第26話 全てが理想の彼女


 松姉さんとの約束当日。

俺と安瀬は503号室のドア手前に突っ立っていた。


「お前、本当に、見た目だけは凄まじいよな」

「なんじゃ、その雑な誉め言葉は?」


 隣に立っている、本気で着飾った彼女はまさに傾国の美女。

合コンに乱入してきた時のような露出に頼ることなく、また違った魅力を振りまいている。服装は白のカーディガンにベージュのロングスカート。成人し、色香に花開いた女性の装いだ。化粧は猫屋直筆のメーキャップ。艶のある髪と大きな瞳。モデル顔負けのスタイル。


 咲き乱れる花を集めてギュッと濃縮し極上の1本を作り上げたのなら、彼女のような傑作が出来上がる。そう思わせるほどの美貌だ。


「今から我らは仲睦まじい婚約者。旦那様が嫁に向かってその言い草ではとても乗り切ることはできんな」

「うっ……」


 今回のミッションは俺の態度も重要になる。

"ラブラブ"なんて糞ったれな言葉を松姉さんに感じさせるように演じなければならない。


「金と暇かけて、このような手土産まで用意したのでありんす。失敗は許されん」


 安瀬は手に持っているブレッドケースを俺につきだしてくる。


 ケースの中身は手土産用のパンとワインだ。

この1週間、安瀬は別の事で忙しかったので代わりに西代が作成した。


 以前、両親に西代の趣味を聞かれた際、俺はとっさにパン作りと答えた。そのため、わざわざオーブンを買ってまでパンを用意したのだ。購入費用は俺のバイト貯金からでた。身から出た錆だが、身を切る思いだ。


 確かに、安瀬の言う通り。

ここまで張り切って、失敗などは御免被る。


「そうだな。お前は、俺がだよ」

「っ、……その調子である。やればできるではないか」

「まぁな。あ、おべっかではないぞ。本心だ」


 女性を褒める時は全力をだせ、とは父さんの言葉だ。

結構な頻度で忘れそうになるが、今日くらいは全力で実行しよう。


 安瀬は返事を返さず俺から目を反らし、正面に向き直った。

どうやら、やる気に満ち溢れているようで安心だ。


「じゃあ行くか」


 俺はドアノブを捻って開いた。


 その先には、フローリングにワックスがけをする松姉さんの姿があった。


「あら、少し早いんじゃないかい?」


 503号室は長い間空き部屋で手入れもされていないため汚いはずであったが、部屋はなぜかピカピカになっていた。


「あれ、松姉さん。掃除は俺達も一緒にやるんじゃ?」

「そう思ってたんだけどねぇ。埃まみれの部屋に2人を呼ぶのは流石に悪いと思って」


 言われてみればそうか。安瀬が気合を入れてお洒落してくるのは目に見えていた。

叔母からすれば、客人の服を汚す真似はできまい。


「西代さん、今日は時間を作ってくれてありがとうね」

「いえ、本日はお招きいただきありがとうございます。しかし、叔母さまに掃除していただくのは私としては万感胸に迫る思いです。今からでもお手伝いします」


 ぞわっと体の芯に気持ちの悪いものが走る。

安瀬の流暢な敬語を聞いたからだ。違和感がすごいな。


「ちょうど終わったところだから大丈夫」

「そうですか」

「それより西代さんには別に頼みたいことがあってねぇ」

「はい、何でも申し付けてください。ジン君の叔母さまの頼みとなれば喜んで」


 今度はサブイボが立った。

安瀬にまでジン君呼びされる日がこようとは……


「なら、台所で昼ご飯を作って貰っていいかい? ランチに誘ったのは私なんだけど、ここの掃除で手一杯でねぇ」

「分かりました。材料はありますか?」

「あぁ、備え付けの冷蔵庫に色々詰め込んでるから好きに使って。調味料も基本的なものは置いてある」


 503は大部屋で家電付きだ。そのため、料金が高くなり今は誰も成約していない。

大学近くの賃貸としては経営戦略的に失敗している。


「では何か、リクエストがあれば遠慮せずに言いつけてください」

「ほぅ、そうだね……西代ちゃんの一番得意な物で頼むよ」

「分かりました。では早速、取り掛かります」


 そう言うと、安瀬はそそくさと台所に向かう。


 部屋には俺と松姉さんの2人きりになった。


「梅治、西代さんって料理上手いのかい? 随分と自信がありそうだったけど」

「和洋中なんでもござれ、ですよ。特に和食は美味いです」

「へぇ! それはすごいねぇ」


 この1週間、俺と猫屋による料理指導のおかげで安瀬のレパートリーは格段に増えた。もともと、べらぼうに和食は上手だった安瀬ではあるが、その料理の腕前は俺達4人の中ではトップに君臨しただろう。

俺も今度、彼女に和食料理を何か教えてもらおう。


「今どきの女の子は料理下手が多いって聞いてたけど、それは安心できるねぇ」

「俺の自慢の恋人ですから。松姉さんのために頑張ってくれると思いますよ」

「そうかい……。なんだ、結構ちゃんとした子なんだねぇ」


 松姉さんの評価は早くも上がっているようだ。

まだ、料理を口にはしていないが俺の言葉を信じてくれているのだろう。


「けど、他はどうなんだい?」

「他とは?」

「愛だよ、愛」

「……いや、急に何言ってるんですか」

「婚約までしてるんだ。恥ずかしがることないだろう? それに、愛情表現は長い結婚生活にいては重要なファクターだよ」

 

 既婚者の重みがある言葉。


「え、まさか、松姉さん。旦那さんと上手くいってないとか……」

「はははっ、邪推は止しなよ! 忙しいけど旦那とは上手くいってるさ」


 俺の余計な心配を松姉さんは笑い飛ばした。


「でも最近は、ほら、離婚率がとにかく高いだろう? 彼女はたしかに美人だけど、どこかクールで気の強そうな印象があってね」


 なるほど、つまりはこの年で婚約するほど熱々な間柄には見えないと。


「人前だと恥ずかしがってるだけで、普段はラブラブですよ」

「へぇ、じゃあ、梅治の方からアーンを頼んでみなよ」

「……いいですよ、そのくらい。俺としてはむしろ嬉しいですし」

「おぉ、惚気るねぇ」

「案外彼女の方から耐え切れなくて甘えてくるかも」

「ふふっ、それはまさかだろう。ちょっと想像できないよ」


 俺の袖には、収音マイクが仕込まれている。安瀬の耳には無線イヤホン。彼女の長い髪に隠れているので、周りからは見えない。


 そういうわけで、今の会話は安瀬に筒抜けだ。

また、無線は俺の部屋のPCにも繋がっているので、猫屋と西代は俺たちの茶番劇を酒を飲みながら楽しんでいる。不公平だ。


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「はい、ジン君! あーーーーん!」


 安瀬がプルプルと箸を震わせながら、俺の口に熱々の天ぷらを運ぼうとする。

その表情は笑顔だが、頬が引きつっている。俺も同じ気持ちだ。


「あ、あーーーん」


 俺は彼女の頑張りを無駄にしないようそれを口で受け取った。

衣がサクサクで非常に美味しいのだが、この羞恥プレイは結構きつい。


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「あはははははははは!!! あ、あの安瀬ちゃんが、あ、あーーんって」

「ははははははははは!!! 安瀬の甘えた声なんてはじめ、っふ゛゛あははは!!」


「「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!!!!」」


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 なぜか割と近くで、凄い笑いものにされているような気がする。


「ほ、本当にお、お熱いんだね……」


 松姉さんは、安瀬のギャップに驚いていた。

猫なで声で俺に甘えてくる彼女に引いてるようにも見える。


「さ、流石に松姉さんの前では恥ずかしいかな……!!」

「う、うん。でもジン君にはいつもこうやって食べてもらってるから……!!」


 安瀬の口から出まかせ。

恥ずかしすぎて滅茶苦茶言っているな、コイツ。


「い、いつもかい!? ……へ、へぇ、そう。最近の子はすごいんだねぇ」


 俺らのラブラブ演技を見て、松姉さんは若者の恋愛事情について考え込んでいた。


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「い、いつもって!! わ、私、今度安瀬ちゃんにあーんしてもらおっかなーー!!」

「い、いいねそれ! じゃ、じゃあ僕は逆にあーんしてあげようか!!」


「「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!!!!」」


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「ふぅ、美味しかったよ。まさかこんな短時間で揚げ物を作ってくれるなんてねぇ」

「お口にあったようで嬉しいです」

「衣がサクサクで絶品だったよ。何かコツでもあるのかい?」

「てんぷら粉にビールを少しだけ。フリットと同じです」

「あぁ、確かにビールも用意してたよ。忘れてた。なるほどねぇ、この分だと確かに洋食も得意そうだ」


 あ、コイツ、冷蔵庫のビールを見て我慢できずに飲んだな。

その為に、わざわざ手間のかかる揚げ物を作ったんだろう。抜け目ないヤツ。


「じゃあ今度は私のちょっとした縫い仕事を手伝ってもらっていいかい? 私の一番下の子が小学生で、体操袋を破いてしまってねぇ」


 姉さんの目がキリっと光った。まだ、試験は続いているようだ。

料理の次は裁縫か。少し古典的なように思えるが、主婦としては必要な技術なのだろう。


「分かりました。ミシンはありますか?」

「ん、あぁ、隣の部屋に体操袋と一緒に置いてあるよ」

「では、10分程度おまちください。すぐに直してきます」

「え、うん、その、ありがとうねぇ」


 そう言うと彼女は、料理を作った時と同じようにスタスタと去っていった。


「彼女、珍しいね。今どきの子なのにミシンも使えるのかい」

「お兄さんが柔道部で、よく部活中に道着を破ってたらしいです。それを学校のミシンを借りてよく直していたと」

「へぇ、お兄ちゃん思いのいい子だねぇ。梅治は会った事あるのかい?」

「はい。陽光さんって言って妹想いの優しい人でした」


 懐かしいな、陽光さん。安瀬とキャンプ用品を見に行った時に一回あっただけだ。


「……お兄さんにも挨拶は済ませてるんだねぇ、梅治」

「え、あ、はい」


 この流れは良くない。あまりにある事ない事言っているとウソがばれやすくなる。

安瀬が頑張っているのに、俺のせいでバレたなんて事は御免だ。


「というか、松姉さん。もういいでしょう。料理に裁縫ができたら嫁としては最高だと俺は思いますよ」

「まぁ、たしかにねぇ。でも、せっかく色々と用意したんだ。最後までたのしませてもらうよ」

「ま、松姉さん。本音が出てますよ」

「おっと」


 俺がそう言うと叔母さんは困ったように笑った。すでに十分安瀬の事を認めているようだった。あとは彼女がどれほどの傑物か見てみたいという好奇心が強いのだろうか。


「俺、もう帰ってもいいような気がするんですけど」

「だめだめ。いとおしい恋人がいなくなったら"西代ちゃん"が泣いちゃうだろう?」


 再び、叔母の敬称がかわった。

既に、ミッションコンプリートのようだ。


 俺が胸をなでおろしていると、隣の部屋から安瀬が返ってきた。


「終わりました」

「随分とはやいねぇ!」


 確かに早い。まだ5分程度しかたっていない。


「兄の道着をよく縫い繕っていましたから。厚い道着に比べれば楽な物です。出来栄えはどうでしょうか、叔母さま」

「…………うん、いい、ばっちりだよ!」


 松姉さんは嬉しそうに笑った。カラッとした姉御気質の気持ちの良い笑顔。

その様子を見て、安瀬も釣られたように微笑を浮かべる。

まだ器量試しは続くようだが、この分ならそう悪い事にはならないだろう。


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 松姉さんのお題は多種多様だった。


 ある時は洗濯。


「ここにコーヒーを溢したカシミアのコートがあってねぇ」

「お任せください」

「え、でも、水洗いはできないよ?」

「ご安心ください、心得ております」

(そのあたりは予習してきたしな……)


 ある時は紅茶。


「……美味しいねぇ」

「ありがとうございます」

「俺でもこのくらいはできるよ」

「え、なんでだい!?」

((よく、焼酎を紅茶割りで飲むからなぁ……))


 ある時は教養。


「最近は共働きが基本だよねぇ」

「そうですね」

「西代ちゃん、学歴はどの程度──」

「いや、松姉さん。彼女、俺と同じ大学だよ」

「あ、……」


 ある時は花。


「わ、私の趣味が華道でねぇ」

「私も1年程度、華道を嗜んでいました」

「ぅ、え、本当かい? 花は用意しているからちょっと活けて見せてくれないかい?」

「はい。久しぶりですが、恥をさらさぬよう頑張ります」

「………………」


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「おい、梅治」


 安瀬が花を活けている最中に、松姉さんが俺にこっそりと話しかけてくる。


「? なんですか松姉さん」

「お前、あの子をどうやって落としたんだい。言っちゃ悪いがまるで釣り合いが取れちゃいないよ」

「……俺もそう思います」


 以前からやればできる奴だとは思っていたが、ここまでとは……。

今の花を添える手付きも、素人目から見ても可憐だ。

恐らく相当な芸達者なのだろう。


「器量良しで、家事全般は完璧。茶と花の技量も備わっている。……うちの長男を婿にあげたいくらいだよ」

「ははっ、駄目ですよ。彼女は俺のものです」


 松姉さんの評価は最高点に達していた。最愛の息子を差し出しても惜しくはないようだ。だがその場合、婿殿の肝臓が強い事は絶対条件だ。

 

「それによく見なよ、あの花を添える顔を。想い人を思ってるんだろうねぇ。梅治、アンタ幸せ者だよ」

「…………」


 確かに、はんなりと花を手に取る彼女の姿は神秘的だ。この光景に情景を感じない者はいないだろう。しかし、想っているのは俺などでは決してない。


「松姉さん、もう試験も出尽くしたでしょう? これで終わりでいいですよね?」


 俺は帰って、酒と煙草をやりたい気分だった。

この騒動は緊張感があって面白かったが、今は安瀬の頑張りを称える祝勝会をひらいてやりたい。


「……いや、まだ最後に残ってるものがあるのよねぇ」

「?」


 松姉さんは卑屈で邪悪な笑みを浮かべていた。

今までの試験ではそのような変な表情は見せていなかったというのに。


「西代ちゃん! 華道の腕前は良く分かったからこっちにおいでー!」


 松姉さんの呼びかけに、集中していたであろう安瀬がピクンと反応する。

彼女は用具を最低限片づけて、足早に俺たちの方へ近寄って来る


「はい、なんでしょうか?」

「昨日の発言を本気で謝っておこうと思ってねぇ……」

「……あ、いえ、そのような事はもう」

「私が謝りたいのさ。本当にごめんなさいね。叔母さんはあなたになら安心して梅治を預ける事ができる。梅治をよろしくねぇ」


 真正面から直球で安瀬の事を認める叔母さん。


「……はい」


 安瀬は恥ずかしそうに返事をした。

そりゃそうなる。俺と彼女はただの友達なんだから。


「あ、それでねぇ。最後に用意しておいた物があるのだけれど……」

「?」


 首をかしげる安瀬。

松姉さんの誉め言葉もあり、もうこの交流会は終了と思っていたのだろう。


「円満な夫婦生活の条件として、もう一つだけ欠かせない要素があるわ」 


 松姉さんはミシンを用意していた部屋と逆の方。俺の部屋にはない、もう一つの部屋のドアに近づいた。この大部屋は3LDKだ。


 スッとその部屋が開かれた。

中は畳が敷き詰められた和室。そこには大きな布団が1床のみ。


「夜の生活よ!」

「…………はぁ!!??」


 俺は松姉さんの下ネタに遅れて大声を上げた。


「な、なにいってるんですか、マジで!?」

「い、いやぁ、ごめんねぇ。念のために用意しておいただけで、もちろん出すつもりはなかったんだよぉ?」

「じゃあ出さないでくださいよ!」

「なんかここまで完璧だと悔しくて……」

「こ、子供かっ!」


 親族の下ネタを女友達に聞かれるなど、恥以外の何物でもない。

俺は急いで安瀬に謝ることにした。


「あ……いや違う、モモちゃんごめん! 普段はこんな人じゃ───」

「分かりました。いいですよ」


「「………………え?」」


 俺と松姉さんは固まった。

いま、こいつ、なんていった?


「え、西代ちゃん? ごめん、今なんて……?」

「別に問題ないと言いました。あ、ですが叔母さまは流石にご退室くださいね? お土産のパンとワインを忘れず」

「へ?」

「明日にでもジン君に感想を聞いておいてください」

「ちょ、お前! 何、言って!?」

「ほら、行きますよジン君」


 そういうや否や、俺の手を引っ張って和室に向かう安瀬。


「お、おい、おい、おい……!!??」


 俺はあまりの衝撃に身体に力が入らずにそのまま彼女にずるずると付いていく。


「さ、最近の若者ってすごいのねぇ。そ、そういう事ならお邪魔虫は退室させてもらおうか」


 叔母さんは布団の用意はしたが人の交接を盗み見る気は無いようで、急いで出ていく為の準備を始めた。


「ちょ、ま、松姉さん!?」

「今日は本当にありがとうねぇ」

「いえ、私も楽しかったです。ではまた……」

「あぁ、こちらこそ。あ、いくら汚してもかまわないからね?」

「ご配慮痛み入ります」


 2人はぺこりとお辞儀して別れの挨拶を済ませた。あまりに展開が速すぎてついていけない。


 バタンっと扉を閉めて、松姉さんは本当に帰った。


「あ、なるほど。これが狙いか……」


 俺はそこでようやく安瀬の狙いを理解した。この状況を見越してあのような暴挙に出たのか。なるほど、よく知恵の働く奴だ。


「なにを独りでちておる。早う、しとねにむかうぞ」

「……は?」


 再び、彼女は俺の手を引いて布団まで向かおうとする。

今度こそ、もう訳が分からなかった。


「は、え、おい!?」

「抵抗するでない。今日の褒美代わりじゃ」


 よく分からない事を言われながら、俺たちは布団手前まで辿り着いてしまう。


「ふんっ!」

「ぐぉ!?」


 そして、俺は勢いよく安瀬に押し倒された。

バサッと安瀬が上になる形で布団に倒れ込んでしまう。


 柔らかい、とても柔らかい何かが俺に密着していた。

それが何かは当然俺は知っている。だが、そのサイズ感は初めてのものだった



「……二人きりじゃな」



 安瀬が耳元で美声を吐く。その蠱惑な声音で、頭が茹で上がりそうになった。


「ふぅ……今日は本当に疲れた」

「あ、あぁ、悪いな。付き合わせて」

「本当にじゃぞ。まぁ、でも……悪い気分ではなかったでありんす」


 そう言うと彼女は俺の胸元に顔を埋めてきた。

バクンッと鼓動が高鳴った。今日の俺は酒を一滴も飲んでいない。

今の着飾った美しい彼女は刺激が強すぎる。

は、はやく退いてもらわなければ……!!


「お、おい、安瀬! ま、まずいから……!」

「ん、あぁ、安心するがよい。手を掴んだ時に、お主の袖に仕込んであったイヤホンは取っ払っておる」


 それは余計にまずい気がする。何も良くない。

『二人きり』とはそういう意味か。


「アイツらの事じゃから、10分もしない内に飛び込んでくるであろう」

「……まぁ、来るだろうな」

「それまで辛抱するんじゃな。我はもう寝る。疲れが限界でありんす……」

「ま、まじか!」

「西代とは同衾どうきんしたのであろぅ……」


 つまり、彼女はと存外に言っている。

俺は今から、男としての器を試されることになる……!!

何という悪魔じみた発想。普通、自分の体を使ってそこまでやるか!?


 俺の葛藤など一切気にせずに、安瀬はうつらうつらと舟をこぎ始めた。


「ふふっ……乳や尻を……揉んだら……流石に起きるからのぅ…………まぁ、……お主な……かま……、い…………」


 余計な言葉を最後に残して、彼女はすぅー、すぅーと可愛らしい寝音を立てて眠りだした。その声音が俺の理性を多量に蒸発させる。


「っぐ、……ほんとにっ……!」


 黙っていれば死ぬほど美人だ。髪はサラサラだし、いい匂いもする。

酒だ、酒がとにかく飲みたい。しかし、彼女を跳ねのけて逃げる気が不思議と一切湧かない。今の俺はどうしようもなく男だった。


(猫屋、西代、早く来てくれーーーーッ!!!)


 心の中で彼女たちを大声で呼びつける。

アイツらをここまで頼った事などこれが初めてだった。


************************************************************


「ちょ、ちょっとーーー!!?? な、なんか陣内と安瀬ちゃんがイケない夜の実習を始めちゃったんですけどーーー!!」

「ね、猫屋、落ち着こう!! や、やってるわけがない! あの2人がそんな、そんなまさか……!!」


 陣内の家で余裕を持って待機していた2人は、顔を赤く染めて大騒ぎしていた。

無線から伝わってくる会話は布団に安瀬が向かっている途中で途切れている。

当然、彼女たちは"親友たちが甘い蜜月の時を過ごしているのではないか?"と考えていた。


「に、西代ちゃん! い、急いで現場に踏み込むよーーー!!」


 猫屋はスマホを握りしめて、503号室に突入しようとする。

早々に真偽を確かめたかったのだ。


「ま、待って!!!」


 慌てて駆けこもうとする猫屋を西代が静止する。


「な、なにーー!? い、急いで行かないと本当にはじまっちゃ───」

「もう…………始まっていたとしたら?」


 猫屋の動きがビタッ! と止まった。


「………………そ、そんなわけないじゃーん」

「う、うん……ごめん、そうだよね……」


 2人は想像してしまった。艶めかしく絡み合う男と女。

そこに踏み込んでしまう自分達。もし、その情交を直視してしまえば、生娘でおぼこな彼女らの精神はその場で吹き飛ぶことになる。


「……ゆ、ゆっくーり、行こっか」

「そ、そうだね。み、見つからないように……」


 その後、陣内が救出されるまでなんと1時間もかかった。

彼はその長い時間、自身で体を抓って、なんとか性欲と煩悩を打ち払っていた。


 陣内は体中が赤い斑点まみれになったその姿を、安瀬にしばらくの間笑われることになった。

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