないし、誰もが動機があると考える。確かに動機がこの事件の真相になるだろう。

 事件のことに思考を巡らせていると、神妙な顔になった私に気を使ったのか、珍しく秋川がねぎらいの言葉を掛けてきた。

「わがままな依頼を聞いてくれてありがとう。感謝する。容疑者が支離滅裂な妄想話をしていないことは分かった。それだけでも進展したと思う」

 ふっと私の思考が途切れる。見ると秋川の表情は微笑んでいた。

「久しぶりに大学時代も思い出した。『神様はサイコロをふらない』って講師の言葉を覚えているけど、あれはアインシュタイン?」

 私は頷く。「だがアインシュタインは量子力学的な考えと最後まで対立したよ。結果が確立論でしか表せないことを納得しなかった」

 宇宙を含むこの世界は、シンプルかつ美しい数式で表せると考えていたアインシュタインは、コペンハーゲン解釈を否定し、最後まで量子力学を認めなかった。

「あぁだからサイコロになるんだ」

 秋川の言葉を聞きながら、何かが私の脳裏に引っかかった。

 アインシュタインのサイコロも、シュレディンガーの猫も量子力学の世界を否定する有名な逸話だ。

 観察されなければあらゆる可能性の状態が重なった世界を、レンは美しいと感じ、天啓を受け神の子になったと言った。

 だがその世界は理論上の中だけで、現実世界は矛盾なくひとつだけ存在している。

 ――神の子が確率論を肯定している。

 しかしその戯言ざれごとは、私の中でざらつく違和感となり、ある疑問を生んだ。

 ――レンは誰を殺した?

「瀧川君?」

 沈黙した私に秋川が声を掛けてきた。それから暫くして私は自分でも驚くことを言った。

「もう一度、レンと話をさせてくれないか」

 長い付き合いの中で見せた事のない表情を、秋川は浮かべた。

 ●

「あ、タッキーだ。またお喋りできるの? ボク嬉しい」

 レンは画面の向こうで上半身を小刻みに上下させた。

「ひとつ教えてくれませんか?」

 レンは微笑んだまま私を見ていた。私たちは暫く何も話さず見つめ合っていた。

 おもむろにレンは口を開いた。

「ひとつだけでいいの?」

「できることなら、私の質問の全てに」

「もしかして分かっちゃたのかな、タッキーは」

 今度は私が黙った。

「いいよ、おもしろそうだから答えてあげる。でも的外れなこと聞いたら答えないよ」

 私は頷き、そして単刀直入に聞いた。

「神はサイコロを振りますか」

「振るよ、もちろん」

「ではこの世界は確率論で決定されていると?」

「それは違うよ、サイコロは振られたけど世界は神様が決めるんだよ」

「矛盾しませんか」

 レンは首を振った。

「サイコロは振られる。世界は神様が決める。タッキーならどう解釈する?」

 レンは赤い唇からチロリと白い舌を出して、上目遣いになった。

 私は答えるのを少し待った。言うべき答えは持っていたが、とっさにもうひとつの解釈が浮かんだ。私はそれを先に答えた。レンの反応を見たかったからだ。

「神が用意したサイコロは全て同じ目だった」

 きゃははは。レンは高笑いして両手をパンパンと叩いた。

「おもしろい。うん、その考えはとても素晴らしい、タッキー最高」

「違いますか」

「うん、違う。でもあたらずといえども遠からずってやつかな」

 レンは口角を大きく上げ、目尻には多くの笑い皺が寄っていた。

 私は軽く息を吸い込み、静かに吐き、告げた。

「では、振られたサイコロは複数あって、その中から神が好きな目が選んだ」

 ピエロのようなレンの笑顔は、静止画のようにフリーズした。私もただじっとレンを見ていた。やがて口角はゆっくりと下がっていき、目尻の皺も元に戻っていった。

「なんだ、やっぱり分かってんじゃん」

 私は初めてレンの低い声を聞いた。

「ねぇタッキー、世の中理不尽なことが多すぎると思わない?」

 レンは私の返事を待たず、独り言のように語り始めた。

「昔からずっと不思議だったんだ。煙草も酒もやらないのに突然病気になっちゃったり、昨日まで幸せだったのに朝起きたら不幸のどん底まで落ちちゃったり、逆に悪人なのに宝くじが大当たりしたり。それが神様が用意した運命でしたって言われれば、それまでなんだけどね」

 レンはオーバーアクション気味に肩を竦めた。

「でも量子力学の話を聞いた時、ボクの長年の疑問が全て解けたんだ」

 レンは薄く目を閉じ、机に両手の平を上にして置き、そしてふーっと大きく息を吐いた。

「神様はたくさんの世界を用意してくれていたんだ。もしかしたら多くの人にとって理不尽なことや悲しいことが少ない世界もあったかもしれないのに、どうして神様はその世界を選ばなかったのか、ボクは何故かって考えた。答えはすぐにわかったよ。タッキーも分かったんでしょ」

 レンは突然目を大きく見開いて私を見た。私は生唾を呑み込んだ。

「……神ではない者がその世界を見てしまったから」

 レンは深く頷いた。

「そう。神様より先にサイコロの目を選んじゃうおバカさんがいたんだ、それも無意識に」

 頭の芯がかっと一瞬熱くなり、それが過ぎると今度は身体がぶるっと震えるほどの寒気が襲った。

「無意識ってところが最悪だし、それもお金貰っていたなんて、正に万死に値するよ。そうは思わないかい?」

 突然私の手元にメモ用紙が差し出された。横を見ると秋川が立っていて、それには『私とかわって』と走り書きされていた。私は秋川を横目で見て、微かに首を横に振った。秋川は聴こえないほどの小さな舌打ちをした。

 私は息を静かに吐き、流れるようにレンに問うた。

「それが占い師たちを殺した理由ですね」

 秋川が身を乗り出し、私に身体を寄せてきた。

 レンは目を細め、ニッコリと微笑んだ。

「うん、そうだよ」

 ●

「勘違いしないでよ、ボクは全ての人が幸せな世界を選びたいってことじゃないんだ。ボクは、神様が選んでいない理不尽な世界を少しでも減らしたいんだよ」

「誰も不幸じゃない世界と、理不尽が少ない世界と何が違うの?」

「タッキーと話したいな、お姉さんは理解が遅いんだもん」

「瀧上さんとは後で話させてあげる。だから頭の硬い私にも分かるように教えて」

「仕方ないなぁ、でも約束守ってよ」レンは面倒くさそうに渋々の表情になった。

 秋川とレンの会話を、私はモニタを通じ別室で見ていた。モニタは左右二分割されていて、右には秋川の背中越しにレンが、左には両者を側面から撮影している映像が映っている。

「神様が選んだ世界で起きたことなら、幸せ不幸せは運命って話。それは仕方ないよね、神様がしたことなんだから。でも占い師たちは神様よりも先に選んで、言っちゃったんだ。あいつらボクと同じ神の子なのに、言っちゃったら世界が確定しちゃうって知らないんだよ」

 秋川は暫く考え、それから質問した。

「例えばもし私がその占い師に結婚できるのかを占ってもらって、彼らが決定していない多くの世界の中から私が一生独身の世界を見て私に告げたら、一生独身ってこと?」

 レンは一瞬無表情になったかと思うと、突然きゃはははと高笑いした。

「お姉さんも中々面白いよ。それだけじゃなくて、お姉さんの知らない間に全然関係ない人の占いの結果、選ばれた世界の中でお姉さんが一生独身だったら絶対に結婚できない。

 ね? 理不尽でしょ」

「そうね、もしそうだったらその占い師をとんでもない目にあわせてやる」

 レンは微笑んだ。そして秋川はゆっくりと告げた。

「でも殺しはしない。だけどあなたは占い師たちを殺した」

「うん。正確には天罰、いや神罰なんだけどね」

 レンは悪びれずに答えた。

「最初にも言ったけど、ここでの会話は全て録画されている。今のは自白として裁判所に証拠提出される。それは承知しているのよね」

 レンはまた芝居がかったように、両肩を大きく竦めた。

「ご自由に。でもボクは死刑にならないよ」

 そう言うとレンは明らかにカメラを見て、大声を上げた。

「見ているんでしょ、タッキー。タッキーなら分かるよね、ボクが死刑にならないって」

 私は目を閉じた。喉の奥、いやもっと深い身体の奥から黒い溜息が沸いてきそうになる。

 レンは自らを神の子と言った。占い師も神の子で、数多くの未決定の世界を選び、告げることでひとつの世界を決定する。

 ならばレンは自分が無罪になっている世界を見て、そう告げれば良い。

 ――馬鹿な

 これはレンの妄想だ。量子力学の摩訶不思議な世界はあくまでも理論上のことで、観察する者によってこの世界が確定するなんて、そんな訳がない。

 モニタからレンの大声が聞こえてきた。

「本当のことを言うとね、神様はボクに神罰を下すのが8人だけで、しかも逮捕される世界しか見せてくれなかったんだ。仕方ないからそれを選んだんだけど、今その理由が分かったよ。ボクとタッキーを会わせるためだったんだ」

 私は目を開けモニタを見た。左の画面にレンの笑った顔がアップで写っている。

「今タッキーが何を考えているか当てようか。そんな馬鹿なことがある筈がないって考えているでしょ。ボクが神の子だって証拠がないもんね。だから証拠を見せてあげる。本当はサイコロがあったら良かったんだけど、それじゃあまりにも出来過ぎだ」

 レンは目を閉じ、両手の平を上にして机の上に置いた。そして数秒後、目を開いた。

「タッキー、10円玉持っているよね。それを10回コイントスしてみてよ、タッキーがやったら全部表が出るから」

 私は黒い溜息を呑み込んだ。

「1/2の10乗だから1/1024。1000回に1回の確率だけど、それを予告しての結果なら、確率的に有意でボクが神の子という証拠になるよね」

 ズボンの後ポケットの財布が重く感じる。

「もちろんボクは牢屋に入らない、死刑にもならない世界を選んだ。ボクはやがて自由になってフカフカのベットの上で寝るんだ。タッキー、その時にまた会って沢山お話ししよう。だってキミはボクの最高の話し相手……」

 机の上のモニタを力任せに払いのけたい衝動を抑え、私はモニタの後ろに手を伸ばして少し乱暴に電源コードを抜いた。

 ●

 コンビニで買った昼食のざるそばと新聞を机に置いたとき、ズボンのポケットにあるスマホが震えた。ポケットに手を入れスマホを取り出した。その時コンビニで貰った釣銭がこぼれ落ちた。小銭が床で跳ねる音がしたが、後で拾おうと下も見ないで、とりあえず震えているスマホを確認した。

 秋川からだった。私はスマホを新聞の上に置いて、過剰包装気味のざるそばのビニールを剥がし始めた。その間もスマホは振るえていたが、無視した。出なくても話は分かる。

 昨日レンに死刑判決が出た。レンの弁護士は高裁に即日控訴した。

 相変わらずニュースの類を見ない私だったが、レンの裁判関連記事の載る新聞があると買っていた。恐らく高裁でも検察側証人として出廷してくれとの要請だろう。

 乾燥ネギとワサビをカップに入れ、御汁を掛けて割り箸でかき混ぜていると、スマホの震えが止まった。手を軽く合わせ、ざるそばを御汁に漬け啜り始める。

 裁判はやはりレンの責任能力が争点となった。私も出廷してレンが現代物理学を体系的に理解していると証言した。

 法廷でのレンは、さすがにあの奇抜な格好ではなかったが、長い金髪はそのままで、入廷したきた私に笑顔で手錠を掛けられた両手を振り、裁判長に注意されていた。

 殺害動機は証拠採用されなかったが、殺人の自白の箇所は認められ裁判員全員一致で死刑の判決が下された。連続して計画的に8人を殺める行為は心神喪失下ではあり得ず、殺害動機は虚言であるとされた。

 一審判決後秋川の言った通り、ある遺族は本当の動機が知りたいと言い、ある遺族は納得できないと言った。

 レンは死刑囚になったが判決が確定するまでは推定無罪だ。そして確定しても死刑が執行されるまでレンは未決囚となる。それを知った時、シュレディンガーの猫の話をするレンの顔が浮かび、訳もなく苛立った。

 レンと話した日を境に、自分自身でも説明のできない感情の起伏が増えている気がする。

 ざるそばを食べ終え、手を軽く合わせる。そして思い出したように床に目をやった。さっき落ちた小銭を探すためだ。中々見つからなかったが、それは椅子の真下の手が届かない場所にあった。一旦椅子から降り、それを拾う。

 拾ったのは平等院鳳凰堂が描かれた10円だ。

 あれからコイントスはしていない。テニスやサッカーの審判ではないので、そうそうコイントスをすることはないが、あの言葉は呪縛の如く私の行動の一部を縛っていたことに気づく。

 私は鼻で笑って右手親指の爪に10円を載せ、勢いよく弾く。ピンと音を立て10円は回転しながら上昇し、頂点まで達した後落下し、差し出された左手の平に落ちる。それと同時に右手で蓋をした。

 そっと右手を外し、手の平にある10円を見た。

 ――どうせなら100回連続の方が面白かったな。

 また私は鼻で笑い、10円を机の上に置き、スマホをどけて新聞を手に取る。

 それを広げ、裁判記事に目を通す。


『占い師だけを狙った連続殺人事件の一審判決は大方の予想通り死刑判決となった。裁判では野崎練二被告(83)の責任能力が大きな争点となったが……』


                                   終



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