第72話 恐ろしい人


 東京で飲み歩いた翌日の金曜日。今週はとても時間の流れが早かったと感じる。週末までタイムトラベルしてしまったような感覚だ。月・火・水と檻の中だったので当然と言えば当然かもしれない。それに、昨日もよく飲んで遊び歩いた。


 浅草で電気ブランをたらふく飲み、その足で濁酒どぶろく専門店へ直行。どろりと濃い大人の甘みを楽しみ、次は様々な洋酒が取り揃えられた酒屋で酒を補充してカラオケに赴き……………………そこから先の記憶が途切れている。推測だが、12時間は飲みっぱなしだったろう。我ながら大学生らしい遊び方だと思う。


「う゛ぉぇ゛ッ」


 当然、二日酔いだった。


「……頭いてぇ。早く椅子に座りたい……」


 人がごった返す昼の大学食堂。俺は食券も買わず、水の入ったグラスだけを持って空いている席を探していた。頭痛が酷すぎるので、都合よく誰かが退席してくれないかと切に願う。希望を込めて、首を左右に振って周囲を見渡す。


 その瞬間、モーゼが海を割ったようにザバァっと俺の目の前から人が居なくなった。


「…………??」


 俺の願いは、何故か一瞬にして叶った。普段の行いが良かったのだろうか? それとも俺の顔色が悪すぎて席を譲って貰えたのだろうか?


(……何でもいいか)


 突っ伏すようにして、机に項垂れた。立っている事が苦しい。こんな体調でも大学をサボらなかった自分を死ぬほど褒めてやりたい。


 ちなみに酒飲みモンスターズは全員サボりだ。俺に代返だいへんのお願いだけして、シェアハウスで眠っている。今も布団の上で呻き声を上げているはずだ。奴らも昨日は馬鹿みたいに飲んでいた。


「う゛っ」


 昨日飲んだ酒の味を思い出して嘔吐えずいてしまう。いくらアルコールが好きであろうとも、二日酔いの時は流石にこうなる。


「くそっ、昼になったのにまだ気持ち悪い……」


 仕方ない。こうなったら、"とっておき"を使おう。


 俺は丸い円形の錠剤を鞄から取り出し、プラスチックの包装を破って水の入ったコップに放り込んだ。シュワァーーっと炭酸みたいな気泡が水に溶け始める。


「陣内パイセン。それ、何っすか?」

「ん?」


 何やら覚えのある声が聞こえてくる。視線を声の方にやると、そこには海賊のような眼帯をかけた中二病女がいた。


「あぁ、久しぶりだな、大場おおば


 バイト仲間の大場おおばひかり。年齢的には1つ下、だけど学年的には1つ上の3回生という変な間柄の人間だ。最後に会ったのは確か…………病院から退院して直後のシェアハウス悪臭事件の日か。


「ちーっす、先輩。暗黒堕天使ヒカリちゃん、今日も元気に活動中っす!!」


 座る俺を前にして、彼女は眼帯に横ピースを添えながら意味不明な自己紹介を口にした。


「うっせぇな、お前」


 馬鹿みたいな挨拶が頭にキンキンと響く。


 嗚呼、キャラが濃い。加えて言うなら、そのキャラは昨日便器に吐いた嘔吐物よりも混沌としている。


「ありゃりゃ。ご機嫌斜めっすねー、パイセン。どうしたんすか?」

「昨日飲みすぎただけだ」


 短く言葉を返し、錠剤を溶かした水を一気に飲み下す。それだけで、ささくれていた気分が少しだけ落ち着いた気がした。


「相変わらずの酒好きっすねー……。あと、もう一回聞きますけど、それなんですか? ラムネ……というよりお風呂の入浴剤みたいに見えますけど?」

「アルカセルツァーって知ってるか?」

「名前めっちゃカッコイイっすね!! ドイツ語っぽい感じで語感が中二心をくすぐるっす!! もしかて超能力に目覚めちゃう系の丸薬ですか!?」


 そんな薬はこの世に存在しない。


「んな訳あるか。これは


 Alka-Seltzerアルカセルツァー。解熱、鎮痛、消炎、胃もたれに効く薬だ。それだけ聞くと頭痛薬と似たような物だが、発泡錠はっぽうじょうのため即効性が通常の錠剤とは桁が違う。俺の場合は30分も経たない内に効果を発揮してくれる。苦しい二日酔いの時はこれがあると心強い。


「へぇー、二日酔いに薬ってあったんっすね」

「洋画や海外ドラマでは結構出てくるぞ。ほら、二日酔いのイケメン俳優が水に錠剤を溶かしてがぶ飲みしてるだろ?」

「洋画とか見ないんで知らないっす。日本じゃあんまり有名じゃないんすか?」

「そもそも日本じゃ売ってないぞ、これ」

「え」


 大場は片方しか晒していない目を収縮させ、少したじろいだ。


「に、認可通ってないんっすかそれ? だ、大丈夫なんっすかその薬?」

「さぁ? 俺は映画の真似がしてみたくて取り寄せただけだ。よく利くけど、おいそれとはお勧めしない。服用する時は自己責任で、だな」

「いやぁ……飲む気にならないから大丈夫っす」


 大場は引いているが、海外ではちゃんと一般的な薬だ。日本でも昔は販売されていたらしい。日本にはしじみ汁や雑炊といった二日酔い対策があるから売り上げが振るわずに撤退したようだ。


「手軽で水分も取れて楽なんだけどな。慣れれば変な苦みも気にならないし」 


 実際に、軽く話していただけなのに気分が楽になってきた。効き目が本当に早い。頭痛は残っているが、先ほどよりも大分マシだ。


「陣内パイセン、そんな変な物飲んでるからヤベー噂が立つんっすよ」

「ん?」


 大場の口から要領を得ない言葉が飛び出した。ヤベー噂とはなんだ?


「おっ、興味あります?」


 俺の怪訝な表情を見て、大場はニヤニヤとムカつく顔をしながら詰め寄ってくる。


「聞きたいっすか? 聞きたいっすよね? 私の狂言回し的な解説を聞きたいですよね?」 


 狂言回し的な、と言うのはよく分からないが彼女は話したそうにしている。それにどうやら俺に関する情報のようだ。彼女のテンションはうざったいが、その噂話の詳細を聞いておいた方がいいだろう。


「……じゃあ、頼んだ」


 俺の許諾を受けて、大場は得意気にほほ笑んだ。


「ではでは、うおっほん。……埼玉情報インフォメーション大学。そこに、全学生一の傾奇者であり、極悪非道の男あり」

「ん?」

「常に酒気を帯び、美女を侍らせ、絶えず喧嘩を繰り返す札付きの悪。その名をという。額にできた傷は闘争の日々の証明。日夜、バイクを唸らせて集団で暴走行為をくりか──」

「待て」


 ものの数秒で大場のふざけた語りを止める。俺の名前がもろに出ていたからだ。


「……それ、マジで噂になってんの?」

「はいっす」

「お、おぉぉ……」


 震えた。手の震えではない。彼女の真っ直ぐな肯定に、俺は震えてしまった。


「ど、どうしてそんな事になってんだよ……!!」


 たしかに、前から学科内では浮いていた。いや、浮いているどころかもはや観光名所くらいの扱いをされていた。だが、大学全体で噂が広がるのは流石におかしい。


「私なりに色々調べてみ……情報をトレースしてみたっすけどね」

「カッコよさげに言い直すな。いいから、もっと簡潔に答えてくれ」

「うぃっす。……なんか、陣内先輩が警察に捕まる所を見たって人がいたらしくて、その目撃証言が噂の原因っすね」

「あ」


 心当たりがあった。最近、俺は2回も警察のお世話になっていた。どちらかを同じ大学の生徒に見られたのだろう。額にできた傷跡と警察沙汰。その2つが俺の悪名と合わさって、ついに爆発したのだ。


「他にも、違法な速度でバイクレースしてるとか、大学内で賭場開いてるとか、悪い噂が大学中に広まってるっす。かっくいぃ~~、陣内パイセン!! 有名人っすね!!」

「よくねぇ!!」


 声を荒げて大場の言葉を否定する。すると、周囲の目線が俺達に集まった。ヒソヒソとした声が俺の耳に勝手に入ってくる。


『うわっ、あの人なんか怒ってる……』

『噂通りの人なんだな。こっわ』

『女の子脅し付けてるよ。野蛮すぎだろ』

『というか、女子が少ない大学でよく女を侍らせられるな』

『やっぱり悪い男の方がモテるのか……俺も今から大学デビューしようかなぁ』


 …………極悪人扱いされてる。


「さっき俺が席に座ろうとしたら、人が逃げるように散ったのは……」

「避けられてるからっすね」


 聞きたくない事実を、大場は何の躊躇もなく答えた。


「あっ私、とばっちりは御免なんでこれで失礼するっす」

「あ、あぁ」

「では先輩。また、今日のバイトで」


 俺と一緒に居る事が恥ずかしいのか、大場は颯爽と逃げていった。

 

「……マジかよぉ」


 薬を飲んだはずなのに、頭痛が鋭くなった。

 どうやら俺の周りからの評価は、女を侍らして酒を飲み奇行を繰り返す変人から、犯罪行為に手を染めている超ヤベー奴へと変化したようだ……。


 ──ブフ゛


 自身の悪名におののいていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。


「んだよ」


 陰鬱な感情を叩きつけるように、スマホのロックを荒々しく外す。


『詳しい話を聞きたいので、今から4人で研究室に来なさい』


 佐藤先生から、短いお呼び出しのメールが届いていた。


「ぐ、ぐおおぉ……!!」


 弱り目に祟り目。まさにそんな感じ。用件を詳しく書いていないが、怒られる事だけは確定している。


「はぁぁぁ」


 俺はため息をつきながら、手早くスマホを操作して返信を綴った。


『今日、俺以外は自主休校となっております。ご迷惑をおかけしますが、招集を来週の月曜日にしていただけませんでしょうか?』


 今日は無理だ。酒飲みモンスターズは夕方まで起きない。起こしに行く気力もない。


『仕方ありませんね。事情聴取とお説教は月曜日の放課後にリスケします。そちらもバイトを入れずに予定を開けておきなさい』

『ありがとうございます。いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません』


 文面を打ちながら頭を下げた。佐藤先生様には頭が上がらない。


『ところで、今日の出席記録では全員出席とありますが、これは?』

代返だいへんしてすいませんでした』


 俺は一瞬で罪を認めて謝った。出席はPCで管理されている事をすっかり忘れていた……!!


『アイツ等に脅されてしまって仕方なく(涙)。あのゴミ共の事はどうなってもいいので俺の単位だけはどうかお許しください』

『中々の処世術ですね。その仲間を売る速さに免じて、3人の"単位"取り消しだけで手を打ってあげましょう』


 佐藤先生は優しい教授だ。なんと俺の代返の罪は見逃してくれるらしい。これで俺の単位は助かったな、ガはははっ!!


「…………」


 俺は無言でスマホを操作し続けた。


『ありがとうございます。また話は変わりますが、先日、父がコエドビールの12本セットを送ってくれました。不躾ながら、この前のお詫びも兼ねて先生もご一緒にいかがでしょうか? 当方には他にもアガバレステキーラを用意する準備がございます』

『種類は?』

『レポサドです』

『申し訳ありません、先ほどのメールには誤字がありました。3人の"単位"取り消しではなく、3人の"出席"取り消しです。間違いがあったことお詫びします』


 賄賂は無事に受け取られた。


『俺は先生のような方が担当教授で幸せです』

『そう思うのなら問題行動を少しは控えなさい。何をしたらこんな噂が大学に広まるのですか?』

『いや、それに関しては本当にすいません……』


 謝罪の返信を打ち、俺は午後の講義を受けに席を立った。


************************************************************


「ぃぃいらっしゃまっせぇぇえ!!」


 無駄に語尾を跳ね上げた外連けれん味のある大声が聞こえてくる。どうして和風の居酒屋ではあのような挨拶が好まれるのだろうか?


「ご新規一名様入りましっったぁぁあ」

「「ぁありがとうございまぁす!!」」


 キッチン内で、大場と共に大音量で声を返す。不思議には思うが、空気を読んで俺達も過分に抑揚をつけて対応した。


「これってやる意味あるんっすかね? 無駄に舌を巻く感じのやつ……」

「んん、どうなんだろうな?」

「酒マスター陣内パイセンが即答できないようなら、やっぱり要らないですねこの掛け声」

「おいおい照れるぜ。俺みたいな若輩に酒マスターはやめてくれよ」

「ヒヒヒ、パイセ~ン、顔にやけてますよー」


 業務エプロンに眼帯という謎ファッションの大場としみったれた声で雑談を交わす。ここは居酒屋のキッチンだ。客に会話を聞かれる心配はない。


 俺は久しぶりのバイトに精を出していた。俺のバイト先は、奇をてらった様もなく居酒屋だ。ここほど俺が生き生きと働ける場所もないだろう。なんせ、出す物はほぼ酒とつまみ。そんな物はレシピを見なくても簡単に作れる。忙しいので天職とは言わないが、まぁ気に入っている。


「それにしても、金曜日なのに今日は割と落ち着いてるっすね。キッチン2人でも余裕で回せそうっす」

「新入生歓迎会のシーズンを過ぎたからな。店長もその辺りを考慮して2人にしたんだろうよ。俺も今日は早上がりだし」


 季節はもう5月の中旬。繁忙期は既に終わっている。


「パイセン、今日は何時までっすか?」

「20時。後15分で終わりだ」


 本当はもっとガシガシ働きたかったが、最近は従業員の体調も考慮しないと駄目とかなんとかで、店長が短い出勤しか許してくれなかった。


「あぁ、だからあの人来てるんっすね」

「? 何が?」

「さっき入店した人っすよ。えぇっと……、でいいんでしたっけ? 変わった名前の人ですよね」


 『こっちです』っと大場はキッチンの出入口へ俺を手招きする。それに応じて、俺は客席を覗き込んだ。


「本当だ」


 客席に、ポツンと1人で猫屋が居た。


 不揃いな棒状の鈴が無数にぶら下がった金属製のツリーチャイム。それがシャラララと彼女の傍で鳴っている。そう錯覚するほど、猫屋の服装は洒落ていた。薄い化粧と、新品らしきパリッとしたカーディガンやスキニーパンツが良く似合っている。


「…………アイツ、どうしたんだ?」


 気合の入った恰好は、猫屋なら不思議とは思わない。だけど、この場に居る事には疑問を抱く。


 酒飲みモンスターズたちはあまりこの居酒屋にはこない。理由は単純に、普段飲み食いしている物の方が上等だからだ。


 前の賃貸にいた頃から酒のラインナップはBAR顔負け。食事は和洋中バリエーション豊かで美味い。俺含め4人とも食道楽の気があるので手の込んだ物でも自分で作る。なので、ご当地の名産品を食べに行く等の理由が無ければそもそも外食の頻度が少ない。行くとしてもラーメン屋くらいだ。


「はわぁぁ……いつ見ても綺麗な人ですよねぇ」


 羨望交じりの溜息が大場から漏れた。彼女はモノクル片眼鏡と簡易望遠鏡を取り出して、遠目から猫屋を注意深く観察し始める。


「なんでそんな物持ってんの、お前?」

っす。中二病の特技は人間観察って相場が決まってるんすよ」


 キャラ付けのためにそこまでするのか……。相変わらずマジで意味が分からんヤツだ。安瀬と同じくらい意味わからん。


「特にあの手のシルエット。もう100点満点っす。肌ツルツルだし、ネイルラインなっがぁい……ハンドケアとかどうやってるんっすかねぇ」

「そう言えば、いつも風呂上りにぺちゃぺちゃしてるな。爪にジェル塗ったり、ハンドクリームで保湿したりして」


 風呂上がりの猫屋の行動を思い出して口に出した。大場は俺が酒飲みモンスターズと同棲している事を知っているので、特に問題はない。


「俺が知る限りだと、毎日欠かさず手入れしてる」

「ほぇぇ、偉いっすね。フェイスケアならともかく、手の方まで気を回せる人は少ないっすよ。面倒っすからね」


 大場の言う通りだ。俺なんて、安物の化粧水をぶっかけただけ満足する。


「…………痕跡を消したかったのかもな」

「はい?」


 拳をしっかりと握るには爪が短い必要があり、撃ちつけられた拳頭けんとう付近の肌は荒れる。彼女の努力の証明は、きっと手に刻まれていた。たぶん、それは、今よりも光を放ってなお綺麗な──


「いや、何でもない」


 馬鹿が。余計な憶測だ。デリカシーのない阿呆。だからモテねぇんだよ、俺は。くたばれ。


「……にしても、お前美容とか詳しいのか?」


 咄嗟に思いついた事を発声した。


「地元にメイクの専門学校行った友達がいるんっすよ。その友達の影響で今、美容熱が噴き出してるっす」

「へぇ」


 適当に相槌を打つ。話が逸れたならそれでいい。


「薄い化粧っていうのも客観的に自分を見れててカッコイイっすよねー。化粧する時って、つい厚塗りにしちゃっていうか、鏡と睨めっこして少しでも良くしようと追い塗りしちゃうもんなんっすよ」


 右手が使えないので薄くなっただけだ。怪我が悪化する前は、女性が好みそうな色の塗り方をしていた。


「…………仕事に戻るか。悪いけど、この後暫くアイツと飲むだろうからドリンク作りよろしく」

「ん、あぁ了解っす。暇なんでモーマンタイっすよ。……ヒヒヒッ、でも妬けちゃうんで、あんまりイチャイチャしないでくださいよ?」

「馬鹿。茶化すなよ」


 大場の軽口に、軽口で返す。そして『20時に上がる。だからもう少し待っててくれ』っとスマホで猫屋に連絡を送り、俺は業務に戻った。


************************************************************


 更衣室でバイト着から着替え、その足で猫屋の座っているテーブル席へ直行する。


「や、やっほーー、陣内。来ちゃった!」


 俺に気がついた猫屋が軽く左手をこちらに振った。


「珍しいな、猫屋。お前がここにくるなんて」

「あ、あぁー、ほらー、今日は私以外は皆バイトじゃーん? だから暇だったー、みたいなー?」

「あぁ、なるほど」


 納得した。安瀬と西代も今日はバイト。猫屋はまだバイトに復帰するのは難しいのでお留守番だ。あの広い部屋に1人きりというのは寂しいだろう。


「安瀬と西代は22時あがりだったな。それまでここで時間を潰しに来たのか」

「そーいうこと。ここなら陣内のバイト割引が利くでしょー?」

「まぁな。……でも、キッチンの同僚に迷惑が掛かるから、つまみとドリンク以外の注文は勘弁してくれよ?」

「分かってるってー」


 猫屋の対面に腰を下ろす。2時間ほどの酒盛りだ。飲酒欲求がグツグツと沸き立ってくる。


「それでー、店員さん。ここのおすすめはー?」

「味で選ぶなら普通の生だ」


 偶に変な匂いが付いたビールを出す居酒屋があるが、あれは御ビール様を冒涜していると言っても過言ではない。俺が務めている店ではそのような無礼がないよう、ビールサーバーはいつもぴかぴかにしている。


「コスパが良いのは果実酒の類だな。炭酸割りにすれば原価が一番高いはずだ」

「居酒屋泣かせな男だねー。じゃあ私はビールで良いかなー」

「なら俺はプルシアにするか」


 タッチパネルのメニュー表を操作して酒と枝豆を注文する。既に同僚のホールスタッフにバイト割引の飲み放題を頼んでいるので注文はつつがなく通った。


「てか、普通に酒頼んだけどさ、お前二日酔いはどうなんだ?」

「1日中寝てたら治ったしー、もう平気ー。代返テンキュー! いやー、超たすかったよーー!!」

「お、おう。最大限の努力はした」

「…………?」


 俺の勿体ぶった言い方に、猫屋はコテンっと首を傾ける。これ以上の説明義務は俺にはない。単位が修得できるかどうかは、彼女のこれからの学習意欲次第だろう。


 俺は気まずさを誤魔化すために、テーブルの端に積まれた灰皿を1つ自分の手前まで寄せた。


「猫屋、ピースを分けてくれ。昨日のがまだ残ってるだろ?」


 甘い煙草を切らしていた。それに、バイト疲れには濃い目のニコチンとタールが望ましい。一気に疲れが吹き飛ぶ。


「あぁーごめんねー。今日は私、コレなんだー」


 そう言って、猫屋はアルミニウムの光沢が綺麗な細長い加熱式タバコをバックから出した。そのまま彼女は筒状の入口に少しだけ短い紙巻をセットする。1分もしない内に吸えるようになるだろう。


「そうか」


 俺たちはシガレットを好むが、そう言う日だってある。猫屋の今日の恰好はとても華やかだ。そして、加熱式は匂いがつきにくい。服に臭いが染み付くのを嫌ったと考えるのが自然だ。


「これ、待つ時間がもどかしーよねー」


 猫屋はペンを回すように左手でクルクルとデバイスを弄ぶ。そうしていると、ブブッとデバイスが震えた。加熱が終了した合図だ。


「はい、じんなーい」

「え?」


 猫屋の細い手が俺に差し出される。その手には加熱式タバコが握られていた。


「ほ、ほらー、吸いたいって言ってたじゃん……ね?」

「……悪いな。ならありがたく」


 初めの一吸いとは申し訳ない。そう思いながら、デバイスを受け取ってフィルターを浅く咥えた。


「すうぅ、ふぅぅー…………」


 …………沁みるなぁ。メンソールの冷めた心地が体に浸透する。


 まぁ、だが、しかし。


「当たり前なんだが、いつも吸ってる方のが美味いな」

「そりゃーねー。……でもー、アレを見たら、味なんて直ぐに追いつくんじゃないかって思う」


 猫屋は俺の背後を指差す。釣られて背後に振り向くと、そこには配膳ロボットが俺達の酒を運んでいた。ロボットを見るに、彼女は日進月歩な技術遷移を口にしている。


「きっとー、煙草もお酒もどんどん手軽に美味しくなってー、パチンコの演出ももっとド派手になるんだろーね。そう考えるとー、未来って超あかるーーい……!!」

「最後のは違くないか?」


 パチンコは物理的に明るいだけな気がする。


「あははっ、細かい事は気にしない、気にしなーい」


 猫屋は小気味よく笑ってテーブルに身を乗り出した。そのまま手を伸ばして、彼女は俺からデバイスを取り上げる。


「えへへ、もーーらい」


 ピンクに濡れた唇が白いフィルターを挟んだ。目を細め、猫屋は煙をゆっくりと吸い込む。空気が胸に流れ込んで膨らみ、肺が躍動していた。


「ふぅーー…………」


 吐き出される煙は、かすみのように彼女を覆う。その姿は艶やかだ。女が煙草を吸う姿は男とはまるで違う。……彼女クラスがやるとエグイ。汚い煙が神秘的に見える。というか、間接キスとかまるで気にしないよな、コイツ。


「もーらい、って元々お前の煙草だろ?」


 面倒な感情を掻き消すよう悪態をついた。同時に、運ばれてきた酒を手に取って呷る。


「ま、まぁーなんか貰った感じするしぃー……べ、別にいいじゃん」

「んっ、んっ……ふぅ。あっそ」


 労働後の酒と煙草はやっぱり最高だ。


「あ゛ぁ゛ー、今日も酒がうめぇええ」


 幸せだ。本当に幸せ。もう麻薬だな、これ。多幸感が止まらない。


「バイトお疲れー陣内。……に、にしてもー、確かに今週は大変だったよねーー」

「ん、あぁ、そうだな。もう牢屋は懲り懲りだぜ、俺」

「私もーー……。あとー、西代ちゃんが実はお金持ちっていうのも驚きーー」

「分かる。アイツ、普段は全然お嬢様じゃないからな……」


 提供される話題に頷き、身内の話題に花を咲かす。居酒屋の大学生ぽい会話内容だった。日常的な感じでとても落ち着く。


「陣内はさー、実は石油王の息子だったりしないよねーー?」

「日本に石油王はいねぇ」

「じゃあ陣内の両親って何の仕事してるのー?」

「父さんが会社員で、母さんは税理士」

「ならー、お爺ちゃんとお婆ちゃんはどんな人?」

「どんなって…………まぁ、普通だよ。というか、何だ突然? そんなに気になるか? 俺の家族構成?」


 突如始まった猫屋の質問攻め。別に話しても問題ないが、彼女の好奇心の強さが少しだけ気になった。


「い、い、いやー、私、前からじんっ…………み、皆の事がもっと知っておきたいなーって思っててさー! ほ、ほらー、私たちってもう結構付き合いあるけどー、意外と知らない事あったりしそうじゃーーん?」


 ぺらぺらと息継ぎの間なく、猫屋は饒舌に理由を話した。何故か、若干しどろもどろだった。


「という訳でー、クエッション!!」


 猫屋は加熱式タバコを逆さにして俺に突き付ける。マイクの代わりらしい。

 

「好きな煙草の銘柄はー!?」

「え…………吸い口が甘いヤツだけど」

「じゃあ、好きなパチンコの演出はーー!?」

「V-フラ」

「なら、好きなお酒はーーー!?」

「アルコールならほぼ全部、特に甘いヤツ……知ってるだろ?」


 今さら聞かれるまでもない質問だと思った。


「な、ならさーー」


 猫屋はピアスを弄りながら躊躇いがちに続きを話す。


「好きな女性のタイプとか、さ…………ある?」


 おっと、マジか。


 彼女の意外過ぎる問い掛けで、意識に空白が生まれた。本当に一瞬だけ、言葉が喉に詰まってしまった。


(恋バナとか異性関連の話に発展しちゃう流れか……)


 この手の話をするのは何年ぶりの事か。

 恐らく、高校の修学旅行の夜以来だ。あの夜は友人達と下らない話をして笑い合った。恥ずかしさと照れ臭さが混じった青春の一幕が、俺達に謎の高揚感を与えてくれる。よくある定番の話題だ。盛り上がりやすい、話の種。笑い話。


 だから、この話題に乗る事に何の躊躇もしてはいけない。


「好きなタイプ、か……」


 甘いプルシアの炭酸割りをマドラーで時計回りにカラカラとかき混ぜる。もう片手でタッチパネルを操作して濃いめのハイボールを5つほど頼んだ。


 いい加減、俺もこの手の話を楽しめるようになろう。


 ただ、その為には酔いの深度をもっと深める必要がある気がしていた。

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