無意味の意味性と今月の家賃 〜思ふところ〜

文園そら

無意味の意味性と今月の家賃 本文

「うっわ、あんなさん飲み過ぎじゃないの?」

「致死量ではないため可としているのだよ」


※※


 「あんなさん」それが彼女の呼び名だった。彼女とはそれなりに長い付き合いなんだけれど、なんというか、呼び捨てにする気が起こらない。仮に他の呼び方に変えてみようと思っても、「あんな先生」とか言った風で呼ぶだろう。あんなさんを前にすると、なぜだか敬称をつけなければならない義務感に駆られる。

 そうそう、実際あんなさんは先生らしい。大学教授をしているとのことだけれど、大学に通うところは見たことがない。それより、部屋に幾度お邪魔しても、講義用のプレゼンを作っている様子すらなかった。

 あんなさんはともかく、酒豪であって美人であって、大学教授であって、何はともあれ不眠症だった。

 あんなさんとは数年以上ルームシェアをして過ごしていたのだけれど、私がバーを経営し始めるのを機に別生活になってしまった。今日は常連さんたちが早く引き上げてしまって、店が静寂に包まれたので、こうして夜風に吹かれながら外を出歩いている。自営業は責任が重いけれど、一度「close」の板を掛ければお店を閉められるから気楽だ。

 銀天街1番通り201は、わたしたちがルームシェアを過ごしていた懐かしき場所だ。ふとアパートの窓を見上げると、明かりのついた部屋から女性の影が。背の高いあの人が、顎に手を据えて、右へ行ったり左へ行ったり、また右へ行ったりしている。間違いない、あれはあんなさんが考えごとをしているときの仕草だ。あんなさんは常に考えていた。と言っても、最近のニュースとか政治とかそういった話はあまりしない。

「何を考えているの?」と聞くと、だいたい「今後の日本の義務教育における理想のベースとは何か」とか、「ニーチェ哲学は結局のところ何が言いたかったのか」とか、「少子高齢化の問題は、三島由紀夫的生死感を地でいったら解決できるのではないか」とか、そういう答えが返ってきた。

 ふと、そのスリムな影が立ち止まった。そして窓を開け、私に気付いてくれる……と思いきや、一升瓶を持ち上げ、ごくごくと何口か飲み、また歩き始めて窓の奥に消えた。お酒のcmでも、あんなに豪快な飲み方はしないだろう。

 あんなさんの洗練された見た目、胡散臭いとも教養があるとも言える深みある喋り方、全てが懐かしくなり、私はアパートの階段を上がっていた。


 インターホンを押して、ドアをノックする。全く反応なし。そこで、

「優子でーす」

 と言ってみた。

 向こうから早足に来る音がして、ドアが開いた。半開きのドアから、目鼻立ちのくっきりした女性が顔を覗かせる。

「これはこれは。では、まず服を脱いで、タイツに着替えてください。それから、体に塩を振ってね」

 あんなさんは言うと、私を玄関に入れてくれた。

 入るなり、強烈なアルコールの香りが。バーをやっている私にすら、鼻についてしまうほどだ。

「うっわ、あんなさん飲み過ぎじゃないの?」

「致死量ではないため可としているのだよ」

 懐かしい喋り方だ。あんなさんは、酔っていようがいまいが、論文を語るような喋り方をする。

 あんなさんは千鳥足で奥にある仕事用机に座った。学芸誌や小説が無造作に置かれてあり、テキーラやウイスキーの瓶も並べられている。どうやらあんなさんは、私の視線に気がついたらしい。

「よほど、典型的な大学教授のデスクが興味深いようだね」

「えっ、大学教授ってそんなに酒飲みばっかりなの?」

「酒を飲まずに研究やっているやからはクレイジーさ。さあ、懐かしき友よ、そこに座りたまえ。もしくは体に塩を塗りたくってくれ」

「それ、なんだったっけ? 注文の多い料理店?」

「最近人生で30回目の宮沢賢治ブームがきたもんでね。それより、バーの営業は今日振るわなかったようだね」

「えっ、どうして分かったの? 休業日だったかもしれないでしょ」

 あんなさんは、「くっくっく」と含むように笑った。「片手に下げている酒の瓶を見れば誰だって分かるだろうよ。まあ酒豪だとしても自分用にしては買いすぎ、大きなバーにしては少なすぎだ。最近の客入れが悪いから、買い足しは少なくて済んだと見える」

「今日営業していたっていうのは、どうして分かったのかしら?」

「それは君、メイクも髪型もばっちりだからさ。唇の光の反射や潤い具合から見るに、数時間前にしっかり塗ったものだとわかる。恋人もいない君が夕方からおしゃれする理由は何だ? それはバーテンダーとしての顔を作るために決まっているだろう」

 恋人がいるかもよ、と言おうとしたけれど、120点の返答が来たらメンタルがやられそうなので、こくこくと頷いた。

「ところで、あんなさんは何を考えていたの?」

「いやはや、『無意味の意味』についてだよ」

「え?」

 無意味なのに、意味? 何だか、矛盾しているように聞こえるけれど。

「優子さん」

「はい」

「無意味の意味、こう聞いてどう思う?」

「ええ……無意味なのに意味っていうのが、なんだか合わないというか、矛盾している気がする」

「なるほど。では、『無意味』とは? 答えてごらん。辞書的な解釈で良いから」

「『意味がないこと』」

「GOOD! しかし、無意味という言葉は、意味がないという意味を包括しているんだ。素晴らしいと思わないかね。『無意味の意味』この響き、他のあらゆる日本語にはない芸術性とも言える奥ゆかしさを感じずにはいられいない」

「はあ」

 あんなさんらしいなと思う。あんなさんのこういった小難しいとも思える話を聞くのが好きだ。けれど、あんなさんの話し相手は私で良いのかな?

「よし、じゃあ続きを話そう優子。全く君は、あたしにエンジンをかけるのが本当うまいんだからね。参っちまうよ」

「ええ? むしろ私が話し相手で良いの?」

「愚か者。優子、ここまであたしの熱をふかして、途中で帰ろうというのかい。そうしたらこの部屋は幹事のいない飲み会のように腑抜けた場になってしまうよ。君はね、大いなる責任を負っているのだよ」

「スパイダーマンじゃないのに?」

「ブフッ」あんなさんは吹き出したかと思うと、一瞬で真顔に戻った。「あたしに話しかけ、論議を始めた時点で、有意義で空虚な雑談に付き合う責任だよ。問答法が哲学理論において重大なのはソクラテスの時代から明らかだろう。ところで優子。君はこの部屋に存在しているか?」

「そりゃあ、居るわよ」

「では、この部屋にカバは存在しているかね?」

「いないでしょう」

「証明してくれ」

「証明っていったって……」

 数十秒か、数分か、私は黙った。少し考えてみたけれど、「カバはいない」って言っても、あんなさんはいろんな方向から反論してきそうだ。「今君の背後にいるかもしれないよ」「優子は部屋全体を肉眼で全く同時に確認できるというのかね?」などと言ってくるのが目に見える。何より、顔がニヤニヤしている。あんなにくりくりした大きな目を、どうして意地悪そうに細くできるのだろう。

「あんなさん、なんだか、カバがいないって証明はできない気がするわ」

「エクセレント!」あんなさん、謎の拍手。「すでに君はウィトゲンシュタイン哲学に入門しているわけだね」

「退場できますか?」

「絶対ダメ。悪魔の証明ってやつだね。要は、『非存在を証明することは不可能である』ということさ。いるかもしれないし、いないかもしれない。

 では逆に、存在の証明は? ウィトゲンシュタインはこうも語っているね。『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』と」

「じゃあ議論自体が無駄ってこと?」

「うーん、どうかね。あたしの解釈では、存在や非存在について語ることそのものがナンセンスだと言っているんだ。つまりこれまでの哲学的命題に対して、解はないと。

 これまでの優子とあたしの会話も、これからの会話も、全てはナンセンスなのさ。沈黙こそ美であり、解を求めることはナンセンスなのだよ」

 あんなさんは言うと、ウイスキーの瓶を持ち上げて、ラッパ飲みした。1リットル瓶で、残り半分はありそうだった。ところが、どんどん減っていき、ウイスキーは底をついた。ウイスキーって度数40%以上じゃなかったっけ?

「ちょ、ちょっと、あんなさんそんなに飲んで大丈夫?」

「『大丈夫』の定義によりけりだろうよ」

「いや、定義気にしてる時点で危ないから」

「実際には急性アルコール中毒になる危険性があるから、悪い子は真似するんじゃないぜ」

「めちゃくちゃだ」

 あんなさんはフラフラ歩いて、「ゴミ箱はゴミの中へェ!」の大声と共に、空き瓶の詰まった透明袋に、さっき空けた瓶を投げ入れ、デスクに戻った。

「ええと、どこまで話したっけ」

「ウィトゲンシュタインの、語り得ぬものがどうとか」

「ああ、そうそう。では沈黙を貫き、『解なし』と仮定して、これまでの哲学的命題が解決したか? 答えはNOだ」

「なんだか矛盾ばかりに聞こえるけれど」

「当たり前だ、人間自体が矛盾ばかりだからね。法律も哲学も恋愛も資本主義も民主主義も人間の創造したものは矛盾ばかりさ。

 ソクラテスは『無知の知』を唱えた。けれどもそれを地でいって、『我々は無知です、何も知らないし語れません』となれば、それで解決か? 否だね。だからこそソクラテスは生涯問答し続けたわけだ。思うに、ここに哲学の本質、ひいては学問の本質があると考えるんだよ」

「明確な答えがないことが答え、ってこと?」

 バカなこと言ってしまっていたらどうしよう。と付け足そうとしたけれど、あんなさんはキラキラした目で私を見つめた。

「素晴らしい直感力」

 あんなさんはペラペラのティッシュを取って、そこにメモをとり始めた。一周回ってきように見える。

「あんなさん、何もメモしなくても」

「いや、凡人の思考回路だからこそ辿り着ける境地もある」

「褒め言葉ってことにしておくわ」

「紛れなく曇りなく褒めたさ。思うに、空虚さとか無意味性にこそ人間の本質がある。そしてあたしの仕事自体もそうなのさ。以前、あたしが求めるディストピア的社会についてSNSで発信をしているとね、とある政治家が突っかかってきた。『学者の方は実現可能かどうかを吟味しなくて良いから楽ですね』と。

 全く意味不明さ。学者は実現可能性を吹っ飛ばして、理論上の最高最善を求める。それが仕事だ。実現可能かどうか考えるのは、政治家や役所とか、行政の仕事だよ」

「確かにね。私はあんなさんみたいに、机上で議論をこねくり回している人も好きよ」

 あんなさんは長い、艶のある髪で顔を覆って、ふっふっふ、ふっふっふと笑った。なんだか、照れているようにも見えるし、漫画の黒幕の笑いにも見える。

「この先、何が資本であるか変容していくと思わないかね。明治ならば、夏目漱石がなんやかんや新聞連載したり、福沢諭吉が偉そうに自分語りしてお金を稼いだ。

 現代ではあたしのような教授が、中身があるのかないのか分からない論文や本を出して食いぶちにしている。プロの動画主だって、10年前は暇人が趣味でやるようなコンテンツを仕事にまで昇華したんだ。有意義性っていうのはいつだって変動している。

 10年後は、思いも寄らなかったものが仕事として誕生しているだろうよ。

 あたしら学者は、その最先端を行っているわけさ。ある者は害虫にルーペを当て、ある者は四六時中統計のグラフを見、ある者は似たような書物を何周も読み漁り批評するのさ。

 国民の9割は現実的な問題、要は今晩のご飯とか、翌朝の出勤とか、来月のクレカ支払いに頭を抱えているというのにね」

「あんなさんは、現実の問題は考えないの?」

「いや、もう手遅れになった頃に思い出すのだ。優子、そういえば今月の家賃が払えない。五万円なんだが……」

 私が席を立って出ようとした瞬間、あんなさんが駆け寄ってきた。

「頼むよ優子、他に友達がいないんだ。あたしの交友関係が狭いのはご存じだろう」

「ソクラテスの哲学で大家さんと話して、どうにかしてください」

「『無知の知』では、家賃システムにおいて全知の大家には勝てんだろうがァ!」


おわり

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