第9話 初夜

 風呂から上がった澄史は、ふぅっと小さく息をつくと書机に向かった。アニシチェは今風呂に入っているため、今日得た情報の記録をするには今が最適なのだ。澄史は長年愛用している筆を手に取り、淡い蠟燭の光のもと、真剣に何かを書き始めた。




  白露はくろ七年十月二日   任務一日目  霽月せいげつ宿しゅくにて


アニシチェ

・宮廷に召されるまでは、白海部と流間部のあいだ、霽月ノ宿のあたりで暮らしていた

・白海部・流間部の地理に詳しく、いつ頃どこが混み合うかということも把握している

・数多の国で修行している(最も最近ではサエアに滞在、他にもナーガ、テュブラ、レーヒラ、青遠せいおん靄紅あいこう零呉れいご、バマスフ等。テンラの料理であるバビムとリチを知っていたことから、テンラやその影響を色濃く受けているネズエラやグパラにも行ったことがあると予想される。)

・運び屋に知人がいる

沼地の民キマンカを知っていたことから、この国の情勢にそれなりに通じていると見られる(戯れに各国を周遊する旅人よりは長くここに滞在しているか)

・人前では面布をまったく取らない(食事中含む)

・馬の扱いが並外れている(手綱を引くことなく馬を誘導できる、たいへんな人混みの中でもぶつかることなく進むことができる)

・動物(馬)と『親しく』なることができる?(ムアースキの教えではないとのこと)

・他人の心情に聡い

・何にもとらわれず、飄々としている




 そこまで書いて、澄史は一旦筆をおいた。

(一日目で分かったことはこれだけか…。もっと情報が集まってきたら整理して書き直して、帝や紫ノ僧正様たちにお見せできるようなものにしないとな。)

澄史は両手を頭の後ろで組むと、後ろ向きにごろんと畳に倒れ込んだ。

(しかし不思議な奴だな、アニシチェは。つかみどころがない。そこにいると思って触れてみたら、実はいなかった、というような……なんか、よく歌に出てくる、「水面に映った月」みたいなんだよな…。)

澄史は組んでいた手をほどくとそっと目を閉じた。


(そういえば、以前寺で偶然あいつの面布の下を見たことがあったっけ。あの時は俺、空隆に似てるなんて思ったんだよな。はっ、あのアニシチェが?ないない。もし本当に空隆だったら、この任務で必要もないの俺に話しかけてくることなんてないだろうし。話すといったら、風呂にどちらが先に入るか決めるときくらいだろ。二人とも、不思議な奴だってとこは同じだけど、あのアニシチェが空隆?…はははっ、俺も相当煮詰まってたかな。)

寡黙で自分の世界に籠りきっていた少年と、他人を気遣い明るく振る舞う異国人とは、やはりどうやっても結びつかない。アニシチェと直接話した今では、この二人を似ていると思った自分がいっそう馬鹿馬鹿しく、澄史は寝ころんだままくっくっと笑った。

「何か可笑しいことでもありましたか?」

突然頭上からアニシチェの声が降ってきて、澄史は驚いて目を開けた。いつの間にか、風呂から上がったアニシチェが部屋に帰ってきていたのだ。まったく気配に気づかなかった。やはり面布はしたままだ。

「あ、いえ…ふと、寺の教え子たちのことが思い出されて。彼らは時々、本当に馬鹿馬鹿しくて面白い悪戯をしてくれますからね。」

言いつくろいながら、なるべく自然な動作で先ほどまで書いていた報告書の下書きを片付ける。

「ああ、少年たちというのは、時々こちらの予想をはるかに超えることをしてきますよね。予想を超えるというよりは、予想という枠を打ち壊すという方が適切かもしれませんが。」

「上手いことおっしゃいますね。」

ははは、と笑いはしたが、澄史は内心かなりどきどきしていた。

(見られたか?いや、声をかけられたときはあいつ襖のあたりに立っていたし…それに蠟燭のあかりじゃ近くにこないとよく見えないし。それにそもそも、任務中に起こったことをつぶさに記録するのは当たり前のことじゃないか。何かきかれたらそう答えよう。)

 アニシチェは、澄史の焦りなどまったく気づいていない様子で彼の横を通り過ぎると、窓際にしかれた布団に近づいた。

「特に好みはないのですが、こちらの布団を使ってもよろしいですか?」

「はい、もちろんどうぞ。」

アニシチェは軽くほほ笑むと、おやすみなさい、と言って横になった。そのあまりにも慣れた様子に、澄史は少し戸惑った。

(ほとんど知らない相手と同じ部屋で、隣の布団で寝るのに、何の躊躇いもないのか?それに寝具だって、慣れているものとは違うだろうに…。ってこいつの場合、色々な国で修行してるから寝具なんて気にならないか…。………やっぱり、俺とは違う世界の人間なんだな。)

その思いが、なぜかちくりと胸を刺した。


 澄史が筆をしまったり、次の日の着物を用意したりしている間に、アニシチェの方からすうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。

(もう寝たのか。早いな…。)

そこで、ふとある考えが浮かんだ。

(あいつの面布、今めくれないかな…?)

ちらりとアニシチェの方を見ると、仰向けになった体がゆっくりと上下している。

(いや、でも気づかれたらどう言い訳すればいい…?でも寝ている間以外素顔を見れなさそうだし…。)

それに、任務遂行という目的に加えて、本当に空隆とは別人なのか確かめたいという思いも秘かにあった。先ほどは自分で嘲笑した考えだったが、いくら馬鹿にしても、頭の片隅にこびりついていてどうしても気になってしまうのだ。この愚かしい考えを早急に手放すという意味でも、今決着をつけてしまいたい。

(いやでも起きたらどうするんだよ…。)

好奇心と理性の間で悶々としていると、ふと、まだ澄史が紅あかノ(の)僧そうだったころ、緑雨りょくうが昼寝をしていた同級の僧の顔に落書きしたときの記憶が蘇ってきた。



(『ちょ、その筆、どうするんだよ。』

 『決まってるだろ?この油断だらけのお馬鹿の顔に悪戯するんだ。』

 『はぁ?こいつが起きたらどうするんだ。』

 『起きなきゃいいのさ。』

 『おい!』)



(……そうか。起きなきゃいいのか。)

若かりし頃の緑雨の言葉に妙な説得力を見出した澄史は、この思いつきを決行することにした。

 畳と足の裏がこすれる微かな音にびくびくしながら、そうっとアニシチェの布団に近づく。枕元までたどり着くと、一旦動きを止めて彼の様子を伺った。相変わらず穏やかな寝息を立てている。

(よし。)

澄史は覚悟を決め、ゆっくりと手を伸ばして面布の左端をつまんだ。アニシチェの胸元はまだ静かに上下している。大丈夫、と自分に言い聞かせると、今度はその端からじりじりと薄い布をめくり始めた。痛いほどの静けさの中、アニシチェの息づかいと自分の鼓動だけが響いてくる。親指の長さほどめくったところで、彼の髪がのぞいた。

(!)

月明かりに照らされて白みがかっているが、恐らく茶色――すこし赤茶けたような――とび色だ。あの時の直観は正しかったのかもしれない、という期待で澄史の心臓は早鐘のように打ち始めた。一気に面布をはがしてしまいたい気持ちを寸でのところで抑え、さっきと変わらぬ速さで指をそっと上方へ動かしていく。彼の顎先が見え始めた――

「眠れませんか?」

「ひっ‼」

ぱっちりと開かれたアニシチェの瞳と目が合った。

「あ、あの…これは、その…」

アニシチェが苦笑しながら言った。

「すみません、驚かすつもりはなかったんですが。今まで色々なところで暮らしてきましたからね、誰かが近づいてきたら寝ていても分かるんですよ。澄史殿にとっては初めての外泊でしょう?眠れなくて当然です。布団、近づけましょうか。」

「え、あの、いや私は…えっと…はい…。」

(バレた…。いやバレてた…?いつ?最初から?)

驚きと恥ずかしさとが入り混じって頭の中はぐちゃぐちゃだったが、澄史は言われるままに自分の布団をアニシチェの布団に近づけた。

「折角ですしくっつけちゃいましょうか。」

アニシチェは起き上がると、自分の布団の端を澄史のものに合わせ、また横になった。

「さ、澄史殿も。」

澄史の掛け布団をぽんぽんと叩いてアニシチェが催促する。

「はい…。」

澄史は居心地悪そうに布団に入ると、アニシチェに背を向ける形で横になった。すると、隣からずいとアニシチェの腕が伸びてきて、澄史の肩に触れた。

「眠れないときは、誰かからこうしてもらうのが一番よく効くんですよ。穏やかな眠りに誘うおまじないのようなもので。」

柔らかな声でそういうと、アニシチェは優しく澄史の肩をさすりはじめた。

(あいつ、絶対に俺が何しようとしてたか分かってたよな⁈素顔見ようとしてたって‼無礼だと俺を怒鳴りつけることだってできたはずなのに…これから任務をともにする相手と初日から関係を壊すのはかえって面倒だってことか?それともわざと優しくして俺をさらに辱めようってか?)

なんて馬鹿なことをしたんだろうと、澄史は胃がよじれそうなほど恥ずかしかった。アニシチェの予想外の反応にもどう応えてよいのか分からない。後悔と恥辱と困惑でいっぱいで、とにかくこの場から消えてしまいたかった。

(でも…)

アニシチェのじんわりと温かい手が、ゆっくりと肩を撫でていくのは確かに心地よい。

(こんな風に誰かが触れてくれたのって、いつぶりだろう…)

物心ついたときには忠清寺に入れられていたから、もしかしたら初めてかもしれない。不思議だ。アニシチェが触れているのは肩だけなのに、何だか胸の中も、足先までもがじぃんと温まってくる。

「………あの、アニシチェ殿…………ありがとう。」

聞こえるか聞こえないかくらいの声で、澄史がぼそりと呟いた。叱られてしゅんとしている少年のようなその背中に、アニシチェは思わず目を細めた。

「おやすみなさい、澄史さん。」

包み込むような優しい声とともに、澄史は穏やかな眠りに落ちていった。




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