幻の十字キーを打て!(8)

 別斗の昼は購買部のパンである。

 毎月の小遣いは久宝家が管理してくれている母親の保険から、玲子が適正金額をくれるルールになっている。無論、高校生である別斗に大金を持たせるわけにはいかないから多くの学生同様、財布の中身に物足りなさを抱えていた。そんな別斗を慮って玲子は別斗に弁当を持たせようとするのだが、別斗これを嫌がって一向に持参しようとはしない。弁当を持って通学すれば〈財政問題〉もゆるやかになるのは明白なのに、思春期のもたらす幼気なプライドがために実行へ移すこと困難なのだった。簡単に云えば、恥ずかしい。家族にお昼を作ってもらっているという事実が、なんとも気恥ずかしくてしょうがないのだった。

 これをあすくに打ち明けたところ、


「家族じゃなければいいのか?」


 と意表を突く返答を賜ったので、モノは試しとジャレ子へ、


「なあ、おれの昼飯作ってくれねえ?」

「材料費は前払いだよ~?」


 結果はこの返事ひとつで撃沈となる。

 それじゃあソソミにでも――とよぎりはすれど、恐れ多い思いつきに首を捻るにとどまる。聞けばソソミ、昼食はグランメゾンのテイクアウトかというくらいの、弁当ならぬ〈BENTO〉をお召し上がりらしい。屋敷におかかえのフレンチシェフがいればこその荒業だが、さすがに自分の分を頼むのは気がひける。もっともソソミのこと、もし本気で願い申せば別斗の分も作るよう計らってくれると思われるが、そこまでの厚かましさは持ちあわせていないし、嫌でもマナーとドレスコードを想起させられる食事を支度されても、感謝こそすれ成長期の胃袋満足させられるとは到底考えられなかった。高校生男子が恒常的に好む風味はエバラ焼肉のタレと相場がきまっているので、おしゃんなテリーヌなどが入る余地はないのである。

 やはり少ない小遣いから昼食代を捻出し、好き勝手やりくりするのが一番だと諦め、今日も購買部のパンを頬張る別斗だった。

 屋上。鉄柵に寄りかかり、地方都市・御美玉の伸びしろある町並みを、なんとはなしに眺める。普段の別斗、教室でクラスメイトはしゃぐ喧噪を楽しみながらの昼食を嗜んでいるところだったが、今日は違う。

 ズズズッとパックのリプトンをストローですすり込んでいると、うしろで錆びついた鉄扉の開く音が聞こえた。振り返るまでもなく、誰かはわかる。


「風が気持ちいいわね」


 ソソミ。

 別斗の隣に並んで、遠くを見やる。うだるような連日の猛暑も鳴りを潜め、本日は薄暗い鈍色の雲が空を覆っている。とはいえ、じっとしていると、肌と衣服の空間が通気されるたびに冷たさを感じるくらいの気温はあった。

 それでもソソミからは仄かにバニラの香りが舞い漂ってきて、別斗は苦笑してしまう。このひとは汗をかかないのだろうか――。柑橘系ではなく甘い香りであるのがなんとなく〈お嬢様〉っぽいなと、臆面に出さずに思ってみた。


「覚えているかしら」


 無言でいると、ソソミが聡明で意思の強そうな瞳を向けてきた。


「以前話した、わたくしがあなたと関わりを持とうとした理由」

「ゲーム業界への驚異を退けるために、おれのゲーマーとしての力が必要だって話っすよね?」


 肯きつつ、人差し指でサイドの髪を耳にかける。形の良いきれいな耳が一瞬あらわになったが、すぐにまた一陣の風が長い髪をひと撫でしていき、それは隠れてしまう。


「いまでは反省しているわ。わたくしは、なんて大変な事態に巻き込んでしまったのだろうと。ごめんなさい、あなたを担ぎ出すような真似をして」

「やめてください、おれは別にソソミ先輩に頼まれたからやってるわけじゃないっすから。おれは本当にあの裏プロゲーマーって連中が許せないんすよ」

「別斗くん」

「それに、あいつら、おれの親父を知ってるっぽいんすよね。ミスターQは知らなくとも、知ってるやつがいるかもしれない」

「もしかしたら、別斗くんのお父様と対戦したことのある者もいるかもしれないわね」

「おれには、やつらと関わる理由がある。だからソソミ先輩が罪悪感を持つ必要はないんすよ」


 ソソミは安堵のような照れのような珍しい間を作った。そうして一拍呼吸をおき、伏せていた顔をゆっくりと上げる。


「ありがとう。でも、わたくしが謝るのはそんな云い訳じみた理由だけではないの」

「……どういうことっす?」

「あなたがゲーマーだから関わりを持ったと伝えてしまったことを、わたくしはずっと気に病んでいたわ。もしかしたら、そういった利益がなければ関係を持たなかったと思われてしまったのではないかと。それならば、わたくしは再びあなたに謝らなければならない」

「ソソミ先輩。おれはどんな関係であろうと、先輩とこうしていられるのは光栄っす。おれは、きっかけとか理由とかどうでもいいんすよ。大切なのは先輩との〈在り方〉だと思ってるんで」


 束の間、まるで夕凪のような沈黙が流れた。心配事も不安もなく、明日を気にせず遊んでいられた遠い夏休みを呼び覚ます、安堵と期待を孕んだような時間。そこにはさしたるものもなかったが、なにもかもが隅々まで行き渡っている感覚があって、沈潜的、あるいは無意識が静謐に波紋を広げていくような居心地があった。

 ソソミはその清澄で鮮やかな寸陰を、長い髪を両手で掻きあげることで閉幕とし、


「別斗くん、例の話だけど」


 一変して、今度は低い声色になる。特定の人物にしか見せぬプレイベートなひとときはおしまい、ここからはニャンテンドー一族令嬢の本領といった具合いに、スイッチを切り替えたのだ。


「単刀直入に云わせてもらうわ。我が社の保険部門に属する諜報員が調査したところ――」

「はい」


 と云って別斗は目を閉じた。


「県の教育委員会のデータベースに『星野アスカ』なる教師は登録されていないわ。いいえ、正確には『星野アスカ』という教師はいるけれど、それは男性だった。本当の星野アスカは現在休職中。赴任先の小学校の受け持ちクラスが学級崩壊を起こしていて、心身を病んで療養しているそうよ」

 その言葉を聞き、しばし無言を貫いた別斗。やがて目を開け、細く長く息を吐くと、


「そうっすか」


 別段驚くでもなく、淡泊な返事をする。 それは〈知っていた〉とは云わないまでも、頭の片隅で〈考えていた〉ことだった。この真実を別斗は、昨日から覚悟していたのだ。


「で、どうするの?」

「どうするもなにも、ないっす。答えは決まってますから」

「わたくしは、どうすればよいのかしら?」

「ソソミ先輩の手を患わせることはしないっすよ。この戦いはおれが1人でカタつけます」

「そう。もしわたくしに手伝えることがあれば、そのときは遠慮なく云ってちょうだい」


 別斗はちょっと思案し、


「んじゃあ、〈足〉を貸してもらえませんか?」

「足? ……ええ、いいわ。準備ができたら教えて。なにをしていても駆けつけてあげるから」

「いつもマジ感謝っす」


 長くしなやかな指を掲げて見せ、ソソミが校内へ戻っていく。

 そこに残った甘い香と毅然とした物腰を噛み締めながら、別斗はまた鉄柵にもたれて思案に耽った。用事は済んだ。もう教室へ戻るつもりだった。しかし、ソソミと一緒に校舎へ入るのはやめておく。ソソミ親衛隊の連中に見つかるのは面倒だし、誰かに茶化されるのも億劫だ。なにより、いまはふざけた雰囲気を笑って返せる余裕はない。ジャレ子は心身的ストレスのため2日前から自宅静養。あすくは左手に包帯を巻き、通学こそしているものの、自責の念から顔色が優れない。そしてこれがもっとも別斗を真剣たらしめる要因なのだが、信頼を覚えた相手からの〈裏切り〉により、とても悪ふざけの遊びにつきあう気にはなれなかった。

 2日前、登校してはじめて知った事情。まさかジャレ子とあすくが、とんでもない目に遭っていたとは知る由もなかった。

 別斗は先日の自分を省みる。なぜ、なぜ自分はガラケーを玲子へ渡してしまったのか。もちろん申し訳ないという気持ちは本心だし、それに対する玲子への償いという意味もあった。あったのだが、それ意外に自分には慢心があったのだと別斗は考える。それは星野アスカと楽しい一夜を過ごしたことで、妙に大人ぶった感情によるものだ。ようするに有頂天になっていたことで、なんの意味もない〈軽率な反省態度〉をとった結果なのだ。その行動をとることによって差し障る事態をまったくなんにも想定していなかった、いわば自分の過失なのである。

 だが、いつまでも悔やんでばかりいらない。やることはもうきまった。ゲームの借りは、ゲームで返すのだ。

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