第61話 猫は三年の恩を三日で忘れるが、彼女は生涯忘れない


 病室とはまた違った白色の綺麗な部屋で、俺は目を覚ました。


 あぁ、なんて優雅な朝なんだろうか。


 ここは、最近流行っている監獄ホテルというやつだ。バイト仲間の大場おおばひかりが『監獄カフェとか監獄ホテルとかが今、女子に大人気なんっす!! 陣内パイセンも男なら覚えておいた方がいいっすよ?』っと言っていたが、これで事前リサーチはばっちりだ。俺もお洒落男子の仲間入りというわけだな。


 いやぁそれにしても、このホテルは中々悪くない。1人部屋にしては広いし、空調も程よく利いている。部屋からの見晴らしも素晴らしい。鉄格子から外を覗けば、廊下の先まで一目瞭然だ。それに防犯対策だって凄い。時折、警察官様が見回りの巡回をしてくれているからな。まぁ、日の光が一切届かない地下室なのが唯一の不満点かな、アハハハ!! …………ハハハ、ハ………ハハ。


 クソが!! ここはただの留置所だよ、ちくしょう!!


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 警察に誤認逮捕された俺達は長時間にわたる取り調べを受けた。


 アルコール検査と尿検査、加えて下着ドロを私人逮捕した事に対する事情聴取…………それを4人分だ。無罪とはいえ身の潔白を証明するためにかなり時間がかかってしまい、その日中には調査が終わらず、日を跨ぐことになった。


 しかし、一度逃げてしまった俺達に帰宅は許されない。"逃亡や証拠隠滅を防ぐための施設"、つまり留置所にぶち込まれたのだ。


 俺は男性留置場に、他の犯罪者予備軍は女性留置場の方だ。


「ここ、プライバシーの欠片も存在してない……」


 動物園のパンダの気分だ……いや、それよりも酷いか。見回りの警察官と目が合うたびに、本物の囚人のような気分に陥ってしまい生きた心地がしなかった。


 当然、まったく眠れていない。


「…………早く出してくれぇ」


 切実に願う。お願いだから俺を旅行に行かせてください、と。


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 現在時刻、午前10時。


 朝から尋問されたり、書類を書いたりして、俺たちはようやく解放された。


「疲れた……」

 

 警察署の玄関口で、思ったままの感想を口に出す。


「中々、楽しかったであるな!!」


 隣から、安瀬の元気いっぱいな声が聞こえてくる。俺とは真逆の感想だった。


「僕、腰縄こしなわで連行されるなんて初めての経験だったよ。ちょっとドキドキしちゃった」


 西代が微笑を浮かべ、興奮した様子をみせる。


「だよね、だよねー!! 監獄ホテルみたいでー、超面白かったーー!!」


 猫屋が目をキラキラとさせて楽しそうに笑う。


 というか、本当に流行っているんだな、監獄ホテル。俺は既に嫌いになったけど。


「サツの見回りを気にしながらコッソリお喋りなんてー、まるで修学旅行の夜みたいだったしー!!」

「ふふ、なるほど。修学旅行と言えば京都だし、ここはほぼ京都だったわけだね」

「で、あるな!! 惜しむべきは、酒と煙草がやれなかったことだけぜよ!!」


 こいつ等、無敵か? メンタルがダイヤモンドで出来ているのか?


「……俺、ゴリラに小便する所を見られたし、そのあと、ヤクザより人相が悪いオッサンに死ぬほど怒られたんだけど……」


 いや、本当に怖かった。机とライトしかない無機質な室内で、自分の3倍はふとましい筋骨隆々のおっさんに理詰めで説教されるとか恐怖でしかない。よく警察の事情聴取は犯罪隠避を防ぐために苛烈に行われると聞くが、その通りだった。


 恥ずかしい話、この年になって泣きべそを掻いてしまった……。


「確かに尿検査は恥ずかしかったけど、他は大した事なかったよ? 検査官も事情聴取をした人も同性だったわけだしさ」

「まぁの。親ならいざ知らず、あのように業務上、仕方なく怒っているようなやからの説教などは我の心にはまったく響かん」

「私なんてー、向こうがメンチ切ってくるのが可笑しくってー、ずっと変顔で対応してやったー!! 私より弱い奴から威圧感とか感じるわけないのにねー!! アハハハー!!」


 ガラ悪りぃ……。


「やっぱりそうだよね。僕もあの程度の詰問きつもんは余裕さ。スロットに10万円飲み込まれそうになった時の方が緊張感があったよ」

「俺はもうドン引きだよ……」


 この世から犯罪が無くならない理由をここに見た気がした。……その後、10万円は返ってきたんだろうな。


「…………行くか。京都」


 貴重な三連休の初日を無駄に消費してしまった。こいつ等は楽しかったようだが、俺は何も面白くない。それに昨日のように予約したホテルが無駄になってしまうのは嫌だ。


「さんせー!! 私、ドライブしながら煙草が吸いたーい!!」

「うむ!! 我も車内で酒を飲みたい気分である!!」

「久しぶりに晩酌をしなかったわけだしね。……でも安瀬、流石に車内で飲むのは日本酒かワインにしておこう。猫屋も、周りから見えないようにボングを吸ってね」

「ううむ、煩わしいのぅ」

「マジそれーー」

「………」


 もうなんか、逆に尊敬するわ、お前ら……。


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 昨日と違って、京都までの道のりはとても順調だった。彼女たち3人と、はしゃいでいれば6時間などあっという間だったし……まぁ、楽しいドライブの時間になった。寝不足のせいで、眠気に襲われないか心配だったが杞憂だった。


 適度にアクセルを踏み、桜の花びらで埋まった道路をゆっくりと走る。今、俺たちは高速を降りて京都市内に到着していた。


「おぉ、凄いな、あれ」


 道路の横に出現した馬鹿でかいお寺を見て、俺は感嘆の声を漏らす。古風な木造建築物が街路樹の桜でドレスアップされているようだった。その佇まいが日本人の心に強く響く。


「安瀬、あのお寺はなんなんだ?」

「あれは東本願寺でござる。過去に4度ほど焼失した歴史を持つ、生命力溢れたありがたーいお寺じゃ」


 観光客と他の車が多いせいで、俺達の進みは遅い。京都風に言えば牛車と同じ速度だ。だが、歴史に詳しい安瀬の話を聞いていれば退屈はしない。


「よ、4回は凄いねー……」

「その度に建て直したのかい?」

「うむ……。まぁ、再建はここに限った話ではないがの。京都の寺は大抵が全焼しておる」


 安瀬の解説は歴史に興味がない俺が聞いていても面白いものだった。旅行のお供として彼女ほど頼れる人間はいない。


「しかし、。なんて言うのは、もはや大昔の話でありんすな。観光客が山のようじゃ。出店も多くて、退屈しそうになくてよい」

「…………ふふふ、なんだい安瀬。漱石かい? 君の事だから平家物語あたりから即妙そくみょうな言葉を持ってくると思ってたよ」

「あっちは祇園精舎云々うんぬんが有名すぎて詰まらんぜよ」

「まぁ、そうだね。……でも本当に、風雅でアルカイックな町景色だ。見ているだけで感銘を受けるよ」

「しかし、絶景というは樽肴たるさかなありてこそとは、である」

「ははは!! 確かに、僕たちにはそのくらいの言い回しがちょうどいいね」


 変な会話を始めた安瀬と西代をバックミラー越しに見る。2人はニヤニヤと笑いながら酒瓶を手に持っていた。

 

「「乾杯……!!」」


 そう言って、安瀬と西代は本日5回目くらいの祝杯を挙げた。


 奇怪なテンションで酒を酌み交す2人を見て、俺と助手席の猫屋は思わず目を合わせた。


「あ、あの2人ってさー、たまに訳の分からないこと言って笑い合うよねー……?」


 猫屋の言う通りだ。どこに笑うポイントがあったのか理解できない。


「どうせ歴史とか本の話だ。俺達に分かるわけがない」

「……なんで理系の大学に入ったんだろー」

「それはいつも思う。……でも本質は賢い振りをしているだけのキチガイ達だから。狂人と魔人の宴だからな、あれ」

「あはは、それちょっと言えてるー」

「そこ!! 聞こえているからね!!」

「誰が狂人と魔人じゃ!! 不敬罪でぶった切ってやろうか!!」


 ぷんすかとサイコパス大魔人達が怒りだす。こうなると面倒だ。適当にあしらってしまおう。


「あぁ悪い、いのしし武者の間違いだった」

「…………うむうむ、それなら許してやろう」


 安瀬は満更ではなさそうな顔をして神妙に頷いた。安瀬の扱いなどこんなもので良い。


「そ、それでいーいんだ……」

「僕はそれ嫌なんだけど……」


 まぁ、そんな感じで、なんだかんだ仲良く、俺たちは京都に無事についたのだった。


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「絶対にニシン蕎麦ぜよ!!」

「カラシそば以外ありえなーい!!」

「ここはどう考えても卵サンド一択さ……!!」


 適当な駐車場に車を止めてから5分も経たない内に彼女たちは喧嘩を始めた。


「…………」


 京都に着いた途端にこれだよ。さっきまで、10年来の友人のようだった安瀬と西代さえもが、いがみ合っている。そこに猫屋も加わり、三つ巴の戦いだ。


「ふん、ポン酒日本酒には蕎麦であろう? 貴様きさんら、やはり教養とか脳みそが足りてないのでござろうな!!」

「はぁーー?? 普通、旅行の時はさー、ご当地でしか食べられないような物を食べるもんでしょー!? ニシン蕎麦なんて学食の蕎麦にニシンでもぶち込んで食べてなよーー!!」

「猫屋の言う通りだね。でも、辛いの物は別にいいだろう? 猫屋はいつも持っている、人間失格な劇毒香辛料をご飯に掛けてなよ。僕は、ワインに合う卵サンドを所望させてもらおう……!!」


 1日分、休日を無駄にしてしまった俺達。元からの予定プランは狂っていた。食べる物のプランも、もちろんガタガタ。彼女たちの喧嘩の原因はそれだ。


「なぁ、どうでもいい事で喧嘩するの止めようぜ。もう俺、お腹ペコペコだし、ちょっと眠いんだよ……」


 車を停めてから、急に眠気が襲ってきた。彼女たちの下らない言い合いを見たせいではない。俺は一昨日は早起きして勉強をしていたし、昨日は監獄だ。寝不足のツケが今になって来たのだ。


「旅行中に悪いけど、ご飯食ったら1時間くらい車で仮眠させてくれ」


 ちょっと、この状態で運転を続けるのは危ない。一旦、脳をリフレッシュしたいと考えていた。


「え、そんなに眠たいのかい?」

「言ってくれれば運転代わったのにー……」

「せっかくの旅行なのに勿体ないでありんす……」


 彼女たちは少し心配そうに俺の顔色を伺ってくれる。……確かに、猫屋にあまり運転をさせたくなくて、全部引き受けたのは良くなかった。反省しよう。


「あぁ、すまん。昨日、眠れてなくてな……。だから早く何食べるかを決めてくれ」


 俺がそう言うと、再び酒飲みモンスターズはお互いの顔をキッと睨みつけた。


「ニシン蕎麦である!!」

「カラシそばーー!!」

「卵サンドだ!!」


「…………はぁ」


 思わずため息が飛び出した。彼女たちの脳内に譲歩という言葉は存在しないようだ。こうなれば仕方ない……


「分かった。いつも通り、ゲームで決めようぜ」

「「「え?」」」


 酒飲みモンスターズは俺の発言を受け、仲良く首を傾げた。


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 俺は車内に当然のように転がっていた2を彼女達に手渡した。


「チキチキ~、げっぷ我慢選手権~~~」

「「「ッ!?」」」


 投げやりな言葉で、今回のゲーム名を俺は告げる。


「ルールは簡単だ。安瀬と西代は瓶ビールを、猫屋は炭酸水を一気飲みしてげっぷを我慢する。最後までげっぷを我慢できた奴の勝ちだ」


 眠気で鈍った頭で思いついたゲームにしては、中々面白い催しではないだろうか? 俺は少しだけ得意気な気分になった。


「陣内君……君も時々、安瀬と遜色ないくらい酷いゲームを考えるよね」

「はは、そう褒めるなよ」

「そうだね。もっと罵倒すればよかったよ」


 失礼な。このゲームはとても公平な物だ。これなら禁酒している猫屋でも参加できるし、大量のアルコールで誰も潰れない。旅行中に行う賭けとしては最適と思える。


「まず最初に、乙女の意地として確認させてもらうけど、最後まで生き残った場合は遠くに逃げる事を許してくれるんだろうね?」

「あぁ、当然だ。誰も聞いてない所で思う存分、ガスを吐き出してくれ」


 ……一応、最低限の配慮として男の俺はずっと耳を塞いでいよう。


「なら僕は乗った」


 おお、流石に西代だ。一切の躊躇なく女を捨てやがった。


「よし、なら2人はどうする?」

「…………げ、げっぷ我慢……でござるか?」

「…………ま、マジでー……?」


 2人は、その端正な顔を歪めて何とも言えない絶妙な顔を晒していた。


(こ、今回の旅行で告白する予定の身で、そ、そんな下品な真似ができる訳が無かろう……!?)

(じ、陣内にげっぷ聞かれるのは、や、ヤバいよねー……女として見てくれなくなっちゃうー……)


「……?」


 どうしたのだろうか? 俺たちは常日頃から吐しゃ物に塗れた生活を送っている。嘔吐中、お互いに何度も背中を擦りあった仲だ。げっぷ程度の下品など、そこまで気にならないと思っていたんだが……。


「ゲームをやらないなら、西代の不戦勝って形を取るぞ?」


 その場合、今日の遅めの昼食は卵サンドになる。……お腹すいてるし、美味しいだろうな。


「……陣内君、もう出発していいんじゃないかい? どうやら、この雑魚で意気地のない2人はすでに戦意を喪失しているみたいだよ?」

「「…………あ゛ぁ゛ん!?」」


 西代の流れる様な煽りに、安瀬と猫屋がキレた。沸点が低すぎる。


「少々、僕は君たちを買い被りすぎていたようだね。生粋の博徒である僕と君たちとじゃあ、胆力の格が違ったようだ……くふふ。あ、申し訳ない。口先だけの臆病者を見ると、つい、失笑がこぼれてしまってね?」

「「ぐ、ぐぎぎぎぎぃ……!!」」


 西代の明け透けな挑発を受け、安瀬と猫屋が歯を軋ませる。西代のヤツ、なんて高い煽りスキルを持っているんだ。


「こ、こ、今回だけは見逃してやるでござる……!! 精々、夜道には気を付けるんじゃな!!」


 夜襲する気かよ。


「お、覚えてなよー!! 私は七代先まで恨みを忘れないんだからねー!!」


 お前は化け猫か。


「ははは、負け犬の遠吠えがキャンキャンとうるさいね。さぁ陣内君、格付けは済んだわけだ。早速、出してくれ」

「え? なんだ、マジでやらないのか」


 意外だ。安瀬と猫屋の性根なら、あそこまで煽られたら決着が付くまでやりあうと思ったんだが……。


「面白いゲームだと思ったんだけどな」


 俺は落胆の声を出して、車のキーを回した。なんか、余計に眠くなって来た。勝敗が決まったというのなら、早く行ってしまおう。


(こ奴、酒を飲んでなくてもこれか……)

(な、何で私、こんなのに惚れたんだろー……)

「ふふふ、卵サンド、楽しみだなぁ」


 西代の上機嫌な鼻歌をバックミュージックにして、俺は運転を開始した。


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 ご飯を食べ終わった陣内は彼女達を観光スポットまで運び、宣言通り車内で仮眠を取り始めた。


 3女はコンビニで陣内お気に入りのスイーツとノンアルビールを買って車内に残し、寝た陣内の顔にマジックで『運転お疲れ様!!』っと落書きをした後で、3人だけで観光におもむいた。


 までの緩くて長い坂道を3人は登っていく。陣内梅治を欠いた状態での彼女たちの姿は、色とりどりに実った果実の行進を意味していた。


 長く、後ろ1つに纏めた色素の薄い御髪みぐしやなぎの如く揺らし、

 ウェーブの掛かったブロンドを煙のように大気に緩ませ、

 光を逃がさない漆黒の髪を景色に溶け込ませる。


 見目麗しい彼女たちとすれ違った観光客は思わず振り返り、その美貌を思い出すようにして後頭部を見つめていた。


「あー、鬱陶しーい」

陣内君壁役がいないと僕らはこんなものさ」

「贅沢な悩みであるとは思うがの」


 見返り美人たちが視線を感じて煩わしそうに声を上げる。


「…………女3人ではどうにも舐められるぜよ」


 そこで、安瀬がピタリと止まった。


「ちと面倒な話ではあるが、くふふ、とりあえず木刀でも腰に差して歩くかの!! お主ら、少しだけ待っておれ!!」


 そう言うや否や、安瀬は近くにあったお土産屋さんにスタスタと入っていく。了承の言葉も待たずに駆けていく安瀬に、2人は呆れた様子でため息をついた。


「どう考えても、余計に悪目立ちするだろう……」

「それねー……やっぱり安瀬ちゃんって木刀とか買っちゃうんだー……」

「目がキラキラしてたからそれだけじゃ済まないと思うよ。下駄とか兜とか和っぽい物をフル装備して戻ってくるはずさ」

「好きだよねー、そういうのー……とりあえず私達もここら辺で何か見るー?」

「いいね。出店を軽く冷やかしに行こうか」


 取り残された猫屋と西代は、安瀬が入店したお店周りからあまり離れないように周囲を散策し始めた。


「……軽食とか甘味のお店ばっかりだね」

「だねー。お腹いっぱいだし、お酒がないと興味惹かれなーい」

「同感だよ。猫屋は安瀬みたいに何か欲しい物は無いのかい? 君、変な小物が好きな性質だろう?」

「へ、変って……可愛いって言って欲しいなー」


 猫のシガーケースや大鷲のジッポ。陣内とペアの月のスキットルに変わったマッチ。猫屋は日用品の小物には拘るタイプだった。


「まぁ、欲しい物はもちろんあるよー? 京都って言えばー、七味が有名じゃーーん!! いい機会だからダース単位で買って帰ろうと思っててさーー!!」

「うん、まぁ、猫屋の消費量ならそれくらい買わないと駄目だよね……」


 西代は自身が作ったうどんに七味瓶をまるごと入れられた事を思い出し、どんよりとした目を猫屋に向ける。


「でしょー? この近くにないかなー? 七味専門店ーー!!」


 猫屋がテンションを上げ、期待に満ちた視線で周囲を見渡す。酒飲みには食道楽が多い。彼女も類に漏れず、自身の好物には目が無かった。


「あ」


 猫屋の視線がとある店の方向で止まる。


「…………………………」


 彼女は先ほどとは違い、どこか真面目な顔をして売店の一角を眺めていた。


「猫屋?」

「あ、えーと、ね……ちょ、ちょーーと、ここで待っててくれる?」

「え、あぁ、もちろん。でも、何か買いたい物でも見つかったのかい?」

「うん、そんな感じー!! パパっと行って、すぐ戻ってくるからーー!!」


 そう言って猫屋も、安瀬と同じように個人的な買い物へと駆け出した。


「……………物欲があまり無い人間というのも考え物だね」


 1人ポツンと残されてしまった西代は少し寂しそうにして、大人しく友達の帰りを待つのだった。


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「待たせたでござる!!」


 下駄を鳴らし、空色の羽織を袖に通して、安瀬桜は意気揚々と帰ってくる。


「はっはっは!! 今、我、ちょーカッコいいぜよ!!」


 腰に大小の刀を差した安瀬は得意気に笑う。


「君が帯刀すると絵になるね。まるで女性版、近藤勇だ」


 褒めた内心で、西代は『男子小学生かな?』という感想を胸に抱く。


「そこは花形である土方歳三と言って欲しいでありんす! しかしやはり、武士は二本差しであるな! 脇差が無いと本刀が映えん!! 帰ったらこれでチャンバラでもするでござるよ!!」

「それ、例え素手でも猫屋の圧勝で終わりそうだけど大丈夫かい?」


 3人を床に転がして"げひゃげひゃ"と高笑いする猫屋の姿が西代には容易に想像できた。


「おっまたせーー!!」


 楽しそうに雑談していた2人の元へ、猫屋が帰ってくる。


「おかえり、猫屋。君は何を買ってきたんだ? 京都限定の味覚崩壊スパイスかい?」

「もしくは煙管キセルでも売っていたかえ?」

「ふ、2人が私の事をどう思ってるかはよく分かったー……」


 辛党ヤニカス女は友達の酷評じみた言葉に少しだけ肩を落とす。


「えっと、さ……はい、これ」


 猫屋は紙袋からまりのような球体がついたストラップを取り出して、2人に手渡した。


「これは……でござるか?」


 香り袋とは、香料を布に詰め封じた京都の工芸品の1つである。内容物は多種多様であり、自分好みの香りを選べるためお土産として人気が高い。


 安瀬には赤色の物を、西代には青色の物を、猫屋は購入していた。


「う、うん。プレゼントって感じー……」

「へぇ、素敵だね。嗅いでもいいかい?」

「もちろーん」


 安瀬と西代は花を嗅ぐようにして、香り袋を顔に近づける。


「あ、桜の香りがするでありんす」

「僕の方は桃だね。い草みたいな落ち着く匂いも相まって心地がいい」

「あ、あはは、どーもー」


 誉め言葉を貰い、猫屋は照れたように笑う。


「凄く嬉しいのだけど、急にどうしたんだい?」

「で、あるな。当たり前であるが、我らの誕生日は今日ではないぞ?」


 2人は不思議そうな顔をして首を傾げる。安瀬と西代には贈り物をされる覚えなど全くなかった。


「……」


 猫屋は2人の疑問にすぐには答えず、少しだけ視線を逸らした。そのまま彼女は控えめに口を開き、自分の想いを形にする。


「ふ、2人にはさ、この前、すごーくお世話になったからー……」


 安瀬と西代はその不明瞭な言葉の意味をすぐ察した。この前とは、猫屋が過去を打ち砕いた時の話だ。


「そ、そのお返しー……みたいなー……」


 銀色の丸いピアスをチャリチャリと弄りながら、猫屋は恥ずかしそうに顔を赤らめる。そして、羞恥で心臓をバクバクと鳴らしながらお礼を続けた。



「……あの時は、一緒に居てくれてありがとう」



 "この前"や"あの時"。気恥ずかしさ故に、猫屋はそういったぼかした曖昧な表現をしてしまう。


 それでも、あの事件を有耶無耶にして終わらせてしまうことを彼女は許さなかった。献身には心からのお礼が必要だ。彼女はそう思っていた。


 猫屋李花の精神性は、本当に陣内とよく似ていた。


「2人が居てくれたから、私は、あの、頑張れたって言うかー……3人だったから、何も怖くなかった……って感じー……」


 顔を真っ赤にして、声を震わせながら、猫屋はより真剣なお礼を2人に述べる。


「だ、だからね? い、い、いつも、本当に、あり、ありがとー……」


 猫屋は、短く不器用で優しさに溢れた、彼女らしい感謝の意を伝えきった。


「「………………………………あ、えっと……」」


 いつになく真剣な言葉を、安瀬と西代は真正面から受け止めていた。猫屋の純真な気持ちが、2人の捻くれた心には深く突き刺さっていた。


「……き、気にする事なかれでござる。ぶ、武士は相身互いというくらいでありんすからな!!」

「そ、そうだよ。ぼ、僕たちは、その……べ、別にいつも通りに振る舞っただけさ。ふ、深く感謝をされる覚えはない」


 2人は猫屋の誠意を茶化す気になど、とてもなれなかった。


「うん、でも、嬉しかったから。……そ、そんな感じだからっ!!」


 ついに耐え切れなくなった猫屋は言葉でぶった切るように大声を出す。『ここでこの話はおしまい!!』といった彼女の内情が伺える会話の締め方だった。


「「「………………」」」


 それでも、気恥ずかしくて生暖かい空気は取り払えず、3人は暫くの間、顔を赤くして黙りこくってしまう。


「あ、あのね……」


 その空気を取り払おうとしたのは、この雰囲気を作った猫屋本人だった。


「きょ、今日だけはお酒解禁してくれない? ……い、今は3人で飲みたいなーって」

「え、でも、猫屋は怪我が……」


 猫屋の控えめなお願いに、西代は戸惑う。


「ほ、ほら!! 私の怪我って完治するもんじゃないしー!! 少し飲んだくらいで良くも悪くもならなーーい……って感じだから、ね?」


 猫屋は早口でまくしたてるようにして、言い訳がましい言葉を紡いだ。


「だめ、かな?」


 猫屋は、身内にはどこまでも優しい2人に気を許し、心から甘えてみせる。彼女は何時ものように酩酊に身を委ね、馬鹿みたいに楽しくはしゃぎたかったのだ。


「……はは、仕方ないのぅ。今日だけでござるからな!!」

「うん、そうだね。仕方ないから、今日だけは3人で飲み歩こうか」


 安瀬と西代は、猫屋の想いを尊重する。ニヒルな笑顔を浮かべて憎たらし気な言葉を使い、彼女の頼みを受け入れた。


「……えへへ」


 安瀬と西代の許しを受けて、猫屋は眩しいまでの笑顔を作る。過去を乗り越えた彼女にこそ、春の風は優しく吹く。


「2人とも、だーい好きーーーーー!!」


 猫屋は勢いよく、全力で2人に抱き着いた。


「「ぐぇ……!?」」


 裸締めのような抱擁に、安瀬と西代は思わずうめき声を出す。


「ちょ、ちょっと、猫屋!! 右手、右手!!」


 西代の方の抱擁には、まだあまり動かしてはいけない猫屋の右手が使われていた。それを見て、西代は焦った様子で声を出した。


「だいじょうぶ、だいじょーぶ!! そんな事よりー、向こうでキュウリの一本漬け売ってたー!! それ摘まみにビールのもー!! ビール!!」


 猫屋は自身の怪我などまるで気にせずに、2人を引きずるようにして緩い坂を歩く。その歩調に合わせて、彼女のスマホに着いたがポケットから飛び出し、フラフラと揺れていた。


「そ、そんなに引っ張らないでくれ……!!」

「あ、あわわ。こける、こけるでござる……!!」

「あははははーー!!」


 彼女は周りの視線など一切気にせずに大声を上げて笑う。猫屋李花は、大好きな友人達と人生で一番楽しい時間を謳歌する。


 心の底から湧き出る歓喜の声は、彼女の幸福を象徴するようだった。

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