第7話 ベイルート散策

「あれが鳩の岩なんだ。……何であれが鳩なのかな」


 西ベイルートの海岸通り沿いにある、海に面した展望台。

 午後の日差しに目を細めて、ラティーファが海を覗きこむ。その視線の先には、海上にそびえ立つ大きな岩があった。


「昔鳩がいたからとか、伝書鳩を飛ばしたからとか、諸説あるらしい」


 ハーフィドもその隣で、岩を眺めて答えた。

 門のように穴の開いた岩と、巨大な足のような岩。

 透き通る水面に浮かぶ二つの奇岩は「鳩の岩」と呼ばれ、一大名所にふさわしい雄大な景観を生み出している。夏の晴天の空の下でよりいっそう濃い影を持ったそれは、青い海の中で際立って見えた。


 そんな天気が良い土曜日ということもあり、展望台は様々な人々で賑わっていた。

 観光客であろう外国人に、散歩がてらに通りがかっている現地民。

 そして、周りを気にせずに自分たちの世界に浸る恋人たち。ハーフィドとラティーファもまた彼らと同じように、約束して二人ここに来ている。


(俺はちゃんと、普通にラティーファと過ごせているよな)


 ハーフィドは、二日前の暗殺を引きずってラティーファと会っても楽しめないのではないかと不安に思っていた。だが来てみると案外気分は明るく高揚していた。ラティーファといると、ずっと感じている重苦しさも薄らぐ。

 この場所も見慣れていると思っていたが、このように改めて訪れてみると不思議と二つの岩も綺麗に見えるような気がした。


「まぁ、岩があってもなくても、風の気持ちのいいところだね」


 一方早くも奇岩への興味を失い海に心惹かれたらしいラティーファは、柵にもたれて遠くへ目を向けた。太めのヘアゴムでゆるくまとめられた黒髪が潮風になびく。

 今日着ているのは白地に黒の格子柄のツーピースで、首に巻かれた赤いスカーフが彩りを添えている。その現代的な装いは、ラティーファのはっきりと整った顔立ちによく似合っていた。


 ハーフィドも一応はおろしたてのボタンダウンシャツを着てきたが、ラティーファの完璧さを前にすると自分がひどく野暮ったく思えた。

 そうしてハーフィドが次の話題に悩みつつも海を見ていると、ラティーファが柵に頬づえをついて微笑みかけてきた。


「でも良かった。思ったよりも元気で」

「そんなに俺、暗かった?」

「昨日、確認の電話したときにはね」


 任務への迷いを見抜かれているのだろうかと、ハーフィドは不安になってラティーファに尋ねた。

 ラティーファは簡単に答えて、それ以上は何も言わなかった。何をどう考えていたのかはわからないが、詮索をするつもりはないようだ。

 気遣っても踏み込まないその距離感に、ハーフィドは何となく安心した。


 寄せては返す波の音が周りの声を遠ざける。

 ガァニィの話によれば、港ではキリスト教住民もイスラム教住民も内戦に備えて武器を荷揚げしているらしい。だが今見えるこの海は、そんな現実は想像もできないほどに美しかった。


 ◆


 その後二人は海岸沿いのレストランで遅めの昼食を食べて、車でルナパークに向かった。

 ルナパークはベイルートにある遊園地で、市街地のすぐ近くに建っている。園面積はそれほど広くはないものの、立地の良さで人気の場所だ。

 やや貧相な看板の下の売り場でチケットを買って中に入ると、派手な色合いの遊具と来園者の喧騒が二人を迎えた。


「思ったよりもいろいろあるんだね。まずはどれにする?」


 ジェットコースターやゴーカートなど定番の遊具が並ぶ遊園地らしい光景に、ラティーファは目を輝かせた。ラティーファにとっては、遊園地は目新しくて新鮮な場所であるようだ。今まで大人びた態度をとっていた分、素直な反応が可愛らしかった。


 ハーフィドの方はデトロイトにいたころにもっと大きなテーマパークに行ったことがあるので、そう感動することはなかった。

 だがそれでも、狭い園内ならではのカラフルな遊具が密集した眺めは、それなりに味があると思った。子供だましな安っぽさがあるにも関わらず幅広い年齢層の客がやって来ているのも、逆にそのチープさが魅力になっているからだろう。


「そうだな。じゃあまずは、あの変な人形付のやつに乗ろうか」


 ハーフィドは女性の姿をかたどった、回転遊具を指さした。

 円形に並んだ座席が角度を変えて回転するというごく普通の遊具であるが、中心に大きな女性の人形がついており座席はその広がるスカートの一部というデザインが独特である。


「変なの選んだね。でも面白い」

 くすくす笑って、ラティーファは歩き出した。


 そして二人はまずは回転遊具、そしてジェットコースター、バイキングなどに乗った。人は多いが回転率は良く、待ち時間は少ない。

 一通り園内を巡った後は、売店の前のベンチで休憩をした。


 ラティーファは売店で買ったソフトクリームを食べながら、日が暮れだしてもまだ人が多い園内を羨ましそうに見つめた。


「何だか同じ観光地でも、地元とは全然違う雰囲気。この街は賑やかな場所が多くて楽しいな」

「えっと、出身はベツレヘム……で合っているか?」


 最初に会った際のラティーファの自己紹介を思い出しながら、ハーフィドは尋ねた。ベツレヘムはダビデやイエス・キリストの伝説が残る、聖地巡礼が盛んな土地である。

 ラティーファはうなずき、故郷の話をさらりとした。


「うん。まあ、あそこもクリスマスとかはすっごい巡礼者来るし、活気がないわけじゃないんだけどね。おかげさまで、親が夫婦でやってる土産物屋もそこそこ繁盛してるみたいだし」

 その口調は冷めていて、ラティーファにはあまり故郷に強い思い入れがなさそうであった。


(でもわりと普通に暮らしてたんだな、ラティーファも)

 両親も健在、実家の商売も順調ということで、ハーフィドはなぜラティーファが裏社会の情報屋という職業に就いているのかを不思議に思った。

 だがそれを言うならハーフィドの方がずっと恵まれた育ちであるし、余計なことを聞いて変な雰囲気になるのも嫌だったので何も言わなかった。


 そうして最後に二人は、観覧車に乗った。高さはあまりない観覧車であるが、柵だけでガラス張りではないゴンドラは開放感があって心地が良い。


 ラティーファはハーフィドの向かい側に座り、ゆっくりと高さを増していく景色を見ていた。

 夕焼けの中でオレンジ色に染まるベイルートの街並みは、ビルの窓や看板に光が灯って段々と夜の世界へと姿を変えている。

 よく通る声を抑えてそっと、ラティーファがつぶやく。


「良い眺めだね」

「あぁ」


 ハーフィドはあまりにもデートらしい状況に、緊張してほとんど何も言えなかった。

 夕陽に照らされたラティーファのはっきりと整った横顔は、いつもにも増して綺麗に見える。

 おそらく今ここでキスの一つや二つをしてみせるのが正しい恋人のなり方なのだとハーフィドは思った。だがそんな勇気はどこにもない。


 やがて観覧車は頂点を迎えて、今度は地面が近づいてくる。

 夜風が心地の良い頃合いになって、二人の時間も終わっていった。

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