祈り

 ウクライナ問題に対して僕がその『評論』で用いた、「祈り」この言葉には違和感を抱いた方はいらっしゃいましたね。

 思いだけでは何もできない。僕もそれはよく分かります。


 しかし……。希望を望む祈りがどうしても必要に思います。

 例えば、もはや祈りしかない状況。例えば、日本でのデモを成功させて多くの募金を集め、政府の情勢への積極対応を主導し適切な用途に用い、軍医、志願兵を募り、そして自身も志願兵として渡欧し、防空壕、塹壕、トーチカ、防衛線、補給線の設置を指揮し、自身も参加し、実戦でも軍功を上げたという完璧な人間にも、平和のための祈りは必要です。ここまですれば「お前は戦場に立ち会ってもいないのによくそんな無責任なことを言うな」とか言われやしないでしょう。ですから、祈りは必要です。


 果たして誰が祈る資格があるのかは分かりません。それとも、祈るだけでは不適切なケースにあたるのか……。

 それはもちろん、何か建設的な祈りをすることは、祈らないよりはかなりマシです。それを「祈るな」なんて酷いことはいえません。しかし、戦争のように、「彼らが苦しむのに何ら物理的な救済をしないというのは言ってしまえば、あなたが彼ら彼女らを見殺し、どころか間接的に殺している」という表現は、僕には理解できます。


 そう、僕には募金はもはや義務ですらあるとも思えるのです。それの放棄は殺人に等しい、そう。私達には見えていませんが、私達の募金によって人命が救えるのなら、私達が募金をしないことで人命が失われる、ということも意味します。

 それを、無責任な祈りで代行していいのか。


 どころか、「国境なき医師団」とかそれこそ生命を賭した活動に参加しない限り私達に彼ら彼女らを助けられやしないのではないか。


 分からんのです。以前、僕の第1志望を決定せしめた先輩は、諦めるしかない、そう諭して下さいましたが。

 まあ、確かに私達は恵まれすぎてるワケなのですよね……。民族紛争もないですし、陸続きに民が定住している形相地帯もないですし。餓死もほとんどない。

 もちろん、相対的貧困はあると認めた上で、絶対的貧困はほぼないだろう……と。いう意味で。もちろん、スマホが買えないことは貧困と認定するに足ります。

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