第80話 明日なんて来ない


 外では雨がザァーザァーと本格的に降り始めていた。


 寺にお参りして安産祈願のお守りを買った後、レンタル品の袴を返した俺達は有馬温泉近くの高級旅館にチェックインしていた。


「ふぅーー……」


 夜ご飯まで少し時間があるので、今は喫煙の和室で外の景観を楽しみながら煙草休憩中だ。


 宿泊部屋は3階の角部屋。そこから外を見ると、運河を流れるように湯が街を横断しているのが見える。雨で気温が下がったおかげか、流れる湯からは湯気が煙草の煙と同じように漂っていた。


「なぁ、こういう窓際のスペースってなんて言うんだっけ?」

広縁ひろえん、であるな」

「そっか」


 窓際のスペースにある低い机と椅子に座り、安瀬と一緒になって煙草を堪能する。じめっとした空気がクールスモーキングを助けてくれて、するするとニコチンが巡っていくのを感じていた。


 こうなると酒が欲しくなるのだが、俺が持参したセベデは全て安瀬に飲まれていた。なんだかんだ言って、気に入ってくれていたらしい。


 ここまできたら酒はもう夜の懐石料理までお預けにしておきたい。鍋や刺身、ご当地の料理を熱い日本酒をキューっとした方が理想的な酒盛りになりそうだ。


「前々から思っておったのじゃが」


 夜ご飯とお酒への期待に胸を膨らませていると、対面に座る安瀬がメビウスのカプセルを嚙み潰しながら俺に声を掛けてくる。


「お主ら、単位は大丈夫なのでござるか?」


 大きな煙草の灰が、ぽとりと灰皿に落ちた。


「旅行にあ奴らを呼び寄せておいて言う事ではないが、最近サボりすぎではないかの? 拙者は本気を出せばどうとでもなるが、お主らはそうではなかろう?」

「…………えっと、それはな」


 これは深刻な話題だった。


 昔、俺は本気で受験勉強をしていた訳だが、その努力は不慮の事故みたいな物でおジャンとなった。その為、俺は大学に入ってすぐの頃『大学に入ってまで勉強なんかしたかないね』と斜に構えていたのだ。


 今になってその反動が来ている。勉学意識が向上したのはつい最近だ。


「た、単位は西代が一番ヤベーと思うぞ、うん」

「そんな事は分かっておる。あ奴は我らの中でぶっちぎりのサボり魔ではないか」


 現時点、俺達の中で単位が一番少ないのが西代だ。その次に少ないのが同率で俺と猫屋。そして栄えある単位数トップが、無駄に賢すぎる安瀬だ。


「我が心配しておるのは、お主と猫屋の方でありんす」


 安瀬は言外に『西代はやる気さえ出せばどうにかなる』と言っている。それは俺も同意見だ。西代はやればできる子、自頭は間違いなく良い。そして、やってもできない子達は俺と猫屋。


 安瀬と西代の2人に比べて、頭の性能は凡だ。


「…………」


 気分がどんよりと落ち込んでささくれ立つ。


 せっかく金貯めて旅行に来ているんだ。糞ったれな学業の事なんて今は考えたくない。


「そ、そんな事より、今のうちにレンタカーの延長を申請しておかないとな!!」


 話題を転換させるため、俺はポケットからスマホを取り出して、そそくさと指をスライドさせた。


「さぁって、延長、延長っと」


 明日からこの旅行に猫屋と西代が加わり、さらに当初予定してた2日間より長く県外を遊び回る。レンタカーの延長申請は必須だ。


「また露骨に話題を逸らしおってからに……。これでも一応は心配しってやっているのじゃぞ?」

「ぐっ……ま、まぁ今は別にいいだろ? 勘弁してくれ」

「ふふふっ、その様子では、この旅行が終わったら期末試験まで一切サボれんようじゃな」

「あ゛ぁ゛言うんじゃねよ……考えたくなかったのに」


 安瀬の余計な小言を聞いて憂鬱になる。せっかくの旅行気分が落ち込むので、なるべくサボった後の負債を考えないようにしながら俺はスマホを操作し続けた。


「…………よし、レンタカーの延長完了っと」


 喫煙可能なレンタカーは需要がないのか、長期の延長申請は直ぐに通った。これで足には困らずに済む。料金も4人で割れば大した事は無い。


 ──ブブブブ


「ん?」


 申請が終わったのでスマホをポケットに仕舞おうとしたその時、持っていたスマホが震えだした。


 プッシュ通知ではない、長い呼び出しコール。画面を見て着信を確認する。


「え」


 予想外だった。スマホに表示されていたのは


「…………」


 一瞬、通話に出るかどうか迷った。


『俺の代わりに桜を頼む』


 先月の結婚式で、彼に頼まれた内容を思い出したからだ。


 あの時から、俺の陽光さんに対する印象は少し変わっていた。


 建前を取っ払って本音で言ってしまえば、ちょっと気まずい悩みの種。迷惑、という訳ではないが、暫くは距離を置きたい……そんな感じだ。


 だけど、まぁ、無視をする訳にもいかない。


「安瀬、悪い。ちょっと電話に出てくる」


 安瀬に断りを入れて席を立つ。なんとなく、安瀬の居る場で陽光さんとは通話をしたくなかった。


「ん、分かった」


 安瀬はレンタカー屋が折り返してきたと思っているのだろう。特に訝しむ事無く頷いた。


 広縁から室内を横断し、横開きのドアをガラリと開いて部屋の外に出る。そのまま廊下を少し歩いて部屋から離れた。


 十分に距離を取ったその後で、バイブレーションが続く電話を取った。


「はいもしもし、陣内です」

「あ、あぁ、梅治君、私だ。よ、良かった、出てくれて」


 安瀬陽光、安瀬の兄が電話越しに俺の名を呼ぶ。その声音は少し安堵感を孕んでいるように思えた。


「えぇっと、お久しぶりです、陽光さん。今日は一体どういったご用件で? 俺、今ちょっと遠くに遊びに出てまして──」

「さっ、桜はその場にいるか?」


 俺の電話にかけておいて陽光さんは何故か突然、妹の有無を確認してきた。


「いえ、この場には居ませんけど……でも、すぐ近くにいるので用があるなら呼んできましょうか?」

「あ、いや、いい。呼ばないでくれ……」

「? そうですか」


 はぁ、はぁ、と荒い呼吸音が聞こえてくる。


「その……それでご要件は?」


 再度、要件を訊ねた。少し、陽光さんの様子がおかしい気がした。


「す、すまない。今、少し混乱が、激しくて……」

「どうしたんですか? 何かあったんですか?」


 明らかに冷静さを欠いている声音だった。


「ち、千代美に陣痛が起こって、破水した」

「……はぁああああああああ!?」


 聞こえてきたド級の事実に、顎が外れそうになる。破水、とはつまり、破水だ。赤ちゃんが出てくるときに起こるアレだ。


「そ、それって大丈夫なんですか!? まだ予定日まで1月はありますよね!?」

「あ、あぁ、それは大丈夫だ」


 俺の焦った声を受けて、陽光さんは直ぐに返答する。


「早産には分類されるけど、1月早い程度なら平気ら、らしい。子供の体重も、す、少し軽いぐらいで問題ないそうだ」

「な、なら良かったです」


 それを聞いて、深く安堵の溜息をつく。


 ……安産祈願のお守りを買った意味があったのか、無かったのか分からない話だな、これ。


「千代美はだいじょうぶ、な、はずなんだ。で、でも、何が起きるか分からないから、俺は傍について、ついて、いるべきで、あって」

「?」


 陽光さんの滑舌は、途切れ途切れでおかしかった。


 やはり出産というのは、傍に居る事しかできない父親の方が心配になるものなのだろうか? 少し焦りすぎな気がするが、もし俺もその立場になればこれほど緊張してしまうのかもしれない。


「ち、ちくしょう、何で、どうして」

「陽光さん、大丈夫ですか? 焦る気持ちは分かりますけど、とりあえず落ち着いてください」

「はい?」

「雨で、視界も悪かった」


 目と……雨? 急に何の話だ? 奥さんが産気づいた話はどうなったんだ?


 いや、そもそも、何で俺に電話を掛けてきたんだ? 普通、この手の緊急連絡は妹が先だろう。安瀬のやつ、もしかしてスマホの電源切ってんのか?


「俺は前からっ、親父に言ってたんだ。気を付けて、くれって。一度詳しく検査してもらえばって。でも、なんで、あ、ぁ、な、なん、で、なんで……」


 通信障害を起こしているのではないかと思うほどに、電話越しの声が乱れた。





「お、親父が交通事故にあった」





 やめろ。





「意識不明の、重体で、病院に、搬送され、て。ぁあ、なんで、なんでどうして、こんな、こんな事に」



 それだけはやめろ。



「こ、これからだったんだ。桜も、私も、受け入れて、やっと元に、元に戻って来たはずなのに、これから全て上手くいくはずだったのに、何で、どうして、どうして」

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