第31話


 ドアの向こうからキーボードを叩く音が聞こえている。耳を澄ませ、電話中ではないかを確認してから、和子はドアを三回ノックした。キーボードの音が止まる。


「なあにぃ?」


 部屋の中から息子、浩司の気の抜けた声がした。少しドアを開けて覗き込むと、小学生の頃から使っている学習机に座って振り向く浩司の姿が見える。役所の仕事を辞めて家に戻ってきた頃より、幾らか健康的な体つきになったようだった。


「浩司、お兄ちゃんがお菓子送ってくれたからおやつにしない?」

「もうそんな時間かあ。キリの良いところまでやったら下に行くよ」


 浩司は一伸びした後、机の上に置かれたノートパソコンに向き直った。再びパタパタとキーボードを打つ音が部屋に広がる。


「じゃあお母さん、下で準備してるね」


 そう声をかけて、和子はそっとドアを閉めた。一生懸命、仕事に打ち込む息子の姿を見ることができて素直に嬉しかった。


 キッチンに戻り、マグカップと急須を用意する。茶菓子は浩司の兄、悠一が送ってくれた羊羹だ。忙しくて家に帰れないから三人で食べて、そんなメッセージが届いていた。どうやら事業のほうは順調らしい。


 和子はゲームやアプリのことがあまり分からなかったが、先月頃公開したアプリがヒットしているそうだった。その前に出した間違い探しゲームもそれなりにダウンロードされたと聞いていたが、今回はそれを上回っているという。


 そのヒット作のアイディアは浩司が考えたものだと、悠一が教えてくれた。悪質クレーマーを撃退する、という内容のゲームだという。前職で受けた傷が心に残り続けているのかと不安に思ったが、ゲーム開発という形で昇華できるのであれば喜ぶべきなのかもしれない。


 浩司は三ヶ月ほど前から悠一の会社で働いている。自宅で仕事ができ、体調に合わせて仕事を調整しやすいのが助かると浩司は言っていた。半年前、突然旅行に行くと言い出した時は心配したが、今の浩司は充実した幸せそうな日々を送っているように和子には見えた。

 和子が鼻歌混じりにマグカップへお茶を注いでいると、浩司がリビングへやってきた。


「あ、これがかの有名なとらやの羊羹」


 大きな箱にぴっちりと詰まった色とりどりの小箱を見て浩司が言う。兄弟二人で羊羹の話をしていたのだろうか。


「あら、なあに? お兄ちゃんにおねだりしてたの?」


 マグカップをテーブルに置くと、和子が訊いた。二人の息子が仲良く会話をしている様子を思い浮かべると、自然と口元に笑みが浮かんだ。


「前に送ってよって言ってみたんだけど、本当に送ってくれたんだ。優しいなあ」


 浩司は羊羹を一つ手に取ると、椅子に腰かけた。マグカップに入れた緑茶を啜る。和子はその対面に座ると、同じようにお茶を啜った。


「お仕事は順調?」

「ぼちぼちかな」


 そう言って浩司は羊羹を一口食べると、うんうんと頷いている。どうやらおいしいようだ。


「あんまり無理しないでね」


 和子も適当な小箱を取り、中の小袋から羊羹を出した。良い香りがする。口にしてみると、確かにおいしい。夫が帰ってきたら食べてもらおう。きっと喜ぶはずだ。


 険悪だった親子関係は、半年前の浩司の旅行をきっかけにして徐々に改善している。タイミングが合えば三人で夕食を囲むことも増えたし、夫と息子が二人で仕事や趣味の話をしているのも見かけるようになった。


 二人の仲が変わった影響は東京で暮らす悠一にも波及していて、以前は「母さんと浩司で」という文言だったものが「三人で」に変化していたりと、家族全体の雰囲気が良くなっている。浩司の旅行は工藤家にとって大きな転機になったと和子はしみじみ感じていた。


 浩司と二人で羊羹を食べながら、お互いの仕事の話など他愛もない話をした。やはり何度聞いてもアプリ開発の話はよく分からなかったが、こうして息子と時間を過ごすことができるのが嬉しい。


「そういえば」


 浩司が二個目の羊羹を食べ終わったのを見計らって、和子は口を開いた。浩司に聞きたいことがあったのだ。


「同級生に相内蓮人君っていたでしょ? 今どこにいるか知ってる?」


 相内蓮人という名前を聞いた瞬間、浩司の表情が強張ったのが分かった。浩司は俯いて口を固く結び、何も言わずにただ首を横に振る。その様子に和子は少々驚いたが、もしかしたら息子は彼に何かされていたのではないかという不安がよぎった。


 相内蓮人は浩司の小、中学校の同級生だ。あの子が遊びに来ると何かがなくなる、そんなふうに母親たちの間では常に要注意人物とされているような子だった。幼い頃の浩司も彼と一緒に遊ぶことがあったが、いつの間にか家に連れてくることはなくなり、休日に会うこともなくなった。和子が知らないだけで、ずっと前に仲違いしていたのかもしれない。


「……そっか、変なこと聞いてごめんね。昨日ね、相内さん……蓮人君のお母さんと渡辺由利ちゃんがお店に来たの、二人で一緒に。由利ちゃんね、お腹が大きかったの」


 浩司がはっとした様子で顔を上げた。その眼は大きく見開かれている。いつもとは違う浩司の様子に戸惑いながらも和子は話を続けた。


「由利ちゃんの不倫相手、蓮人君だったんだって。たぶん、お腹にいる子も蓮人君の子だろうって。……それなのに蓮人君、数か月前から家に帰ってないみたいなの。前の職場を退職した時も何も言わずに突然家に帰ってきたっていうから、蓮人君のお母さんもあんまり気にしてなかったみたいなんだけど。由利ちゃんのこともあるから何とか連絡を取りたいって」


 不安そうな顔の渡辺由利を思い出す。彼女も浩司の同級生だった。聡明な子だと記憶していた彼女がどうして相内蓮人と不倫するに至ったかは聞かなかったが、身重みおもの身体で方々探し回っているのを考えると不憫でならなかった。


 しかし父親が見つかったとして、責任を取ってくれるのだろうか。彼女はこれからどうやって生活していくのだろうか。他人事ではあるが、小さい頃の彼女を知っているため心配になってしまう。


「もしかしたら子供連れて歩いてる由利ちゃん見かけるかもしれないねえ。蓮人君も一緒なら良いんだけ――」


「無理だよ」


 和子が言い終わらないうちに、浩司が言葉を被せた。その声は少し震えていたように思えた。

 驚いて和子が浩司を見ると、顔からは血の気が引いて蒼白になっていた。浩司は身体を小刻みに震わせながら、頬に手を当てて小さな声で何か呟いている。その様子に和子は言葉を失った。


「……由利の子供から父親を奪ってしまった。お、俺のせいだ。俺があそこで蓮人に会わなければこんなことにならなかったのに……」


 震える小さな声を何とか聞き取る。浩司は同じような内容を何度も繰り返し呟いていた。今にも倒れそうなくらい顔が青白く、まるで何かに怯えているかのようだった。


 ついさっき相内蓮人のことを聞いた時、息子は首を横に振ったはずだった。それなのに今の様子からは彼の行方を知っているようにしか思えない。どうして嘘をつく必要が息子にあるのだろう。何か知っているからなのではないか。自分のせいだと呟き続けているのは、知っているだけではなく関わっているからではないのか。


 眩暈がした。おそらく不安のせいだろう。息子が同級生の失踪に何らかの形で関与している。そう考えると動悸が激しくなっていく。優しくて真面目で、少し気の弱い息子が事件を起こした可能性があるなんて。まさか、そんなことがあるわけない。和子は自分にそう言い聞かせた。


「……浩司、蓮人君のこと何か知っているのね?」


 自らの口から出た声が震えているのに気づいて、和子は驚いた。口の中もからからに乾いている。もし浩司が犯罪に関わっていたらどうしようと、不安ばかりが大きく膨らんでいく。


 和子の声が耳に届いたのか、浩司の口から零れていた言葉が止んだ。しん、とリビングが静かになる。浩司がゆっくりとこちらを向いた。顔面は青白く、眼の下に隈が出来ている。眼球は少し血走っている。乱れた呼吸を繰り返す口元がゆっくりと動いた。


「俺が、あの幸せになれる家で、俺の不幸を神様に渡したから、蓮人は」


 突然、息子の顔が奇妙な形に歪んだ。眼鏡がひしゃげる。頬や首の辺りがぐにゃりと凹んでいる。着ているシャツに不自然な皺が浮かび上がる。

 ひっ、と短い悲鳴を上げて、思わず和子は椅子から立ち上がった。椅子に躓きながら後ずさる。がたがたと音を立てて椅子が倒れた。 


 椅子に腰かけたままの浩司は、まるで見えない巨大な手に掴まれているようだった。大きな指の形が浮かび上がる顔や服。めきめき、と身体が締め上げられている音がする。真っ白だった顔がさらに白くなっている。眼鏡が押し付けられて塞がっている片目。もう片方は怯えたような眼差しで中空を眺めている。みしり。ばき。どこかの骨が折れる音が聞こえた。悲鳴はしない。口も塞がれてしまっているからだろうか。


 和子は目の前で起きている事態が処理できずに、口元に手を当てたまま動けないでいた。その眼は息子の身体が形を変えていくのを確かに映しているのに、恐怖で四肢が動かない。ただその姿を目に焼き付けることしかできなかった。


 これ以上力を加えられたら、浩司の身体が壊れる。そう思った瞬間、ぱん、という軽い破裂音が聞こえた。同時に息子の姿は跡形もなく消え去っていた。


 はっと我に返った和子は、今の今まで息子が座っていた場所へ駆け寄った。

 何もない。先ほど食べた羊羹の包み紙や飲みかけのお茶が入ったカップはそのままあるのに、息子の姿だけがどこにもない。服も、眼鏡も、髪の毛さえもそこには残っていない。


 息子が忽然と姿を消した。

 ようやくそのことを理解して、和子は叫び声を上げた。

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