ジジンと紫色のなみだ
城戸圭一郎
第1話
【 八歳の夜 】
「きみは何者?」
その夜、少年の部屋に現れたのは、妙な格好をした生き物だった。細い体に、長い手足。口元はとんがっていてゆがんでいる。頭のてっぺんは二股にわかれている。おまけに黒くて細長いしっぽがあった。
「いい質問だ」
その生き物はえらそうに鼻をこすった。
「オレ様は空からの使いだ」
少年はベッドのうえで上半身を起こし、首をひねった。
「天使ってこと?」
「そう呼ばれたこともあるね」
「どう見ても悪魔のほうがしっくりくる」
「そう呼ばれたこともあるさ」
「結局、どっちなの」
「どっちでもない。分類なんてどうだっていいのさ。オレ様のことはジジンとでも呼ぶが良い。それにしてもおまえは肝が座っている。オレ様に驚かないんだからな」
ジジンは木の枝より細い両腕をひろげた。
「驚いたよ。待っていたら現れたんだもの。でもぼくが待っていたのはきみじゃない。サンタクロースだよ」
「そいつは諦めろ。サンタクロースはもう来ない」
「どうして来ないの?」
「さぁね。あいつはオレ様が嫌いなんだ。オレ様が立ち寄った家にはやって来ない。だからその家の子どもはプレゼントをもらえない」
少年は残念がった。それを見て、ジジンはにやにやと笑った。
「そうか。おまえには欲しいものがあったのか」
「戦車だよ」
「そいつは剛毅だな」
「欲しいのはおもちゃだよ。本物の戦車に乗れるのはもっと大きくなってから。だからラジコンが欲しいんだ」
「では与えてやろう」
少年は目を丸くした。
「プレゼントくれるの?」
ジジンはゆっくりと首をふる。
「ちがう。プレゼントじゃない。オレ様はきっちり対価をいただく」
「対価って?」
「支払いさ」
「お金なんてないよ」
「対価がお金とはかぎらない」
ジジンは鉛筆より細い人さし指を立てた。
「ところで。ひとつ話をしてくれないか」
「どんな話を?」
「悲しい話さ。そいつがオレ様の大好物なんだ」
「いいけど」
ジジンは目を丸くした。
「あるのか? 悲しい話が」
少年がうなずくと、ジジンは飛び跳ねておどった。
「どんな話だ?」
「子猫の話さ」
雪の降りはじめの夜に、庭の植え込みでふるえていた小さな黒猫を見つけた。少年は子猫を家につれかえり、タオルで体を拭き、ミルクを与えた。やがて少年の問いかけにかすかな泣き声で応えるようになったが、それでも寒さに奪われた生命力はもどってこなかったのだろう。三日目に、子猫は天に召され、少年は庭に墓をつくった。
「……悲しいな」
ジジンの目から涙がこぼれる。
床に落ちたその滴から、紫色の煙がのぼった。
「つまりおまえにとって一番大切なものは、子猫の墓だということだな」
目を濡らしたまま、ジジンは頷いた。
「いいだろう。おまえの欲しいものをくれてやる。対価は勝手にもらっていくぞ」
言い終わるが早いか、ジジンは姿を消した。
目を覚ました少年は、奇妙な夢をみたと思った。
忘れようと頭をふってベッドを降りると、そこには戦車のラジコンがあった。少年はよろこびのあまり飛び上がり、それを抱えて部屋を飛び出した。サンタクロースが来たことを両親に伝えようとしたのだ。
両親は庭にいた。ふたりとも神妙な顔つきで地面を見ている。
「ひどいものだ。たぶん、キツネのしわざだろう」
父親は言った。
子猫の墓は掘りかえされていた。遺骸はなく、そこにはただ湿った土だけがある。
少年は戦車のラジコンをぐっと抱きしめた。これを与えてくれたのがサンタクロースではないことと、昨夜のできごとが夢ではなかったことだけは理解できた。
【 十二歳の夜 】
「ひさしぶりだな」
細い体に、長い手足をした妙な生き物は、いつの間にかそこにいた。
「きみは……ジジン」
「ほう。覚えていたか。光栄なことだ」
鉛筆のように細い指先で、とがった鼻をこする。
少年は床に腰をおろして、ベッドのへりを背もたれにしていたから、ジジンと顔の高さがほとんど一緒だった。
「小さいころに見た夢だと思っていたよ」
「間違ってはいないさ。オレ様は夢のように気まぐれだ」
少年はひざに置いたスケッチブックのページをめくり、色鉛筆を走らせた。
「なにをしている?」
「絵を描いているのさ」
「なにを描いている?」
「きみさ」
ジジンはその場で三回転した。
「それは困る。オレ様は描き留められるのがきらいなんだ」
「ぼくは好きだよ」
「では、これでどうだ」
細い両足をしきりに動かして、ジジンは部屋を走り回った。壁も天井もベッドの上も、紫色の残像が走りぬけるだけ。
「わかったわかった。これじゃスケッチできないよ」
少年はスケッチブックを閉じた。
「そうだ。あきらめが肝心だぞ」
ティースプーンより細い人さし指を立て、ジジンは少年に顔を近づけた。
「それより、おもちゃの戦車はどうした?」
「押し入れにしまってあるよ」
「もう遊ばないのか」
「いまはもう動かないんだ。壊れてしまって」
「どうして壊れた」
「友達が壊してしまったのさ。ぼくは力ではかなわないから」
「そいつらは力が強いのか」
「強いよ。このあたりの同級生はみんなぼくより強い。きっと本物の戦車に乗るような優秀な兵士には、ああいうひとたちがなるんだと思う」
「兵士になるのは優秀なやつだけなのか」
「十七歳になればみんな兵士になる。そのなかでも戦車乗りや、飛行機乗りや、船乗りには、選ばれた兵士だけがなれるんだ。ぼくにはきっと無理そうだけど」
ジジンは首をひねった。
「やるまえからあきらめるのは感心しないな」
「さっきは、あきらめが肝心だと言ったじゃないか」
「それもそうだ」
両腕を腰にあて、大笑いする。
「さて、おまえの欲しいものを言ってみろ」
少年はスケッチブックに目を落とした。
「たぶん無理だと思うけど」
「まぁ、言ってみろ」
「美術館にあるシュエの絵画が欲しいな」
「なんだそれは」
「有名な絵描きだよ。あこがれてるんだ。実物をみてみたい」
「ふぅむ」
ジジンは腕組みをして考えた。黒くて細長いしっぽがくるくると円を描いている。
「ところで。ひとつ話をしてくれないか」
「どんな話を?」
「悲しい話さ。知っているだろ、そいつがオレ様の大好物なんだ」
「わかったよ」
ジジンは目を輝かせた。
「どんな話だ?」
「将来の夢、の話さ」
少年は絵描きになることを願った。両親はスケッチブックと色鉛筆を買いあたえたが、祖父と教師はそれを咎めた。誰しも兵士になることが義務付けられていたからだ。国家に奉仕し、国家を守る。それが大人になるということだった。絵描きになるということは、隣国の芸術学校へ留学しなければならないが、その隣国こそが現在の敵国だった。留学などできるはずがない。少年はスケッチブックと色鉛筆を捨てることにした。
「……悲しいな」
ジジンの目から涙がこぼれる。
床に落ちたその滴から、紫色の煙がのぼった。
「いいだろう。おまえの欲しいものをくれてやる。対価は勝手にもらっていくぞ」
言い終わるが早いか、ジジンは姿を消した。
目を覚ました少年は、奇妙な夢をみたと思った。
だがそれが夢ではないことはすぐにわかった。壁にシュエの絵画が掛かっていたからだ。
少年は驚き、そして喜んだ。心のなかに疑問の種がないわけではなかったが、それでもあこがれの画家の作品は、心を鷲掴みにしてはなさない。少年は、太陽がもっとも高くのぼるまで、ずっと絵を見つづけた。
空腹をおぼえた少年がリビングへ行くと、母親が神妙な顔つきで座っていた。
「放火犯のしわざでしょう。ああ、なんてひどいこと」
母親は言った。
少年が通いたがっていた隣国の芸術学校は、とつぜんの火災により、一晩のうちに灰になってしまったのだ。
【 十五歳の夜 】
「ひさしぶりだな」
細い体に、長い手足をした妙な生き物は、いつの間にかそこにいた。
「やぁ、ジジン」
勉強机に突っ伏したまま、顔だけをひねるようにして少年は視線を向ける。
「元気ないようだな」
「まぁね」
「それになんだかいつもより、その、汚れているな。部屋もおまえも」
ジジンは部屋を見回した。
「お父さんとお母さんがいないから」
「どうしていない?」
少年は涙の枯れた目でジジンを見つめた。
「帰って来られなくなったんだ」
「なぜ帰って来られない」
「逮捕されたんだ」
「それはなんだ?」
「警察に捕まるってことだよ」
「なぜだ?」
「ウワサがいけないんだ。誰かがへんなウワサを流したから」
ジジンは首を捻った。
「よくわからないな。ウワサで捕まるのか?」
「お父さんとお母さんが、国家に反抗したってウワサを流したやつがいるんだ。反政府グループに協力していると」
「国家に反抗すると捕まるのか」
「そりゃそうだよ。総統は勇敢に国家を率いてて、そのおかげでぼくらが生活できているんだから。隣国とずっと戦争が続いているんだ。国を守るために、総統も大臣も官僚も将軍もみんな一生懸命働いているんだ」
「そんな大切なひとたちを裏切ったのか?」
「裏切るわけないよ! お父さんとお母さんはそんなことしない!」
少年は立ち上がってジジンを睨みつけた。
「ウワサを流したやつが悪いんだ」
「そいつは誰だ?」
「わからないよ」
「それは困ったものだ」
「なぁ、ぼくの願いはもうわかっているだろ」
ジジンは薔薇のツルより細い指で頭をかいた。
「両親に会いたいのだろう」
「そうだよ。また一緒に暮らしたい」
国家反逆の疑いで捕まった者が釈放されることはない。戦時下において国家に反抗するということは、敵の一員になるのと同じことだからだ。長く拘束され、強制的に働かされる。ほとんどの場合、最後は病気や事故で亡くなってしまう。少年の両親の末路も、ほぼ決定していた。もう彼は両親に会うことはできない。
「……悲しいな」
ジジンの目から涙がこぼれる。
床に落ちたその滴から、紫色の煙がのぼった。
「いいだろう。おまえの欲しいものをくれてやる」
「対価が必要だろう」
「勝手にもらっていく」
「ぼくの命をあげる。お父さんとお母さんが戻ってくれば、死んだってかまわない」
ジジンはなにも答えず、姿を消した。
翌朝、少年はまだ夢のなかにいるのかと疑った。両親がそろって戻ってきたからだ。ふたりとも痩せて、髪や肌はみずぼらしくなっていたが、瞳や声はなにもかわらない、いつもの父親と母親だった。
「いったい何が起きたのかわからないけど」
母親は、少年を抱きしめた。
「政治犯として収容されていたひとたちは、みんな家に帰ったよ」
父親は、少年と母親を抱きしめた。
一晩のうちに、国の体制が変わってしまったのだ。隣国との戦争はおわり、少年兵たちは戦車を降りた。
総統も大臣も官僚も将軍も、ひとり残らず死んでしまったからだ。
おわり
ジジンと紫色のなみだ 城戸圭一郎 @keiichiro_kido
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