その手を取ったら、きっと

赤オニ

その手を取ったら、きっと

 自分はあの人にはふさわしくない。

 そう感じ始めたのは、付き合って半年が経った頃だった。

 隣の部署の辰之さんは、完璧という言葉がピッタリな人だ。

 困ってそうな人には迷わず声をかけるし、後輩のミスもしっかりフォローするし、女性からも男性からも人気のある素敵な男性だ。

 そんな人に私のような、なんの取り柄もない凡人が告白されるなんて、天地がひっくり返ったかと思うほどの衝撃だった。

 普段見せない真っ赤な顔で、それでもまっすぐ私の目を見て「付き合ってください」と頭を下げられた時は何が起こったのか理解できず、頭の中には宇宙が広がっていた。

 何で私なんですか、そう問えば、まっすぐな瞳で「貴方だからです」と笑って答えた。

 答えのようで答えになっていないのに、なぜだかその言葉に安心して私は告白を了承した。

 付き合い始めてからも完璧だった。

 常に穏やかで、生理中には気遣いを見せ、悩み事を否定せず静かに聞いてくれる。

 こんなに素敵な恋人は今までもこれから先も、辰之さん以外現れないだろうと思う。

 だからこそ、ずっと気になっている。

 私なんかが彼と付き合っていていいのか。

 辰之さんはとてもモテる。

 モデルのようにキレイな女性に声をかけられることも多いし、困ったような顔をしながらもキッパリ断ってくれる姿は誠実だなぁと思う。

 けれど、その度に思うのだ。

 私のような人間が果たして彼にふさわしいのだろうか、と。

 告白されたときも聞いたことをもう一度聞けば、決まって返ってくるのは「君だから」という答え。

 あの時は安心できたのに、今は不安が大きくなるだけだった。

 子供の頃から、決して要領がいいとは言えない人間だった。

 勉強は一生懸命やっても中の下。

 運動音痴で集団競技では迷惑しかかけなかった。

 得意と胸を張れるようなことは何もなく、淡々と一人で生きてきた。

 学生時代も恋人はいなかったし、自分のような人間を好きになる物好きもいないだろうと思っていた。

 数少ない友人には素敵な彼氏ができて、恋バナで盛り上がっている時入れないのは結構キツかった。


「ねぇ、辰之さん」

「ん? どうしたの、愛華ちゃん」

 いつだって優しく私の名前を呼んでくれる。

 それが嬉しくて、苦しかった。

 私がもっと、彼に似合う素敵な人間だったらよかったのかもしれない。

 こんなに苦しく、惨めな思いをしなくて済んだのかもしれないのに。

 私は利己的な人間で、こんなに想ってくれる彼を裏切ってしまう。

 それでも、罪悪感より安心感のほうが上回るのだから、彼にふさわしくない人間なのだろうと思う。

「別れてほしいの」

 ぎゅうっとシワになるのも構わずスカートを握り込めば、彼はポカンと珍しく呆けた。

 それから口元だけ笑みを作り、ふらふらと頼りない足取りで近づきソファに座る私の隣に腰をおろした。

 私の肩に手を伸ばし、ためらうように宙を泳がせる。

 その顔は戸惑いに満ちていて、罪悪感が刺激される。

 辰之さんは落ち着こうとしているのか、息を吸って軽く吐いた。

「理由を……聞いてもいいかな」

「ごめんなさい。辰之さんは何も悪くないの。私が、自分で耐えられなくなっただけ」

「何か、あったの? 俺が何かしたなら謝るし、言ってくれたら直すよ」

 その声は震えていた。

 触れなかった手は頼りなく下ろされ、すがるような目がそこにあった。

 苦しそうに寄せられた眉と涙の膜が張った瞳に胸が締め付けられる。

 だけど、ここで下がるわけにはいかないのだ。

 ふさわしい人間に私がなれない 以上、彼の人生を奪ってはいけない。

 これから私なんかより、ずっと素敵な女性と出会うだろう。

 その邪魔をしてはいけない。

「ごめんなさい。もう無理なの...…ごめん、なさい」

 これ以上顔を見ていられなくて、私はソファから立ち上がり部屋を出て行った。

 辰之さんと別れ話をしてから、二週間が経った。

 あれから家には行っていない。

 最後に見たあの泣きそうな顔が脳裏にこびりついている。

 忘れなければいけない。もう、私とは関係のない人だ。

「ねぇ、長谷さん今日も休みだって」

「えー! もう一週間ですよね?」

 そんな話が聞こえ、たしかに最近辰之さんを見かけていないことに気付く。

 体調でも悪いのかもしれない。

 そう考え出すと止まらなくて、家に行くことにした。

 元カノが訪ねてくるのは気分が悪いかもしれないし、顔も見たくないかもしれないけど無事が確認できればそれでいい。

 とりあえず食べやすそうなプリンやゼリー、それからスポーツ飲料の入った袋を下げインターホンを鳴らす。

 しかし、どれだけ待っても辰之さんは出てこない。

 中で倒れているのでは、と怖くなり玄関の扉を叩く。

 反応はなく、不安が大きくふくらんでいく。

「辰之さん、辰之さん出てきて。中で倒れてるの? ねぇ辰之さーー」

 叩く手が痛くなってくるが、気付いて意識を取り戻してくれると思ったらやめる気にはならなかった。

 警察を呼んで開けてもらったほうがいいかも……。

 携帯を取り出そうと鞄に手を伸ばすと、中からバタバタと走るような音が聞こえた。

 慌てて扉から身を離せば、勢いよく開かれる。

 今にも倒れそうなほど真っ青な顔をした辰之さんは頬がこけ、別人のようにやつれている。

「愛華ちゃん? あ……ああ、なんで……」

「辰之さん……だい、大丈夫……?」

「ああ、ああ……よが、よがっだ……あいがぢゃん……」

 そのままずるずると崩れ落ちる体を支えながらなんとか部屋に入れる。

 もたれかかる辰之さんは私でも頑張れば支えられるほど軽くなっていた。

 室内に入ると、そこはきれい好きの辰之さんの部屋とは思えないほど散らかっていた。

 服は脱ぎ散らかされ床に積まれており、ペットボトルが散乱している。

 寝室まで運びベッドに寝かせる。

 マットレスに沈む体はあまりに頼りない。

 筋肉がほどよくつき、締まった体はすっかりやせ細っている。

 あまりの変わりぶりに言葉が出なかった。

 玄関に置いてきたスポーツ飲料を飲ませよう。

 ベッドから離れようとした手が掴まれた。

「行かないで、愛華ちゃん……」

「辰之さん、置いてきた荷物取りに行くだけよ。すぐ戻ってくる」

「嫌だ……俺を置いて行かないで……」

 弱々しい力で私の手を握る姿は親に捨てられた子供のよう。

 そんな状態で振りほどけるわけもなく、私はベッドのそばに椅子を持ってきて腰をおろした。

 辰之さんの骨ばった手は肉が削げ落ち、まるで老人のようだ。

 私が別れ話をしたから、この人はこんな風になってしまったのだろうか。

 そう考えると、どうしてこの二週間気にかけなかったのかとひどく後悔する。

「ごめんなさい、辰之さん……」

「愛華ちゃん、俺、別れたくないよ。君と別れるなら、死んだほうがマシだ」

 その言葉は、脅しでもなんでもなく事実なのだろう。

 私と付き合っていたら、彼はだめになってしまうと思っていた。

 完璧な彼は、何をやってもぱっとしない私にふさわしくないのだと。

 そう思ったら止まらなくて、結局私は自分が可愛いだけだった。

 卑しい私は彼に愛されるような人間じゃない。

 でも、そんな私でも必要としてくれるのなら。

 私がいないことで、本当にだめになってしまうのなら。

「辰之さん、何で私なんかに告白したの?」

「……誰にでも、分け隔てなく接する姿が好きなんだ。頼まれごとをすると、なんだかんだと引き受けてしまうお人好しなところも。迷子を見つけると、少し迷うけど声をかける優しいところも。全部好きだ。そんな君だから、好きになったんだ。君は自分を卑下するけど、君はとっても素敵な人だよ」

 ああ、この人は。

 私はあなたにふさわしくないからと、逃げることしかできなかったのに。

 それなのに、そんな私を好きだと言ってくれるのだから、きっと相当な物好きだ。

 ふさわしくないのなら、努力をすればよかった。

 与えられる愛が不安なら、遠慮せずにもっと聞けばよかった。

 ただ、怖くて踏み込めなかっただけだ。

「辰之さん」

「何、愛華ちゃん」

「―私と、付き合ってください」

「……え」

「仕事はできるのに、時々見せるドジなところが好き。誰にでも優しいのに、私にはもっと優しいところが好き。どれだけ言い寄られても、恋人がいるからときっぱり断ってくれる誠実なところが好き。私ね、一人で勝手に不安になってたの。ごめんなさい、これからは、ちゃんと言うようにするから」

「愛華ちゃん……」

「こんな私でも、付き合ってくれますか?」

 視界がぼやける。

 こんな風に、誰かに自分の想いを伝えるのは初めてだった。

 想いを伝えて、拒絶されてしまうのが怖かった。

 でも、辰之さんなら言える。

 受け入れてくれると、信じられるから。

 私の言葉に、辰之さんは別れ話の時と同じようにポカンと呆けたあと、ボロボロと涙を落とした。

「も、もぢ、もぢろんだよ、あいがぢゃん……」

 辰之さんが泣き止むまでしばらく待って、泣き止んで落ち着いたみたいなので玄関の袋を取りに行った。

 スポーツ飲料を飲んだ顔はスッキリとしている。

 聞くと、別れ話をしてからの二週間まともな食事をとっていないらしい。

 プリンやゼリーで代わりになるとは思えないが、お粥を作るまでのつなぎとして食べてもらう。

 スプーンを口に入れながら辰之さんは笑う。

「愛華ちゃん。俺の、俺だけの愛華ちゃん。もう二度と離してあげられないけど、それでもいい?」

「……いいよ。辰之さんが、私を離さないのなら」


 その手をとったら、きっと死ぬまで。

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