chapter3 「ボーイズ(二宮伊織)・ミーツ・ガール(久須那美)」


scene1 「悩める若い男優、不可思議という名の電車に乗って」


 僕が飛び乗った列車は、毎日乗っている電車そっくりの内装ないそうをしていた。ドアは左右に各3つ、ドアとドアの間には人が6,7人座れそうなロングシート。前と後ろには次の車両に向かうための連絡ドア。蛍光灯の白い明かりが冷たく社内を照らしている。

 一体この電車は何処から何処へ向かうのだろう…駅員―いや、加納だ―の口車に乗せられて、飛び乗ったはいいけど、果たしてこの先、僕がどんな目に合うかは、どんな「役」を果たせばいいかはさっぱり分からない。

 加納のいう事が事実なら、そろそろ「役」に沿った何かしらが頭に思い浮かびそうなものだけど。

 別に何も思い浮かばない…

 所在しょざいなく車内を見回す。つり下げ広告が下がっているべきところには、白紙がはためいている、本当に全くヒントがない。

 ああ、そういえば。これが僕が乗りなれていた車両と似たような代物なら、ドアの上に行き先の表示モニタとこの路線の路線図があるはずじゃないか。早速、目をドアの上に移す。

 そこには、ところどころ文字が掠れてしまって読めない路線図と、駅の部分だけ文字化けした行き先の表示モニタがあった。

 行き先表示モニタは当てにならない。何か読み取れないものかと路線図に目を向ける。そこから読み取れそうな情報は大体、こんな感じである。

 この路線のラインカラーも、現実の紅花こうか線と同じ臙脂色コチニールレッド。赤に少し黒を混ぜた色、よく、学校の制服のネクタイなんかに使われるあの色だ。

 駅名は掠れて良く読み取れないが、とりあえず駅の総数は13。あまりいい数ではない。その数字は「死」を予期させる。

 路線図をしげしげ眺めていると、6つ目の駅を示す○の上に■■(読み取れない)線に接続、と書かれている。

 ううむ。大した情報はない。大体、これって、のぼりなんだろうか、それともくだり?確か、2番ホームから飛び乗ったから…下りだろうか?

 そんな事を考えている内に、車内に電子音声のアナウンスが響き渡る。

「まもなく、***(ノイズがかかっていて聞き取れなかった)、***。お降りのお客様は忘れ物のなきよう、お気を付けください」

 さて、このまま、終点に着くまで乗り続けるか、今ここで下りてみるか?得体のしれない電車の形をした「何か」に乗り続けるのもどうだろう?前の駅じゃ、何もわからなかったけど、次の駅なら少しは情報を得られるかもしれない。ここはひとつ、試しに下車してみるか?でも、ここで下りたら、多分、切符は改札機に吸い込まれて無くなる。まだ、自分の「役」が何かすら、よく分かっていないというのに、ここで下りてしまっていいのだろうか?

 いや。あの時は、加納の口車に乗せられて、「乗客」役になってしまったけど、別にそれに従い続ける道理もない。ここでさっさと電車を降りて、改札を抜けて、このよく分からない状態を脱しよう。

「***、***。お降りのお客様は忘れ物のなきよう、お気をつけください」

 ドアが開く。僕はドアに向かって進む。


scene2 「刈安かりやす色の門を超え」


 降り立った駅は、僕が乗車した駅と違って、小奇麗なものだった。基本的なレイアウトは変わらないのだけど、少なくとも、駅名標えきめいひょうのデジタルサイネージは壊れていないし、発車標はっしゃひょうも電源が入っている。だけど、駅名標の駅名のところに表示されているのは、

 「2018/9/8 15:35」

という文字列。駅の名前ではなく、時刻…バグっているのか?前の駅と、先の駅のところには「闃ヲ蜴」「闌??エ」こっちは綺麗に文字化けしてしまっている。

 とりあえずは気にしたって始まらない。まずは改札口を目指そう。電車を背に歩き出す。電車はガタゴトと音を立てながら、去っていく。ホームの中ほどまで進むと、時刻表の看板。今度のものは汚れちゃいない。でも、そこには何も書かれていないのと同然だった。上りのらんにも、下りのらんにも何も書かれていないのだ。縦軸の端には、1から24の文字が並んでいるのだけど、横軸には何もない。

 ここには、めったに電車は来ないのか、はたまたとてもファジーな運行計画で運営されているのか。

 またまた気にしたって始まらないだろ、って気がしてくる。うん。気にしたって始まらない。最初から奇妙な物事の中にいるのだ、細かいことを気にしていたら、胃がいくつあっても足りない。

 改札口に続く階段を登り切ると、前の駅とそっくりそのままの光景が広がっていた。違いと言えば、ホームと同じで小奇麗だという事。 壁面はクリーム色のタイルが敷き詰められ、駅長室に続くであろうガラス戸には曇りがない。ちょっとしたスペースの奥に鉄の扉があるのが見える。少し進むと赤い扉。もちろん駅員室と書かれている。その先には、乗り越し精算機、「準備中」と表示されている。この調子でいくと、小奇麗な加納かのうもいなければおかしい。だけど改札機の隣のカウンターには誰もいない。

 ポケットに手を突っ込み加納からもらった「切符」を取り出す。改札口の投入口に切符を入れる。

 カチャン。

 目の前のゲートが開く―さて、ここは一体何処ですかね。

 ゲートを通り越す―


 その時だった。

 つま先が地面に飲み込まれていく。バランスが崩れる。重心が頭の先から落ちていく―そして地面にぶつかりかける、が、そのまま、地面の中に体が吸い込まれていく、一体何が起きているんだろう。

 目の前は真っ暗になる。もしかして死んだとか?そんな下らない事を考えていると、目の前に小さな光がきらめく。最初は小さかった光もやがて大きくなり、僕の全身を包み込む。

暖かいような冷たいような、落ち着くような、落ち着かないような。


 光。

 僕はその光の一部となる。


scene3 「考えるあしがたくさん生えたところ」


 目の前の改札機から、定期券が吐き出される。

 「白路はくろ → 茅場かやば

 「9月1日より 2018.9月.30日まで」

 僕は定期券を取る、そして財布にしまい込む。財布をポケットにしまうと、反対のポケットからスマートフォンを取り出す。つるりとしたそのボディのホームボタンを押す。

 「15:35 9月8日 (土曜日)」

 3時過ぎか、少し寝すぎたな。いくら、今日講義が無いからって余裕かましてる場合じゃない、受験生の1分1秒は血の一滴に等しい―ただでさえ、まともに高校に通ってない自分だ、普通のやり方じゃ、まともな奴らにかないっこないのに。

 そんなことを考えながら、改札から出る。雑踏。いつ来てもこの町はごみごみしている。休日となればなおさら。地下街の中央付近にあるこの改札口は、地下街の端々から、地下街に接続する地下鉄や私鉄の駅から、やってきた人々がぶつかる、さながらスクランブル交差点のような場所だ。

 少し広めの広場のようなそこには、百貨店の入り口やジューススタンドや売店が並んでいる。改札の向かい側にある百貨店の入り口を右に曲がる。それから突き当りをまっすぐ。私鉄の改札口がある広場を抜けて、地下街を進んでいく、すると看板。「茅場かやば駅前えきまえ第一だいいちビル」この地下街と茅場駅前第一ビルは繋がっている。

 茅場駅前第一ビルは中々変なビルだ。

 地下一階と地下二階は地下街に接続している、繁華街のビルなのだから、さぞかし、キラキラしたテナントが入っていると思いきや、その内情は地上階はオフィス、地下には居酒屋や飲食店、昔ながらの喫茶店、エロビデオ屋、貸金業者に、個人経営と思われる趣味全開の店、オールドな筐体きょうたいゲームがひしめくゲームセンター、パチンコ店なんかが入居にゅうきょしているようなカオスビルだ。ちなみに僕が通う予備校、「輝光塾きこうじゅく」も、このビルの10階に入居している。そんなわけで、このビルは僕の茅場におけるホームのような場所だった。昼休みや授業が終わった後は、この辺りをなんとなくうろつくのだ。

 茅場駅前ビルは第一~第四まである。様子は第一ビルと大体同じような感じだ。そして、今日は茅場第三ビルの地下二階にある書店を目指している。その書店はたいしてフロアは大きくない。周りに飲食店や、居酒屋が並ぶ中、違和感たっぷりに、でもひっそりとある。

名前は、あの有名書店をもじったのだろうか「雀久堂」、そう、ジャンク堂。いや、じゅん…これ、訴えられたら、勝てないのではないのかしらん。


scene4 「ガラクタ書店の混沌こんとんの女王、貯古齢糖チョコレート3枚分の取引」


 店に入ると、すぐ右手にレジカウンター。そこにこの「雀久堂」店主の、久須くすさんが、いかにも暇だ、と言いたげに文庫本片手に座っている。

 久須さんは十代後半、と言われても違和感のないような若々しい顔だちをした女性だ。実際、何歳いくつか?なんて口が裂けても聞けないけど。目は大きくて、見つめられると、値踏ねぶみされているような気分になる。実際は本の読み過ぎで、少し目が悪く、きちんと見ようとするとついつい目に力が入って、じっと見つめてしまうらしい。

「よ、少年。今日も暇してるのかい?」と久須さんはアルトな声色で答える。

「ま、そんなとこですね」

「しかし、いいのかい?こんなうらぶれた本屋で時間を潰しても?」

「読む本がなくなってきましてね、その補充に」

「ふーん。まあ、ちょうど、君が読みたがっていた作家のあの作品、古書で入ってきてるよ、見ていくかい?」

「本当ですか?是非」

 久須さんは読んでいた文庫本をカウンターの上に伏せると、よっこらしょ、と立ち上がる。カウンターから出てきた久須さんは意外に大きい。僕の身長は大体175なのだけど、ヒールでもない、キャンバス地の黒のスニーカーを履いているのに、僕とそう変わらない背格好をしている。彼女の背中にはくせ毛気味のロングヘア。腰のあたりまで伸びている。

 「ええと、どの辺に置いといたかな、あの出版社の文庫本なら…多分…この辺に…」

 久須さんは割といいかげん、というかファジーというかざっくばらんとした人だ。そんなんじゃ商売にならないんじゃないかと余計なお世話を焼きたくなるくらいに適当だ。この店に通い始めたすぐの頃、余りにも適当な久須さんを見かねて聞いてみたことがある。

「この適当っぷりで本当にこの店回ってるんですか?」と。この余りに失礼かつ生意気な問いかけを気にするでもなく、久須さんはこう言った。

「店自体は爺様から引き継いだものでね。この店、このビルが出来る前から同じ場所にあったらしい。そこにビルが建って、さあ、立ち退き、ってなった時に、金の代わりにこのビルの中にこの店を出させてくれ、って交渉したんだとか。で、その結果、土地の代金の代わりに、テナント料はほとんどタダ同然で入れてもらったって訳。だから、仕入れやなんかにはそこそこ金が要るけど、私がテキトーにやっても何とかやっていけちゃってるのよねえ」

 なるほど、かくして、茅場有数のカオススポットにジャンクな書店(新書・古書、小説から工学の専門書、果てはよく分からない奇書の類―などなどがひしめいているこの店を僕はこう形容する)がある訳だ。

 

 久須さんは林立りんりつする棚の奥の方で棚の中身とにらめっこをしている。

「久須さん、まだっすかー?」

「まあまあ、そう焦るなよ、少年。急いては事を仕損じる、ってね。こらえ性のない男は色々損するぞー?」

 いや、こんなところで時間を潰すなってさっき言ったばかりじゃないか…。

 僕はレジカウンターの脇に置かれた丸椅子に腰かける。カウンターの上には、久須さんがさっきまで読んでいた文庫本、奥の方には古ぼけたレジ、その陰に隠れるように灰皿とメンソール煙草の箱―女性向けの細い物ではなくて、年季の入った喫煙者が好むラム酒の香りのする煙草のメンソール版―、そして、銀色の金属製のオイルライター。そう、久須さんは店の中で平然と煙草を吸う、もっぱら客がいない時―僕はたまに客として見られていない節がある―だけど。

「お、あったあった。これこれ」

「お、見つかりました?」

 久須さんは古ぼけた文庫本を手に戻ってくる。その本はちょっとしたSFだったはず―というのも、今、久須さんにこの話をしている大学3回生の僕はサッパリ内容とタイトルを失念しているからだ。何故かって?その話は追々おいおいしよう。


「この作家さんの作品なら、普通の大型書店にだって並んでるよ?どうしてわざわざウチで探していたんだい?少年?」

「いや、ほら、受験生なんて、万年金欠なんですよ。参考書やら間食であっちゅーまに小遣い使い切っちゃうんですよ」

「参考書はともかく、間食は控えた方がよくないかい?」

「脳みそ絞ったら、甘いものが欲しくなるんすよ、チョコレートとか」

「まあ、わからないでもないなあ、私も小難しい本に挑戦するときは板チョコ食べるし」

「久須さんでも、さっくり読みこなせない本ってあるんですか?」

「そりゃまあ、大して頭良い訳でもないしね。今、君に渡した本だって、私は初めて読んだとき混乱したものさ」

「そりゃまた何で?」

「基本的に主人公の視点で物語は進むんだけど、時系列はあっちに行ったりこっちに行ったりするし、時たま作者が顔を覗かせるし、SFだから宇宙人やら出てくるし…。読み通す事自体は苦労しないんだけどね。読んだ後で何やかんや考えてると、お腹が空いてくるんだ」

「で、板チョコをバリバリ食べると」

「そそ。チョコは板チョコを用意するのをおススメするよ、個包装のタイプの大入り袋はついつい食べ過ぎちゃうからね」

「ああ、それで板チョコなんですね」

「うん。私がその本を初めて読んだ頃は、ちょうど高校生の時だったかな。スタイルとか気になるお年頃だったのよ」

「へえ…久須さんにも、うら若き乙女の時代、ってやつがあったんですねえ…」

「君も中々、失礼な事を言うじゃないか。私は今でもうら若き乙女だぞ?」

「煙草にコーヒー、後、よくは知らないけどビール愛好家ジャンキーであろう、久須さんが?」

「煙草にコーヒーは、まあ、君の前で吸ったり飲んだりしたから、知ってるのは良いとして。ビール愛好家ジャンキーは何処から出てきたんだい?」

「いや、たまに店の前のクラフトビール専門店を恨めし気に眺めているじゃないですか、営業中なのに堂々と」

「うん。あそこのタップのインディアン・ペールエール…爽やかな苦みが堪らんのよねえ…」

 久須さんはビールに思いをはせているらしく、少しだらしない顔になる。何だか幸せそうだ…。その顔に僕は少しドキッとさせられる。

 いやいや、話がれまくってる。そろそろ本の購入というゴールに着地させないと、久須さんと何時間でも話し込んでしまいそうだ。

閑話休題それはさておき、久須さん、本はいくらですか?」

「わざわざ、変な言い方しなくてもいいよ。別にムダな話って訳じゃなかっただろ?少年。そこそこ美人な那美なみさんとお話しできたんだ、ここがしかるべきお店なら、料金が発―」

「ハイハイ、美人な那美さん。それでコイツはおいくら?」

「んー。そう言えば、コイツの値段きめてなかったなあ。幾らまでなら買ってくれるんだい?あの店でペールエール1杯飲めるくらいの値段で買い取ってくれりゃ嬉しいんだけどなあ」

 久須さんはこびがたっぷりな声色で僕にこうのたまう。

「その値段だったら、新書買いますよ」

「ちぇっ。しょーがない。板チョコで勘弁かんべんするかあ。よし、決めた、三百円ならどーよ?」

 僕は少し考えてみる。おおよそ板チョコ三枚分。妥当な値段と言えば妥当なのかもしれない。それにこの機を逃したら、いつこの本を安く手に入れられるか分からない。

「じゃーこれで」

「交渉成立だね、まいどあり」

 僕は彼女の手の上に百円玉を三枚乗せる。それを受け取ると、レジを開け、無造作に中にしまいこむ。

「それじゃあ、久須さん、忙しい受験生は帰りますですよっと」

「ん。それじゃあ、またね、少年」

 久須さんの名残惜しそうな―話し相手が居なくなるからだ―顔の横を通り抜け、店を後にする。


scene5 「スパゲティ・プロブレムと代替音楽のエピファニー」


ジャンク堂…いや「雀久堂」を出ると、夕方になっていた。時計も見てないのに何故そんなことが分かるかというと、辺りの居酒屋がボチボチ始めますかあ、といった具合に店を開け初め、疲れた顔をしたスーツ姿のおじさん達がチラホラこの茅場かやば第三ビルの地下二階に現れ始めたからだ。

 ポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。

 「18:25」

 久須さんと随分話し込んでいたらしい。何時店に入ったか忘れたけど、そこそこ時間が経ってしまっていた。

 さて、寄り道せずに帰りますかね。さっさと家に帰って、勉強しなくちゃ。それに、紅花こうか線はこの時間帯に入ると、帰宅ラッシュで、ただでさえ混み合っている車内がさらに一杯になる。


 茅場駅のホームは人でごった返している。今居るホームは下りだからか、スーツ姿のおじさんや、買い物帰りの女性、参考書を手にした高校生やらがいっぱいだ。

 この時間帯なら、五分も待たない内に電車は来るだろう。ぼんやりとホームを眺めながら待つ。

「まもなく、下りホームに、白路はくろ行きの、電車が参ります、黄色い線の内側でお待ちください」

 人を満載まんさいした電車がホームにガタゴトと滑り込んできて、ドアが開き、中身を吐き出す。それを横に並んだ列の一番後ろで見送った後、車内に乗り込む。僕の番が来ると、車内は人で一杯だ。何とかドアの脇のスペースに体を押し込むと、両手で目の前の金属のバーを掴む。それと同時にドアが閉まり、一瞬ゴトン、と揺れて電車が走り出す。

 この混みようじゃ、さっき買った本を読む事すらできやしない。

 身をよじってズボンのポケットに手を突っ込む。ええと、何処にやったかなイヤホン。しばらくモジモジしていると、右ポケットの奥の方から、絡まったカナルイヤホンが出てくる。コネクタをジャックに突っ込み、イヤホンを両耳に入れる。スマートフォンのロックを解除。音楽プレイヤーのアプリにアクセス。ライブラリから、ジャンルを選択。なんとなく、「Alternative」を選び、シャッフルボタンを選択。イヤホンからちょっと前に流行ったバンドの曲が流れだす。


 その曲をぼーっと聞きながら、目をつむる。何故か久須さんの顔が浮かんでくる。久須さんは、何か言いたげに大きな目を僕に向けている。僕はその目をじっと眺める。

 「貴女あなたは一体何を―」


「まもなく、白路、白路。終点です。お忘れ物のなきよう、お気をつけ下さい」

 そんなアナウンスがくぐもった音で聞こえてくる。

 僕はどうやら寝てしまっていたらしい。いつの間にか家の最寄り駅に着いている。

 イヤホンを耳から引き抜き、ポケットにしまい、駅に到着した電車から降り、改札口へと向かう。



scene6-1-1 「疑似ぎじ交換日記のライブラリとそれにまつわる話を始めよう」


 家に帰り、夕食を済ませると、部屋に戻り、僕は英語の参考書を開く。一・二時間、参考書の文字を追ったり、問題を解いたりして見るけど、サッパリ頭に入って来ない。気分転換の為に世界史の参考書や古文の文法書、現代文の問題集を引っ張り出してはしまう、というような事を繰り返した。そして天井を見上げる。ダメだ。集中できん。

 スマートフォンのロックを解除。時計は日が変わったことを告げている。だけど、目はえている。まあ、今日は昼過ぎまで寝てたからなあ。


 ふと、机の横にある本棚代わりの三段カラーボックスに目を向ける。色とりどりの背表紙の文庫本がずらりと並んでいる―



scene6-2-1 「名もなき旅人の大樹たいじゅの国の冒険譚ぼうけんたん


 僕は17歳の4月にまともに通わなかった高校を中退した。理由は特にない。ただ、何となく高校一年の冬の辺りから学校をサボりだし、二年生になる前に退学した。親は何だかんだと学校に戻るよう説得してきたし、担任には人生を棒に振るつもりなのかと聞かれた。友人たち―話し相手くらいはいた―はさっさと顔を出せ、と言っていた。そんな話をまるまる無視し、この先、どうなるかも考えず、退学した。

 それと同時に父親の転勤の話が入ってきて、僕はこれさいわいと、父親と一緒に、この地方―僕が生まれ育った、首都のある地方の北の方―を離れたい、環境を変えれば、また違った何かが見えるかもしれないと主張し、この国の西の方にある、O市に引っ越してきた。

 引越してきた当初は何もすることが無かった。学校も辞めたばかりだし、環境も変わったばかりだし、ついでに言えばアルバイトをしていた訳でもなく、学校も辞めたので勉強をする意味がもなかった。

 親は高校生になるまで、比較的おとなしく、非行に走った訳でも無いのに学校を退学し、何をするでもなくぼんやり日々を過ごす僕をれもの扱いしていた。理解できないといわんばかりに。

 そんな日々はの朝は、両親が仕事に出かけるのをやり過ごす事から始まる。玄関のドアが閉まる音を二回分確認してから、のそのそとリビングに行く。ラップに包まれた朝食と昼食代とお小遣いを兼ねた千円札がテーブルの上に載っており、その脇にメモ。

「たまには外に出なさい」

 その親達からの申し出を僕は検討する、まあ、たまにはいいかもしれない。こっちに来てから特にどこかに出かけた訳でもない。探検がてら、行ってみるのもいいかもしれない。

 朝ご飯を流し込み、顔を洗い、適当なTシャツとチノパンに足を突っ込み、家を後にする。

 家を出ると、大通りに出る。久々に出た外は新緑しんりょくの季節を迎えようとしていた。初めてこの辺りに来た時には桜並木さくらなみきに花が満開だったのだけど。大通りをなんとなく直進すると、O市市外に通じる私鉄の駅にぶつかる。その手前の方に、紅花こうか線、白路はくろ駅の1番出口が大きな口のよう開いている。もう、10時を過ぎようというのに、私鉄の駅から大きな口―白路駅―の中に人がポツポツと吸い込まれていく。そういえば、この地下鉄は市の中心部に繋がっていたっけな。僕はふらふらと大きな口に飲み込まれる。地下へと続くエスカレーターに乗る。まるで巨人の食道のようなそれを越すと、巨人の胃の中のような、切符売り場に到着する。三台の券売機の上には路線図。視線を下の方にやると、○の横に「白路」の文字があり、そこから伸びた赤い線は、「茅場かやば」まで繋がっていた。茅場の○の中には運賃が書かれている。僕は財布を取り出し、中を確認する。さっき頂戴ちょうだいしてきた千円札と、それとは別に、もう一枚千円札。とりあえずは行って帰って、昼ご飯を食べるくらいは出来そうである。

 そして、電車に乗り、茅場に着く。

 そこは広大な地下街が地面の下に根を張った奇妙な街だった。首都の北の方―即ち田舎―からやって来た僕にとっては異世界のような場所だった。

 僕が目まいに襲われている、前から後ろから左右から、人が押し寄せ、地下街の何処かを目指し歩いていく。久々の外出だというのに、えらいところに来てしまったらしい。

 いつまでもあっけに取られている訳にはいかないので、人の流れの一つに乗って歩き出す。左右にある様々な売店や広告、喫茶店を眺めながら進んでいくと、周りの様子が変わっている。さっきまではリノリウムの床の上を歩いていたのに、今はレンガ敷きの床に変わっている。周りの店もセレクトショップや、おしゃれな小物屋に変わっている。これはもしかして何処かのファッションビルにでも入ってしまったか、と思うけど、周りにいるのはおしゃれな女性だけではない、スーツ姿のおじさんたちもいる。少し進むと広場のような場所に出る。天井にはガラスがはまっていて、太陽の光が僅かに射している。テーブルとベンチがいくつか並んでいる。真ん中の辺りに案内板。のぞき込むと、さっきまで居た地下街とは別の名前。まあ、とりあえず、地下街の「何処か」にはいるらしい。誰もいないベンチを選んで腰かけ、息をつく。多分大して時間は経っていないはずなのに神経がくたくたになっていた。

 五分ほどした後で立ち上がり、歩き出す。今度は迷わないように、上にある案内板を見ながら歩く。少し歩いただけなのに、いろんなところへ繋がる連絡通路がある。「…損害保険ビル」、「…ビル」、「茅場駅前第一ビル」…。最初の二つのビルは上から下まで会社や事務所が詰まったビルで、主にスーツおじさんたちが吸い込まれていく。「茅場駅前第一ビル」の連絡口は、スーツおじさんも相当数吸い込まれていくけど、昼間からブラブラしている若者や職業不詳の自由人たちも相当数吸い込まれていった。昼間からブラブラしている職業不詳―アルバイトをしている訳でなく、学生ですらない―の自由人たる僕にうってつけじゃないか。

 そんな、都市というカオスの中に現れた、「何者」でもない僕を受け入れてくれそうなオアシス―正しくはカオスの中のもう一つのカオス―、茅場駅前第一ビルの中に入った。

 視界に映る色々を気にするよりも先に鼻の中に美味そうな色々な食べ物の匂いが一杯になる。腹が鳴る。多分だけど、12時は回っているだろう―というのも、携帯は持ってない―随分前に腹立ちまぎれに破壊してしまった―し、時計はしてないから分からない。

 今、茅場駅前第一ビルの地下二階に居る訳だが、そこはフロア全体の八割弱が飲食店なのである。残りの二割はエロビデオ屋と金券ショップとコンビニだ。

 あてどもなく彷徨さままよう。スパイスの香りがする本格インドカレー屋、札幌仕込みの味噌ラーメン屋、中華店、定食屋、天丼専門の立ち食い屋、本場博多仕込みのとんこつラーメン専門店…。魅力的すぎるラインナップが立ち並んでいる。

 胃は、

「何でもいいから早く食べ物を詰め込め!」と全身に鞭打つ訳だが、脳みその方は、

「せっかく、ここまで来たんだ、何か珍しい物でも…」と、まごまごしている。僕は脳みその意見に諸手もろてを挙げ賛成する。かくして、茅場駅前第一ビルの地下二階をうろつき、地下一階も見分し―地上から先はオフィスだから無視―、このビルが第一から第四まであり、地下階は相互に繋がっている事を知る。


 小一時間くらい経った頃―気が付くと僕は茅場駅前第二ビルの地下二階に居るのだった。同じようなビル達の中を歩き回ったせいで、足は棒のようになっている。優柔不断っぷりが唯一の特徴である我が脳みそに従った結果、このような目にあっているのだった。

 しびれを切らした我が胃は、

「次に目についた店に迷わず入れ!行列があろうと知ったことではない!さあ、いざ、行かん!!」と、叫んでいる。限界だ。食べ盛りの僕にとっては死活問題だ。目の前には「トンテキ よつば」という店があった。人が並んでいる。少し前の僕なら行列はノーサンキュー、とクールに去れただろうが、今は極限状況なのだ。四の五の言っている場合ではない。それに行列の一番後ろに設置された写真入りのメニュー表。美味そうに焼けた豚肉が映っている。よし、君に決めた!

 この決断は正解だった。

 しばらく待つと、カウンター席のみの小さな店内に通され、注文を聞かれ、目の前で豚肩ロースの厚い、ゲンコツ状に筋切りされた切り身にニンニクを効かせた特性ダレを絡めて焼き上げてくれる。

 白い大きな皿の中心にトンテキ、脇には千切りキャベツと薬味の練り芥子。それに大盛りの白ご飯と味噌汁。

 もう辛抱たまらん!

 口に運ぶと、ニンニクダレと豚の脂身のコクと赤身のギュッとした旨味が広がる。ゆっくり噛みしめ、飲み込む。今度はご飯と一緒に。口の中にくどさを感じたら、キャベツでリセット…何時まででもこうしていられる…

 気が付くと、目の前にあったジューシーな豚肉はなくなっていた。みそ汁を流し込み、ご飯の残りを食べてフィニッシュ。人心地ひとごこちついた。お冷を飲みながら、何となく辺りを見回すと、スーツ姿のおじさんに混じって一人だけ女の子が居た。

 歳のくらいは多分僕と同じ。

 バーバリーチェックのミニスカート―この地方でははん主流派しゅりゅうはだ―に白のブラウス、その上に紺色のブレザー。胸元には学校の校章が縫い付けられているのが相場だろうが、そこには何もない。胸元には緩められた臙脂色コチニールレッドのネクタイ。

 肩口かたぐちまでの栗色のショートへア。顔だちは比較的美人…と言うか、街中で見かけたら、十人中九人までは振り返る顔だちだ。目元は恐らく彼女の性格―苛烈かれつさ、勢いの強さ―を示している。力強いのだ。そして、眼鏡。黒いセルフレームの眼鏡。一見あべこべな取り合わせだが―僕の中ではセルフレームの眼鏡は優しさを感じさせる―、不思議と調和している。

 僕が見とれていると、彼女のりんとした声が店内に響く。

「おじさん!トンテキもう一枚お代わりっ!ご飯も大盛りで!」

 なんという食欲。ここの店のトンテキは育ち盛りの僕ですら、一枚食べれば十分、という代物なのに。あきれながら彼女を見つめていると、ふと、目が合う。彼女は一瞬驚いた顔をし、それから微笑む―危うく一目惚れしそうになるほど魅力的だ―


 頭の中にいろんな感情が走り回る。そして―僕は次のような言葉を発する―


「済みません、お会計お願いします…」


 財布から千円札を一枚引っ張り出し、会計を済ませ、店から出る。

 一体何だったのだろう。あの女の子は。


 お腹が膨れると共に、僕の財布は軽くなっていた。このまま家に帰ってもいいが、食後の腹ごなしがてら、この茅場駅前ビル達を散歩して帰ろうと決める。


scene6-2-2 「Femme fatale(運命の女)」


 そう。僕が初めて「雀久堂ジャンクどう」に入ったのもこの日だ。


 僕が茅場駅前第3ビルの地下二階、飲食店と、居酒屋の間にひっそりとある「雀久堂」に目をつけ、中に入っていったのには、以下のような出来事があったのだ―


 「雀久堂」の店先は八割までが通路に面した本棚で、そこには久須さんがさっさと売り払ってしまいたい在庫を無造作に並べている。文庫本・漫画本・ハードカバー・ソフトカバー…ジャンルはエロじみたものから高度な専門書まで。何でもありのカオスが本棚の中にスペースが許す限り詰め込まれている。そんな乱雑な売り方をしている古本屋なんて初めて見たので、ついついそこに吸い寄せられる僕が居た。

 漫画を引っ張り出しては、戻し、工学の専門書を引っ張り出しては戻し。そんなことをしていると、昔ベストセラーになった有名な本に行き当たる。開いて中の文字を読むでもなく、追っていると、僕の隣に音もなく、黒のくせ毛のロングヘアの女性が立っていたのだった。

「や、少年。立ち読みかい?」

「ああ、済みません―」

「うんにゃ、立ち読み自体は問題ないよ。気にせず続けてくれていいさ。でもさ、君、一体何歳なのかな?大学生にしちゃ若々しいというか…子供っぽい。おねーさんの勘は17才だ、って言ってるけど、どうなの?その辺。身分証明書とか持ってるかい?」

 ポケットをまさぐり、財布を開き、馬鹿正直に健康保険証を出す。ここで口先で誤魔化ごまかしても面倒だからだ。

「えーっと…平成12年…月…日生まれの二宮にのみや伊織いおり君」

 目の前の女性の眉根が少しづつ寄っていく。そして困ったような声で、こう言った。

「君、今の時間は普通のティーンエイジャー達は学校のお時間だよ?制服着てないから、今の今まで誰にもとがめられなかったんだろうけど、警察とかに見つかったら、厄介なことになるよ?」

「あれ?そんなものですか?」

「うん。ここ、一応、繁華街だし」

 そうか、学校をサボった奴らもここら辺に遊びに来たりするのか。そんな事、思いもしなかったな。

「最近、暖かくなってきたからね、幼気いたいけなティーンエイジャーに変な絡み方する不審者も多いし、警察がパトロール強化してるんだよねー。ま、こんなマニアックなビルよりは分かりやすいアミューズメント施設とか重点的に回ってるんだろうね。この辺ではあんま見かけないけど」

「じゃ、隙見て適当に逃げますよ」

「そう簡単に事は運ぶのかなあ?リスキーな行為だと思うぞ、おねーさんは」

「じゃー、適当な場所に隠れてやり過ごしますよ」

「ふむ」と、目の前の女性は思案する。そして頭の上に電球が点った、と言わんばかりの閃き顔でこう言う。

「よし。ウチでかくまってしんぜよう!」おおう。えらい勢いだ。

「どーせ、あと一二時間したら、下校時刻だしね」

「有り難い申し出ですけど、僕、帰りの電車賃位しかないから、お礼に何か買っていく、って事も出来ませんよ?」

「いいよ。ちょうど本を読み終わってさ、暇してるんだ、話し相手になってよ」

 人懐っこい笑顔を浮かべた彼女は言う。

「まあ、それじゃ、お世話になります」

「はい、一名様ごあんなーい」

「中に誰かいるんですか?」

「いや、私ひとりだよ?」

 彼女もまた、幼気いたいけなティーンエイジャーに変な絡み方をする不審者では?と思う間もなく、店先の本棚の脇にある入り口に押し込められたのだった。


 狭い入り口から入った「雀久堂ジャンクどう」の店内は四方の壁に本棚が並び、中央にも二列分本棚が並んでいる。入り口のすぐ右には、バーカウンターようなレジカウンターがある。カウンターの表面は暖かい木の色。一番右端には古ぼけたレジ。左端はそのまま直角に曲がって、ちょっとしたスペースがある。そこには木製の丸椅子がちょこんと2、3脚おいてある。

 カウンターテーブルの左端には新書サイズの本が伏せられている。それには、「ベーコン 随筆集ずいひつしゅう」と書かれている。ベーコン?世界史で名前を聞いたような。イギリスの人だったかな…。

「さて。お客様にはコーヒーでも出して進ぜよう。缶コーヒーだけど。二本あるんだ、無糖ブラックと微糖のカフェオレ。どっちがいいかな?」

「無糖…は勘弁してください」

「情けないなあ」

「苦いの苦手なんです」

「まあ、子どもの方が感覚が鋭敏えいびんだからね、仕方ないか。はい、どーぞ」

 青のバックにエメラルドグリーンの山が描かれたスチール缶を受け取る。プルタブを起こすと、ペコっという物悲し気な音と共に缶が開く。

「それじゃ、いただきます」

「召し上がれ」

 僕は微糖というには甘すぎるカフェオレを飲む。

「…うん。君は私のオゴりの缶コーヒーに口を付けた訳だあ…」風向きが怪しい。

「何なら、今すぐお返ししましょうか?」

「ふん。ケーサツに突き出されたい、と」

「いや、勘弁してください。できる事は無理のない範囲でしますからっ!」

「ふむ。何でもするって言ったかい、少年?」

「何でも、とは言ってな―」

「それじゃあさ――」彼女はニタニタ笑いながら、言う。中々不気味な笑い方だ…この次には何という言葉が続くのだろう?

「―何で、昼間っから制服も着ずにうろついてたか、正直に話してごらんよ。嘘ついて適当に誤魔化しちゃダメだよ」




 僕は、初対面の女性に向かって、高校を中退したこと、引っ越してきた事、アルバイトもせずに引きこもりがちである事。そんな事を滔々とうとうと話した(中学時代のアレコレは…何となく伏せた)。彼女は驚くでもなく、忠告めいた事を言うでもなく、ただ、ふんふんと話を聞いている。

 何で、さっき知り合ったばかりの人にこんな突っ込んだ話をしているのか―よくは分からないけど、彼女は聞き上手だった。僕の話の要所に相槌を入れ、言葉が足りないところに、質問を挟み、話を引き出していく。

 一時間か二時間か、経ったらしい。僕はその間にここ一年に感じた事、感じてはいたけど言葉にならなかった事を彼女に話していたのだった。こんなに正直に話したのは、こんなに長く人としゃべったのは何時ぶりだろう。

「よーし。大体の事情は分かったよ、少年。君にも色々思う事はあるらしい」

「ええ」

「あ。言っとくけど、とりあえず、話を聞くことに徹したからさ、差し出がましい事は極力言わなかったつもり。君にだって悪いところがないではないのは―分かっているよね?」

「多分」

「どうかな?まあ、こういうのは年を取らない限りは客観視できないものだからなあ」と、眉をひそめながら言う。

「こーいう時に大人はさ、本を読んでみたりするんだよ、少年。特に…そうだなあ。少し時代が違う他の国の作家の小説を読んでみるのがおねーさんのおすすめかなあ」

「海外文学ですか?」

「うん」

「なんかハードル高いような…」

「まあ、確かに翻訳モノは合う合わないが日本の文学より激しいかな。余計なディティールが削ぎ落とされるからね」

「余計なディティール…」

「ほら、舞台とか風俗とか。時代と国が違えば全然違ったりするから。その分、主人公に近づくような―そんな気がするのね」

「ふむ…」

「で、だ。今日は特別におねーさんの蔵書ぞうしょを貸してやろう。君にうってつけの一冊がある。ヘタすりゃ猥書わいしょ扱いされるような本だし、要らん影響を与えそうだけど―まあ、この本の主人公の事、できるだけ客観的に見てごらんよ」と言うと、新書サイズの本を一冊取り出した。僕でも知っているような名作である。

「読み終わったら返しにおいで。一応、此処の電話番号を教えとくよ…」と言いながら、彼女は色気もない白紙のメモ紙に10桁の数字を書きつけ、僕に渡す。

「帰しに来なかったら…酷い目に合わせるからね?」と茶目ちゃめっ気たっぷりの顔でのたまう。

「分かりました。ああ、あと最後に一つ質問です」

「ん。何だい?私のトシでも気になるかい?」

「何でそうなるんですか…名前です。お姉さんの名前」

「別に知らなくても本は返しに来れるだろ?」

「まあね。でもほら、知らない人からモノを受け取るな、って親から厳しく言いつけられてきましたから」

「小学生じゃないんだから…ま、それもそうだね。私だけ名前を知ってるってのもフェアじゃない。私の名前は…久須くす、という。久しいという字に須磨すまの須で久須だ」

「これで僕らは知り合い。本、読み終わったら電話します」

「よし。じゃ、時間も程よく経ったみたいだし、学生は下校する時間だよ。寄り道せず帰んなよ」

「それじゃあ、また、久須さん」


scene6-2-3 「ティーンエイジャーの話とそれに関した不穏ふおんなトリビア」


 僕は久須さんの言いつけ通りまっすぐ帰る。茅場駅前ビル群を通り抜け、昼間通った地下街をそっくりそのまま引き返し、茅場かやば駅。電車に乗って白路はくろ駅へ。

 帰りの道々は、いろんな年恰好かっこうの人々でいっぱいだった。その中には制服を来た学生たちもちらほら。

 しかし、変な一日だった。暇つぶし、という観点から見れば、百点満点をあげたくなるような一日。

 白路駅の巨人の食道を昇り、出口に出ると、空は濃い青と濃い紅色が混ざり合った瑠璃るり色になっていて、オレンジ色の夕日は落ちようとしている。随分と長く「雀久堂ジャンクどう」に居たみたいだ。19時過ぎには帰宅する母より後に帰る、という事になると面倒だ。何やかんや根掘り葉掘り聞かれかねない。駆け足で帰る。

 家に帰り、部屋に入る。学習机に久須さんから借りた本を乗せると同時に玄関の鍵が回る音。母が帰って来たようだ。母はリビングへ向かい、そのまま夕食の支度をする為にキッチンに入ったらしい。僕は学習机の前の椅子に腰かけ目の前にある本に手を伸ばし、ページを開く。

 語り手のティーンエイジャーが、学校の寮のルームメイトと喧嘩した後、学校を無断で飛び出すシーンをなんとなく読んでいると、母が夕飯の支度が出来たと告げる。本を学習机の上に伏せると、僕はリビングに向かい、食卓に着く。

「いただきます」

「召し上がれ―ところで、今日は一日どうしてたの?出かけたの?」

「ああ、ええと―」僕は今日の出来事を久須さんのくだりは抜きにして話す。茅場に行って、変な駅ビルでご飯を食べて云々うんぬん。久須さんの事を話さなかった事に理由はない。何となく黙っておきたかったのだ。

「ふーん。ま、いい気分転換にはなった訳ね」

「うん。まあ。久しぶりの外は悪くなかったよ」

「そう」

「出来ればまた、こうやって出かけたいかな」

「あんた、変なさかり場とかには近づかない、って約束できる?」

「興味ないよ」

 実際、盛り場なるものには興味ない。ゲームは好きだけど、もっぱらコンシューマー派だし、パチンコの類はまず入る前に追い出されるだろうし。服屋やアクセサリーショップにも用はない。親が時たま買い与えてくれる服で事足りている。

「全く興味なさそうね…逆に心配になってくるくらいだけど。まあ、いいわ。週に一回くらい茅場に出るくらいは良しとしましょう。でも、定期的に出かけるとなると、連絡手段は欲しいわね」

「公衆電話あるじゃん」

「ほとんど絶滅寸前じゃない…それにあたしから連絡できないでしょうが」

 今日行った茅場駅前ビルには灰色をした公衆電話が現役バリバリで働いていたが…まあ、それもそうか。

「今頃の高校生が携帯持ってないのはどうか、って思っていたことだし、今週末買いに行くわよ」

「オーケー」

 そんな話をしながら夕飯を食べていると、父が帰宅。残り食べると部屋に引っ込む。

 部屋に入ると、本の続きを読む。

 日付が変わった頃に読み終える。久須さんはこの本が僕にうってつけ、と言っていた意味が半分ぐらい分かった気がする。社会と他者に折り合いを付けられないティーンエイジャー。彼が僕そっくりだ、と言いたいのだろう。でも、僕は彼ほど苛烈かれつに世界を拒絶している訳じゃない…彼ほど純粋じゃない。彼ほど世界に敵意はない。

 ただ、自分がどういう風に社会に入り込んで、何処らへんに腰かければいいか分からなくなっているだけだ…。深い理由も無しに。

 でも、彼の語り口は不思議と魅力的ではあったな。友達にはしたくないけど。

 久須さんの言うように、客観的に読めただろうか?ただ、面白く読んでしまったんじゃ…。

 学習机の端にある黒いラップトップPCを起動させる。父親のお古だ。ブラウザを立ち上げると、アドレス欄に先程の本のタイトルを入力。検索結果の一番上のネット百科事典のサイトをクリック。あらすじや解説なんかが載っているけど、大した事はかかれていない。

 百科事典サイトの検索ボックスに主人公の名前を打ち込んでみる。ヒット。主人公についての記事が表示される。何となくページをスクロールすると、関連項目の欄に「・・・・・・・・・・」とある。

 「・・・・・・・・・・」?

 確か、世界で一番有名であろうバンドの元ギタリストを銃殺した男じゃなかったっけ? 僕が何でそんな事を知っているのかと言うと、父親がこのバンドの大ファンで、小さい頃、出かける際の車の中でよく聞いていたし―ちなみに僕の音楽プレーヤーの中にもリマスタリングアルバムが入ってる―そのバンドに関する映画やドキュメンタリーを父が見ている横で見たりしていたからだ。

 おずおずと、例の男の記事を読む。彼はあの小説の語り手のティーンエイジャーにかなり傾倒けいとうしていたらしい。

 某年11月7日、夜過ぎに帰って来た元ギタリストに拳銃を5発撃ちこんだ後も現場付近であの小説を読んだりしているうちに逮捕…現在も服役中…。

 久須さんは何を僕に訴えかけようとしているのだろう…。そういえば、要らん影響を与えかねないとか言ってなかったか?この本を渡すときに。

 ううむ。何だか余計な事を知ってしまった気がする。もやもやした気持ちを抱きながら、ラップトップPCの電源を切り、ベットに横たわる。しばらく寝付けなかったけど、瞼の裏を眺めているうちに、眠ってしまった。


scene6-2-4 「If a body catch a body coming through the reed. (葦原あしはらで誰かが誰かを捕まえたら)」


 それから、一週間ばかりが経った。


 僕は母親にスマートフォンを買ってもらった。久々の携帯。

 今日の朝食の横にはメモと千円札。

 「いってらっしゃい。あまり遅くなるんじゃないわよ」

 スウェットのポケットから、スマートフォンを取り出す。電話帳。久須さんの番号―「雀久堂ジャンクどう」の番号だけど―が登録されている。今は九時少し過ぎだから、店に電話をかけるには早すぎる。

 朝食を食べ、身支度をし、白路はくろ駅へ、そして電車に乗って茅場。前と同じ改札を抜けると、ポケットからスマートフォンを取り出し、久須さんにコール。トゥルルルルル…コール音がしばらく鳴り続けた。もう十時は過ぎているけど、店を開けてないのかな?諦めて電話を切ろうとしたその時。

「はい、毎度ありがとうございます、ジャンク堂でございます」

 誰だ?このやたら礼儀正しい声の女性?久須さんのいたずらっ気のある声とは違う。間違えたかな?ん?ジャンク堂?ジャン…ク、ああ、「雀久堂」でジャンク堂。

「あー、あの、先日お世話になった者ですが―」

「ええと?何か本をお探しになった方ですか?それとも持ち込んで頂いた方ですか?」

「いや、貴女あなたから本を借りた―」

「ああ、苦いの苦手な非行少年ひこうしょうねんか!最初からそー言ってくれよなーまだるっこしいから、営業モードで対応しちゃったじゃないかー朝イチから気を使わせるんじゃないよ、もう」

 急に声色が丁寧なものからいたずらっ気のある声に変わる。

「非行少年じゃないですって。なんか済みません、こっちのせいで気を使わせたみたいで」

「いやいや、気にしなさんな。ほいで?本を返しに来るのかい?」

「ええ、今、茅場かやばなんですけど」

「あーやたらノイズ混じりだなあ、と思えばそーいう訳ね。よし、昼過ぎまで時間潰したら、店においで」

「アレ?今すぐはダメですか?」

「一応、こっちも商売してるんだ。そこまで流行はやっていないとは言え、二三片付ける事がある」

「あ、そうですよね、済みません」

「じゃ、そういう事で。またね、少年」

「はい、ではまた」

 さあ、どう時間を潰すか。

 前は地下街をウロウロしたけど、今日は地上をぶらつくか―この判断は結果から言えば失敗だった。茅場かやば周辺は地下街を使って移動するのが前提の街づくりをしているのだ。JRの駅を目指して歩いたけど、たどり着かない。目の前に駅は見えるのに大きな幹線道路に阻まれるのだ。うんざりした気分で地下街の入り口に戻る。

 地下街に戻ってくると、腹が鳴る。スマートフォンのロックスクリーンには12:00とある。適当な立ち食い店に入ると―ホントは「トンテキ よつば」に行きたいけど、毎度毎度あそこに行っていたら破産してしまう―カレー丼を食べる。和風の出汁が効いてる。これも中々悪くない。お腹を満たして店を後に。

 13時過ぎに茅場駅前第三ビルにたどり着く。約束の時間にはちょうど良いくらいの時間だろう。一般的には昼飯時だけど。

 店の中に入ると、久須さんはレジカウンターの椅子に座り、パン―クロックムッシュ―をもごもご食べていた。

「おおう。(モグモグ)いらっしゃい少年(モグモグ)、そこの椅子に腰かけなよー(ゴクン)」

「パン食べながら、対応しないで下さいよ…」

「いや、ゴメンゴメン。お客さんから懐かしいパン屋さんの差し入れもらっちゃってさー、我慢できんかったのよ」

 そんな事を言いながら、パン屋の袋に手を伸ばし、細身のハードバケットにサバのトマト煮込みを挟んだパンに手を付けながら謝る。

「いや。謝りながら次のパンに手を付けんでください…」

「君ィ、分かってないなあーここのパンは(モグモグ)、あらががた魅力みりょくをさあ(モグモグ)、持っておるんだよ?昼ご飯は―(モグモグ)」

「もう食べちゃいました」

「まあまあ、食後のデザートだと思ってこいつを(モグモグ)、食べてごらんよ。あ、半分だけだぞ、分けてあげるのはー(モグモグ)」

 と言いながら、ハムスターよろしく頬にパンを詰め込んだ久須さんがバケットにあんことバターが挟まったパンを手渡す。ビニールに包まれたそれを受け取り、ビニールを開け、そっとかじる。その瞬間、口に麦の風味と旨味。バターとあんこがベストマッチなのは―名古屋の方々が証明してくれてる訳だから―、いちいち何やかんや言わない。そんな幸せな味達が口の中で一体になる。成程、これは凄い。僕もパン屋さんには一家言いちかげんあるクチだけど、このパンは間違いなく美味い。

「ね?言った通り、抗い難いでしょ?」パンを飲み込み終わった久須さんが笑顔で言う。

「ええ。こんな美味しいパン、久々に食べました」

「このお店、昔は家の近所にあったんだけどさあ、茅場に移転しちゃってねー。縁遠くなってたところにお客さんが差し入れしてくれてね。いやーありがたやありがたや…」

「へえ。あ、忘れないうちにコレ、返しておきますよ」

 黒の無地のキャンバスのリュックから本を取り出すと、あんバターサンドに手を付けている久須さんに手渡す。

「うん、(モグモグ)それで、この本読んでどう思った?(ゴクン)」

 パンを飲み込んだ久須さんが真剣な目つきで問いかける。

貴女あなたの想定した読み方ができたかどうかは分からないけど、一番強く感じたのは、世界がどうであれ、自分の側で折り合いをつけて―ある種諦めて、世界の中に入っていかないと、そして、他人と交わらないと、小説の中の彼みたいに、疎外され続けてしまう―ってことですかね」

「ふーん?あのさ、彼にシンパシーとか感じなかったかい?こいつは俺自身じゃないか、みたいなかんじでさ」

「いや。僕は彼ほど純粋じゃないと思います。今はあまり人と交わらないようにしているけど、別に確固としたポリシーがある訳じゃないし。大人が全員インチキだとも思わない。そして、僕も、あと2、3年でその「大人」にならなきゃいけいない」

「んー。ハタチそこいらの人間は、君の言うような「大人」ではないんじゃない?私のその頃なんて陽気なモノだったよー。大学生だった。覚えたばかりの酒なんか飲んだり、講義に出たり、サークル活動したり、バイトしたりだったなあ」

「で、三回生くらいから就職活動…」

「そ。染めた髪を黒くして、慣れないスーツでえんやこら。ま、おねーさんは不真面目にやってたけどね。この店を継ぐつもりだったからさ」

「へえ」

「大学生、ってのは現代日本におけるモラトリアムの終着点だよ。中等教育を終えたティーンエイジャーに残された「何者」にもならなくていい最後の期間。親の束縛から逃れて、いろんな可能性を試せる、なかなか素敵な時期。そんな素敵な時期を、君は中等教育をドロップアウトしちゃったもんだからみすみす逃がそうとしている―」

「まあ、そうですね。やっちゃった事だから仕方ないです」

「そりゃあさ、アルバイトでも始めて、経験を積めば、君を正社員として雇ってくれる会社も無い事はない、現にそういった知り合いが私にいるからね」

「じゃあ、別にいいじゃないですか。適当にやりますよ?僕」

「いやさ、彼がさ―私の呑み友達なんだけど―、深酒すると、私にこう言うわけよ。『大学生やっておけばよかったな』って、『キチンと自分が「何者」になりたいか悩んだり、試してみたりしたら良かった』って、『諸々もろもろ納得した上で社会に出れば良かった」って。私ってさ、割と気が短いから、今からでも大学生になればいいじゃない、何をクヨクヨしてんのよ―なんて、キツ目に返したんだけど―彼はね、悲しそうな顔をしながらこう言ってたわ。『一回、社会に出ちゃうと、色々足枷あしかせやら、守らなくてはならないモノができたり。何やかんやあって日々をやり過ごすので精いっぱいなんだよ』って」

「へぇ…」

「まあ、そんな訳で私は、君にこう提案するわ―大学受験、やってみなさい、って」そう来たか。今日の久須さんは中々説教臭い。

「アンタ、今、私の事説教臭い、って思ったでしょ?」

「滅相もない」

「顔は口よりも雄弁…」

 そんな顔をしてたか、まずい、この年頃の女性を怒らせるのは今までの経験上、悪手―

「ま、実際、老婆心ろうばしんってヤツだから仕方ないか」やれやれ、と言いたげな声と顔で言う。そして、店の奥に向かってこう呼びかける―

「センセ、そろそろ出番ですよー」

 センセ?と、いうかここに僕たち以外の人間が居たのか―本棚の陰から出てきたのは、40代前半と思われる短髪の男性だった。オフホワイトのカーディガンに黒のギンガムチェックのボタンダウンシャツと茶色のチノパン、鼻の上には細身のフレームの眼鏡。

「や、初めまして。久須君のみ友達、そして、茅場駅前第一ビルの10階のちょっと変わった予備校「輝光塾きこうじゅく」の現代文の講師やってる明石あかしっていいます」

「初めまして。よろしくお願いします」また呑み友達かい。いったい何人いるんだ、呑み友達…

「いやあ、那美なみちゃんがいつ呼んでくれるかドキドキしたなあ。那美ちゃんは話し出すと長いし、話は枝葉しように飛んで行きやすいからさあ。ま、そんな饒舌じょうぜつが彼女のいいとこだけど」

「それで、久須さん、そして明石さん。ここから話はどうなるんですか?」

「それは私じゃなくて、明石さんから説明するよ」

「なあ、君、「高校卒業程度ていど認定試験にんていしけん」って知ってるかい?」

「いや、あまりよく知りません」

「昔は「大検だいけん」なんて言ったもんだけど。この試験に合格すると、国が高校を卒業した程度の学力はありますよーって証明してくれるんだ。コイツがあれば、就職するときにもちょっとした足し程度に役立つし、何より大学や専門学校の受験資格も得られる」

「ほお」 ほうほう、それからそれから?

「で、オジサンの勤め先である「輝光塾」はさ、その高認こうにん試験の受験をサポートしてるんだ。その後の大学受験の事もふくめてね」

「で、僕にそこに入らないか、と。勧誘しに来た訳ですね」

「そ、話が早くて助かるよ」と言いながら、彼は、後ろ手に持ったビジネスバックから「輝光塾」の資料と彼自身の名刺―幾つかの予備校を掛け持ちしているらしく、有名どころの予備校のO市やお隣の県の教室の名前が載っている―を手渡す。

「まあ、まずは見学からかな。親御さんと相談して、「輝光塾」のほうに電話してくれ、僕の名前を出したら、話が進むようにしておくから」そういいながら、左手首の腕時計を覗き込む。

「やばい。次の講義まで10分切ってる―那美ちゃん、お邪魔したね、僕は急ぐわ」その言葉を言い切る前に明石さんは店から飛び出ていく。

「サンキュー、センセ。次は一杯|オゴるよ」去り行く明石さんの背中に久須さんはそんな言葉を投げかける。そして、僕に向き直る。

「ゴメンね。こんな差し出がましい事しちゃって」

「いや。たまたま知り合っただけの僕にここまでしてくれて、なんか済みません」

「そこは、ありがとうって言ってくれると嬉しいけど?」なんか照れくさいけど、まあいい。

「ありがとうございます」

「どういたしまして、っと。ふぅー。いいことしたから気分がいいぜえ」

 そんなことを茶目っ気たっぷりに言いながら、伸びをする。そしてレジカウンターの右端、レジの脇をゴソゴソと弄ると、その手には蓋つきの灰皿とメンソール煙草、そして銀色の金属製ライター…ここで今から煙草を吸う気なのか、この御仁ごじん

「いや、営業中の店でタバコ吸わないで下さいよ、大体未成年の前ですよ?」

「こんな飲食店や居酒屋ばかりのフロアにある店、中でタバコ吸おうが周りは何も言わないって。未成年の前なのは―うん。パンとか缶コーヒーとかめぐんであげたじゃん、勘弁してよ。ヤニ切れなんだよう」

「仕方ないですね…外の喫煙所に行けなんて言えないし」

「助かるぅー、そいじゃ失礼しますよっと」

 キンっと金属ライターの蓋が開く音。フリントホイールをこする音。少し焦げ臭いに匂いとほのかなオイルの香り。久須さんの口先に加えられた煙草に火がともる―その瞬間、彼女がはっとした顔に変わる。どうしたんだろう?

「あの、久須さん?大丈夫ですか?」

「ああ、いや、ゴメン…何でもないよ。気にしなくてオーケー」

「本当に?」

「うん。大丈夫だから―」

 それ以上追及するのはやめておく。君子くんしあやうきに近寄らず。やぶはつつかずスルーに限る。久須さんは何とも形容しがたい顔で煙草を吸い込むと、天井に向かって煙を吐き出す。そして―

「いやー我慢した後の煙草って美味いねえ。私、酒か煙草どっちか辞めろ、って言われたら、酒辞めるわ、うん」満面の笑みを浮かべ僕にこうのたまったのであった。さっきまでの顔は何だったんだよ、一体。さっきまでの顔が嘘みたいに明るい。まあ、女の人の機嫌なんて、秋の空みたいにコロコロ変わるし、気にしないでおこう。

「あ、そういえば」

「うん。どうした?」

「あの小説の主人公、世界的バンドの元ギタリストの殺害犯に影響与えたって、久須さん、知ってて僕にあの本渡しました?」

「いや、どうだったっけなあ―多分、知らなかったと思うよ?」いや、何だ、その喉の奥に引っかかった物言いは。

「多分って、なんですか?もう」

「いや、ただ忘れてただけだと思う。君にそう言われるまで、まったく思いもよらなんだ」

「そうですか」いまいち納得はできないけど、まあ、オーケー。

 その日は、煙草をチェーンスモークする久須さんと他愛のない話をしてから別れた。

scene6-2-6 「ボーイズ・ミーツ・ガールの顛末てんまつ疑似ぎじ交換日誌の始まり」


 夕方過ぎに茅場かやば駅を出、白路はくろへ。早々に家に帰ると、部屋にこもる。リュックの中の明石さんの名刺が挟まれた「輝光塾」の資料と久須さんが帰りがけに貸してくれた本―今度は日本の作家のもの―を取り出す。

 さて、両親に「輝光塾」の事をどう切り出そう。実は―、かくかくしかじかの事情で、茅場駅前第三ビルの古書店のあるじのお姉さんと知り合って、そのみ友達に「高認」の事を教えてもらって、彼の勤め先に勧誘されたんだ―云々うんぬん。うーん。「高認」の件は両親にとってもいい話だから良いとして、久須さんの件があまりよろしくないように感じる。よく知らない妙齢みょうれいの女性…父親には何とか誤魔化ごまかしが効きそう―女がらみだと妙に物分かりがいいのだ―だが、母親に何と言ったものか知らん。

 ピコン、という音と振動。ビックリして学習机の上のスマートフォンの画面をのぞき込むと通知画面にはメッセージアプリ―今日の帰りがけに久須さんに無理やりインストールされた―の「新着メッセージ1件」という通知。タップするとメッセージアプリが起動する。画面の上部の発信者には「なみ」―店の電話番号っていうのも連絡取りあうには不便だから私のアカウントを教えて進ぜよう―、左端には可愛らしい三毛猫みけねこの写真。そこから吹き出しが出ていて、

「なあ、少年。今、両親に今日の事どう説明しようか悩んでない?」とメッセージがある。何でこのタイミングでメッセージを送ってくるんだあの人は。エスパーか何かか?

「ええ。まさに今、うんうんうなっているところです」

「私がご両親にお話ししようか?」

「え?両親を店まで連れてこい、と?」

「違う違う。このアプリ、音声通話機能もあるんだよ?若者のくせにモノをしらんなあ」なるほど。それなら家に居ながら両親と久須さんが話せるけど―

「高認の話まではいいんですけど、久須さんの事と『輝光塾』の事をどう切り出すかがネックなんですよ」

「ん?私の事は両親に何も話してないのかい?」

「はい。特に理由がある訳じゃないけど」ここでやり取りに間が空く。五分ほどボーっとしていると通知音。

「君が私の事を両親に黙ってたのは、まあ、しょうがない。17にもなれば親に話したくないこともあるもんね。だけどまあ、任せといてよ。高認試験の話までしてくれたらいい」

「それから?」

「話が良い頃合いになったら、スマートフォンを取り出して、準備完了ってメッセージを私に送ってよ。後は後は私がうまくやってあげるからさ」本当に?まあ、これから自分一人で言い訳をあれやこれやひねり出すのも面倒くさい。

「わかりました。本当、何から何まで済みません。お世話になりっぱなしで」

「そこは…」

「ありがとう、ですか?」

「そ。分かってきたじゃん。少年。あ、そうだこの作戦の発動時間は21時頃で頼むよ。今から店閉めて家に帰るからさ」


 そんなこんなの後で、僕は両親と夕食を取る。食べ終わった後、どう話を切り出そうかまごまごしていると、父が、

「もしかして、何か話したい事があるのか?俺が聞くか?」と僕に言う。ああ、実は―久須さんに言われた通り、高認の話をする。

「なるほどね。そういえば昔『大検』ってあったよなあ。それで?自分一人で何とかしてしまうつもりか?言っちゃなんだが、まともに高校行ってないお前には厳しいんじゃないか?独習どくしゅうってのはお前が考えてる何倍もきついぞ?挫折ざせつするんじゃないか?」

「いやー」そろそろ頃合いか。食卓の下でスマートフォンをチェック。時間は20:58。よし。こっそりロックをいて、メッセージアプリを起動。久須さんのページに「準備完了」と打ち込む。

「おい?話聞いてるのか?お前?昔っからお前はそうだ―お前から話しかけてきたと思えば、自分ばっかり話して人の話を聞いちゃいない―」父親がそういいかけた時、僕のスマートフォンから間抜けな着信音。

「おい、お前、人様が話してるって言うのに、スマホいじってるんじゃない。ふざけてるのか?」

「ごめん、父さん、今は黙ってこのスマホに耳を当てて。頼むから」

「ああ?」いぶかし気な表情だ。冷汗が脇のしたに噴き出してくる―どうする俺―僕が父の鼻先に突き出したスマートフォンからは久須さんの

「もしもーし?聞こえてますか?」と言う声が漏れ聞こえてくる。

「なんだ?女の声がするぞ?そのスマホ」

「うん。まあわりかし美人なおねーさんがこの電話のぬしだよ」

「お前、引きこもりのくせに上手い事やってるんだな…」

「そんなんじゃないって!」

「分かった、分かった。とりあえず美人のお姉さんにめんじてお前のいう事を聞いてやる。この人の話を聞けばいいんだな?」

「うん。お願い」

「分かった―はい、もしもしお電話変わりました、伊織の父親の―」

 そこから、久須さんと父親がどう話を進めたかは―僕の預かり知る事ではない。というのも、恐ろしく礼儀正しい口調の久須さんが八割強話をし―内容を聞き取る事は出来なかった―父親はそれに対し、返事をしていただけだからだ。

 20分は経っただろうか。父親はスマートフォンのスピーカーをティッシュでぬぐって返すと、

「大体、話は分かった。「輝光塾」とやらの資料を貸せ。母さんには俺から説明しておく」

「いいの?たまたま知り合った女の人の「呑み友達」が講師をやっているような予備校だよ?息子が変な勧誘に引っかかったって、思わないの?」

「なあ。俺は営業畑で生きてきた人間だ。何人もの人間―悪いやつを何百ダース、良いやつは二三人―の話を聞いてきた」

「うん」

「電話口での交渉っていうのは、中々難しい。話し相手の顔や容姿を見れんからな」

「そうだね」

「さっきの久須さんは、ただ誠実に話してきた。内容と言うより、声のトーンが大事だ。どんな営業のプロだって、どんなテクニックを使ったって誤魔化ごまかせないのがトーンだ」

「うん」

「人をだましたい時はな、まず、いかにも誠実でございって声色を作って、バレても大して影響のない事実を話すんだ。それから、自分の窮状きゅうじょうを話し、相手の同情を誘う。最後に自分のえきになる方に誘導する。俺も良く使うテクニックだから嫌って程知ってるんだ、ついでに言えば、同じ手に何回も引っ掛けられてきた」

「うん。それで?」

「この久須さんも、最初は同じ手を使ってきたと俺は思ったが違った。特に自分に同情を誘ってくるわけでもない、お前に世話を焼くことで私たちから金を巻き上げようとする素振りもない。ただ、切実せつじつにお前の事を心配してくれている。何でかは分からんが」

「そうなんだ」

「おう。だから―信じてもいいか、と思ったんだ。これは男の勘と言ってもいい」

「ただ単に、お姉さんの色香いろかてられただけじゃ―」

「みくびるな。俺は媚を売ってくる女にも詳しい。接待先のキャバクラで嫌って程、そんな浅はかな手を使う美女達を見てきてる。あ。母さんには黙っとけよ」

「うん」

「話がれたな。ま、後は俺に任せとけ。お前は部屋に戻って久須さんにお礼の連絡でもしとけ。ああ、後、次、例の古本屋に立ち寄る時は俺に声をかけろ、適当な菓子折かしおりでも用意してやるから」

「ありがとう、父さん」

「お礼は後にしろ。今から母さん説得するんだから」


 

 次の朝。何だかむっつりした表情の母から、こう告げられる。

「さ、『輝光塾きこうじゅく』に電話かけましょうか」

「いいの?」

「いいのよ。昨日、父さんから粗方あらかた事情は聴いたわ。最近妙に煙草臭くなって帰ってくるようになったと思ったら、年上の友達が出来ていたのね」

「うん。黙っててゴメン」

「いいのよ、これくらいの年頃になれば、黙っておきたい事だって出てくるものだもの」 

 かくして――僕は「輝光塾」の生徒になる。


 10月の頭のあたりで入塾、高認試験対策の講座に通うようになる。講座は平日の午前11時から午後3時までに集中している。まるで、また学校に通い始めたみたいだ。白路はくろから茅場かやばまでの定期を買う。そして、毎日9時半頃に家を出、茅場駅前第一ビルの十階に向かう。授業が終わったら、茅場駅前ビルをウロウロして、「雀久堂ジャンクどう」に顔を出す。久須さんは、忙しい時はあまり構いもしないけど、僕は気にすることなくレジの脇に座っている。

 そんな日々を過ごし―本の貸し借りは途中から古本の推薦に変わっていた、さすがに何も買わないのは、久須さんに申し訳が無くて、借りるのから買う方向にシフトしていた―冬を迎え、春が過ぎ、夏が過ぎていった。お盆の真っただ中に高認試験を受け、九月の頭頃に合格通知が送られてきた。


scene6-1-2 「ある過去の贈り物」


 本棚代わりの三段カラーボックスには、僕と久須さんの交換ノートみたいな役割を果たした本たちが並んでいる。

 「あの」ティーンエイジャーの小説、箱をかぶった男が主人公の奇妙な小説、大げさなタイトルの私小説家の代表作、ドイツ文学の大家の代表作―卵の寓話ぐうわで有名なアレ―、英国の劇作家の悲劇―3人の娘をもつ老王の悲劇譚―、ロシア文学の大家の小品―地下で生活する男の手記の体のアレ―、等々、様々な本が並んでいる。国や時代はバラバラだけど、一貫して孤独な男が主人公のものだ。これらは久須さんの本の形を借りたお節介だった。口では飄々ひょうひょうと僕に冗談交じりの話をするけど、心の奥の方では僕の事が心配でたまらない。それが僕が久須さんから感じる事。くすぐったいけど、心地いい。姉が居たら、こんな感じなのかな、と僕は思う。

 さて、今日買ってきた本は―。表紙をめくる。タイトルのページをめくると、そこにはくしゃくしゃの銀紙が挟まっていた。その銀紙を取除いて、ごみ箱に投げ込む―ん?なんか茶色い点々がある?そして、何やら書き込みがしてある。古本ではままある事だが―書き込まれた内容に目をかれた。

加藤亮平かとうりょうへい 蔵書」とページの右端に小さく書かれていた。この本の元の持ち主の名前か。そしてその書き込みの左隣には、

那美なみにこれをゆずる。我がおもいびとたる悲しきカッサンドラにたくす」とある。何じゃこりゃ?那美って確か、久須さんの下の名前じゃなかったっけ?しかも、読書中にチョコをかじる那美となると―彼女くらいに思える。

 しかし、「悲しきカッサンドラ」とは何のことだろう?さっぱり予想もつかない。カッサンドラといえば、ギリシャ神話に出てくる登場人物で、「予言」をする女神だったと記憶しているが―まさか、久須さんに「予言」能力が?うーむ。眉唾まゆつばモノの話ではある。


 結局、僕はその夜、本の本文を一文も読まず、机の前でうんうんうなったり、ネットで「カッサンドラ」について調べる事に時間をついやし―徹夜していたのだった。何とも間抜けな事態だ。成果は調べる前と余り変わりはない。おおよそ、「予言をする女神」=「カッサンドラ」に集約される。後はトリビアめいた知識がついただけだ。とりあえず、このままキッチンに行ってカフェオレでも飲むか…


scene6-1-3 「café au lait(カフェ・オ・レ)」


 眠い顔をした父がリビングに居る。挨拶を交わし、キッチンのコンロにヤカンも載せ、つまみを右へ。マグカップにインスタントコーヒーの粉をこれでもかと入れ、沸騰したお湯を注ぐ。半分注いだら冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぐ。食卓に着いて、生暖かいカフェオレを流しこんでいると、父に話しかけられる。

「なあ。お前、昨日寝てないだろ?顔みりゃ分かる」

「うん。ちょっと調べ事してたら、はかどっちゃってさ」

「行きたい大学の事でも悩んでたのか?相談のっちゃるぞ?」

「行きたい大学はこの夏で大体絞ったよ。ほら、K市の―」

「ああ。あのあたりか。懐かしいな」

「あれ?父さん、あの辺に縁あったっけ?」

「言ってなかったか?俺があの学生の街で大学生だったこと?」

「初耳」

「あの街はいいぞ、女子大も一杯あるしなあ。よくコンパしたもんさ」

「父さん、モテたの?」

「ま、人並みにな」

 人に歴史あり。今や母さん一筋のこの男にそんな時代があったか。

「ま、お前が大学合格して、ハタチになったら酒でも飲みながらこの話をしてやろう。それまで楽しみにとっとけ」

 別に親の恋愛武勇伝を聞きたいわけじゃないけど―まあいい。


 後から起きだしてきた母が作ったフレンチトーストを食べ、眠い目をこすりながら部屋に戻る。


 部屋に戻ると、特にする事もない。でも、ボーっとしてたら寝てしまう…ので、参考書を開き、勉強。昨日よりは集中できる。昼まで英語の文法と格闘し、昼飯を食ったら古典、現代文の過去問、世界史の問題集。夕方になると、さすがに勉強に飽きてくる。スマホを手に取り、ベットにダイブ。

「新着メッセージ1件」

 僕のスマートフォンには、父、母、両祖父母、久須くすさん、明石あかしさんの連絡先しか入っていない。即ち―このメッセージを送って来たのは、明石さんか久須さんだ。両親と祖父母は除外。

 さて―これが久須さんのメッセージなら何が書かれているだろう?実は、売り物と私物、間違えちゃった、てへっ(笑)的な?いや。あのズボラの女王たる久須さんがそんな事に気づいているとも思えんなあ。まあいいや、明日の帰りに「雀久堂ジャンクどう」で聞いてみるか。良し。何でもいいからメッセージを開いてしまおう。もし、これが明石さんの物なら、明日の予習範囲の指定だろうし。

 メッセージアプリが起動すると「明石」と書かれたページにジャンプ。セーフ。危うく予習なしで授業に臨むとこだったぜ…。

 「明日さあ、夏目漱石の「こゝろ」で問題作るからよろしく。手元にモノがあるなら一読しておくように」



scene6-1-4 「(前略)この手紙があなたの手に落ちるころには、私はもうこの世にはいないでしょう(後略)【夏目漱石「こゝろ」五六より】」


 次の日。

 茅場かやば駅前第一ビル10階、「10‐A」教室で明石先生お手製の問題を解いた僕は持ち時間を持て余していた。ふと視線を上にあげると、教室には4、5人の生徒。社会人や僕と同じようなドロップアウト高校生が居る。窓の前にある教卓の前に座る明石先生はラップトップPCをカタカタ鳴らしている。

「君たちが問題解いてる間に他の予備校の別の問題を作り上げないと、あそこのお偉いさんにシバき倒されてまう―」

 問題にとりかかろうとする僕たちに彼は泣きそうな顔でそう言った。いちいちお手製で作ってるからそんな目に合うのでは?

 今日の問題は「下 先生と遺書」の四七~五六―「K」が自殺しているのを「先生」が発見するシーンから結末まで―からの出題だ。あのやたらめったら長い先生の遺書―久須さんに推薦されて読んだから筋は知ってる―素直な問題が幾つか続いた後の最後の問題は以下の通り。


 『問:「先生」は明治天皇の崩御ほうぎょの後、自殺を決意します。彼は何故、表面上は幸福な生活を捨て、自殺する事にしたか、何故、「あなた」に長い自叙伝じじょでんを書き記し、送ったか、あなたなりの考えを述べよ。なお、字数制限はないものとする(20点)』


 普通とは違う論述ろんじゅつ問題なのに配点高い。


 ―自殺の直接のトリガーを引いたのは明治天皇が崩御した際に起きた乃木准将のぎじゅんじょう殉死じゅんしだ。

 「殉死」の新聞記事を読んだ先生は心の奥にわだかまっていた「K」に対する罪悪感や妻に対し嘘をついて誤魔化ごまかしている事への罪悪感が、「殉死」の記事をきっかけとして、吹き出してしまい、それにとらわれる。自殺をする事に決めはするが、妻には本当の事を絶対に伝えたくない、妻の過去に対して持っている記憶をなるべく純白のまま、保ちたいというみにくいエゴ―僕はそう思う。勇気をもって懺悔ざんげするべきだったのだ―が故に最近「先生」に付きまとう「あなた」にだけ、正直に打ち明ける―それでも誰かに打ち明けずにはいられなかったのだ―


 そんな要旨の事を回答欄に書き付け終わると、時間が余っていたのだった。


 「こゝろ」―「先生」と「K」、「妻」そして「私」―誰も幸せにならない話。皆が皆、孤独感を抱えている話―そんな事を考えていると、

「ほな、論述以外の答え合わせ、始めよか」と言う明石先生の声。ぽつぽつと答え合わせをし、チャイム。

「うーっし。授業終了~君らの論述はじっくり読ましてもらうで~」配点甘めでお願いしまーす、とクラスの剽軽者ひょうきんものが言う。

「いやあ。君らの人生観、垣間かいま見せてもらうで~覚悟しとってや」いや、実に変な問題だった、アレ。


scene6-1-5 「暖かく流れる血潮ちしお


 昼飯を食べた後、世界史と英語の講義。僕は世界史は割に嫌いではないが、英語は苦手だ。単語と文法がどうしても頭に入って来ないのだ。

 英語の授業を聞くでもなく、聞かないでもなく、半ば船をぎながら過ごす。

 ああ、久須さん、どうしたものかなあ?今日、「雀久堂ジャンクどう」に行って、あの本の書き込みについて、問いただそうとは思うのだが―

「久須さんって、もしかして「予言」の能力持ってます?」なんて直球ズバリを投げ込むのは、少し躊躇ためらいがある。

 そして、「予言」の部分も十分危険な香りだが、「わが想いびとたる悲しきカッサンドラに託す」という部分も大概のものだと、僕は思う。

 どうやら「加藤亮平かとうりょうへい」は「那美なみ」を大事に想っており、何らかの事情の元、あの本が贈られたとみるべきだ。何らかの事情?何だろう?誕生日プレゼント?でもなあ、あのメッセージの「たくす」というワードが妙に引っかかるのだ。「託す」といえばバトン。バトンといえばランナー。それは次のランナーに「託す」もの。バトンを「託した」ランナーはトラックから消える―

 まさかとは思うが、アレは―「加藤亮平」の遺品いひんなのだろうか?もし、そうだとしたら、それについて那美さんに聞くのは――トラウマを掘り返すような行為ではないのか?それをしてしまったが最後、那美さんと僕のヌルい関係はお終いを告げるだろう。

 まるでさっきの授業で扱った「こゝろ」の中の「私」になった気分だ。

 僕に久須さんのトラウマをほじくり返す権利はあるのだろうか?そして、それをしてしまったが故に、彼女に致命的なダメージを負わせるのではないか?

 しかも、だ。これは妄想もうそうに近いが―久須さんが文字通り「カッサンドラ」なら「加藤亮平」の「死」を「予言」したのではなかろうか?


 人生を得たものを失う過程だ、と見做みなす人がいる。


 かく言う僕もその一人で、今までそこそこのモノを失ってきた―中学を卒業した春のある日。突然、幼馴染が「消えた」のだ。死んだわけじゃないけど、行先も告げすに引っ越していった―その原因となった出来事に僕は直接責任がある訳ではない。しかし、パートナーというべき彼女を放置し、自分の益だけを考え、逃げ出してしまい、その事が間接的に利用されたのは想像に難くなかった。隙が出来たのだ。そしてそこにつけこまれた。


 もう、何かを失うのはごめんだ。

 一人で苦しんでいる人間を放置するのは―その人間をおとしめているヤツに味方するのと同義だ。

 久須さんは「加藤亮平」への「予言」を後悔しているだろう。そして、その後悔は彼女を少なからず孤独にしたはずだ。その孤独が彼女を「先生」のような、重たい後悔を背負いながらも周りに打ち明けられない存在にしているかも知れない。


 僕は「私」のように、久須さんに、過去を求める―それは重たい後悔を分かち合う為だ。決して、その後悔を『血潮ちしお』として浴び、『新しい命』を生むために使うのではない。



 SCENE6-1-6 「運命の女が1人とは限らない」


 今日の授業は全部、終了。

 リュックに教科書をつめこみ、エレベータホールへ。

 幾人いくにんかのサラリーマンや、学生に混じって地下2階を目指す。地下2階に着くと、僕は地下街を駆け抜ける。このとき実は、この物語におけるキーパーソンの1人―何時か「トンテキ よつば」で見かけた少女―とすれ違っていたのだが、興奮していた僕は、まったく気づかずじまいなのだった。










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