第20話
「俺だけどー」
間延びした蓮人の声が聞こえて、浩司はほっとする。騒がしい雰囲気はしないので、パチンコ屋にいるわけではないらしい。
「もしもし、蓮人? あのさ、例の家の件なんだけど。……さっき管理人さんから電話があって、今週の土曜日なら泊まれるんだって。お前、特に予定とか入れてないよな?」
「えっ、今週?」
浩司と同じく、蓮人も急すぎる宿泊日に驚いたようだった。やはり都合が悪くなったのでは、という考えが過ぎって、不安が浩司の身体をじわじわと侵食し始める。
「特に予定は入れてないから、全然行けるんだけど……。でも、今週の土曜日なんて急だな」
困ったような声音で蓮人は言う。それでも浩司は予定が入っていないというのを聞いて安心する。イバラに宿泊できると独断で返事をしてしまったため、蓮人がどうしても都合がつかない状況になっていた時に、どうやって責任を取ったらいいのか心配でしょうがなかった。
「……泊まるのにいくらかかるんだっけ」
ぽつり、と蓮人の声が耳元で聞こえた。浩司はその言葉をそのまま疑問と捉えると同時に、心のどこかである懸念が顔をのぞかせたのに気づいた。
「一泊二食付きで一万円だね。場所はM市だから、電車で片道二千円くらいだと思う」
心臓を打つ音が少しずつ早くなっている。会話に集中しようと思っているのに、脳が透明度の低いゼリーに覆われているように思考が上手く働かない。この後の会話を予測しようとするのを、本能が止めようとしているのだろうか。
「あのさあ――」
蓮人の声に僅かに身体が緊張する。遠くの方で図書館職員が台車を押している音が聞こえる。嵌め殺しの窓から雀が飛んでいるのが見える。会話を続けたくないと無意識に思っているのか、気が散ってしまう。
「――悪いんだけど、宿泊代貸してくれない? 今、金ないんだよね」
ファストフード店の時と同じような調子で蓮人は言うが、金額はその何倍も違う。予想していた言葉を聞いてしまい、浩司は思わず
彼に金銭的余裕がないことは知っている。浩司だってそこまで貯蓄があるわけではないが、おそらく蓮人よりはまだ自由に使える金はある。だから、困っている蓮人に飲食を奢るくらいなら――少し頻度は多いなと思っていたが――どうってことなかった。
しかし、あらかじめ葉書の写真を送って、蓮人には宿泊費用を知らせている。彼がパチンコに行ったりするのをとやかく言うつもりはなかったが、事前に伝えているのだからその費用は確保しておくべきなのではないか。今回のような、本人の人生に関わるかもしれない出来事に、他人が代わりに金銭を出すのは良くない。浩司にはそう思えた。
それに、これからも蓮人と良き友人でいるためにも、金銭で関係を成り立たせたくない。何となく、都合の良いお財布にされている感覚が、心のどこかにないわけでなかった。
「……蓮人、こういうのは自分の金じゃないと駄目だと思う」
蓮人が納得してくれることを願って、浩司は冷静に気持ちを伝えた。彼も二十代半ばのいい大人なのだ。きっと宿泊費用を事前に確保していなかった自分が悪かったと気づいてくれるはずだ。
蓮人からすぐに返事はなかった。耳を澄まして返答を待つ。ややあってから、スマートフォンのスピーカーから舌打ちの音が聞こえた気がした。
「……分かった。自分で何とかする」
蓮人の声は先ほどよりも低く、そっけなかった。自分の態度が気に食わなかったのだろうか。
浩司は何だか心配になってきた。もしかしたら、どうしても出費をしなければいけない理由があって、それで自分に借金を申し出ていたのかもしれない。しかし、今更そんなことを考えても、発言をなかったことにはできなかった。
「この間ちょっとだけ臨時収入があったから、電車賃ぐらいは俺も助けてやれると思う。でも、宿泊代だけは何とか頼むわ。……当日は十六時までに下芦駅に到着しないといけないから、後で電車の時間を調べて送るよ」
結局、蓮人の機嫌を取るような発言をしてしまう自分がみっともなかった。こんなことを言うのであれば、最初から宿泊費用も出してしまえば良かったのに、という後悔が増していく。
「ああ、助かるわ。じゃあ」
不機嫌そうな声がした後、通話が終了したことを表す電子音が聞こえてきた。自分にどんどん自信が持てなくなってきて、動悸とめまいが身体を支配していく。浩司はしばらく長椅子から立ち上がることができなかった。
「旅行? 土曜日から?」
母は目を丸くしている。いつもと変わらない和子と二人きりの夕食。テーブルの上にはカレーライスとサラダ、ポトフが並んでいる。
図書館を出た後、浩司はあの気配への恐怖も忘れ、まだ母が帰宅していない自宅へ急いで戻った。そして下芦駅までの行き方、運賃を調べ、蓮人にメッセージを送信したのだった。
電車賃は片道二千二百円。十三時半に最寄駅で快速列車に乗れば、乗り換えなしで約二時間後には下芦駅に到着する。しかし、蓮人に送ったメッセージには、一向に既読マークがつくことはなかった。
土日に旅行してくる、と夕食のテーブルで母に伝えると、大層驚いた様子だった。和子からすると、少し前までうつ病で横になってばかりだった息子が急に旅行すると言い出したのだから、驚きもするだろう。
「最近、少し調子も戻ってきたから、最後の休暇だと思ってどこか行ってこようかなって。そろそろ仕事も探したいし」
また母に嘘をついてしまう。本当は『泊まると幸せになれる家』という、少し怪しげな場所に自分は向かうのだ。僅かな罪悪感が胸の中に蓄積されていく。
「そんな、無理しないでもいいのよ? うつ病は良くなるまで時間がかかるって言うし……。旅行先で具合悪くなったりしないかしら」
和子はスプーンを持ったまま、心配そうな顔をしている。浩司が早く元の生活に戻れるように、無理をしていると思っているようだった。
「全然無理してないよ。旅行って言っても県内だし、万が一具合が悪くなっても帰ってこれるだろうし」
「でも一人で行くんでしょ?」
もう一つ、嘘をついていたことを思い出す。旅行はぶらりと一人で行く、ということにしていた。まだ母には浩司と蓮人の関係を伏せたままだ。
「まあ、そうだけど……。大丈夫、とりあえず時間ができたら連絡するから」
和子はまだ何か言いたそうにしていたが、ダイニングテーブルの横にあるテレビが火災のニュースを伝えると、そちらに釘付けになった。昨日の夜、北海道で大規模なマンション火災があり、少なくはない数の住人が亡くなったらしい。母は、怖いわねえ、気を付けないと、と言いながら、真っ黒になったベランダの映像を見つめている。
アナウンサーが何か言った後、画面がペンギンの映像に変わった。どうやらSNSで人気がある動物の特集のようだ。
浩司は先ほどのマンション火災という暗いニュースから気持ちを切り替えられずにいた。きっと自分よりも健康で、日々に幸せを感じていた人たちが亡くなってしまったのだろう。そう考えると、悲しみと罪悪感が自然と沸き上がってくる。
「旅行の件、お母さんからお父さんに一応話しておくけど大丈夫?」
テレビから目を離した和子が言った。どうやら動物特集にはあまり興味がないらしい。
浩司が旅行すると聞いて、父はどう思うだろう。自分が家にいなくても何も感じない、それならまだましで、旅行を良く思わない可能性だってある。浩司は車の運転席からの父の視線を思い出す。あの冷めた目で、きっと浩司のことを怠けていると思うに違いない。
しかし、旅行の件を母との秘密にするのも良い判断とは思えなかった。その秘密を父が知った時に、母まで何か文句を言われてしまうかもしれない。今日まででさえ、父に疎まれ続ける浩司を母は庇うように支えてくれたわけだから、これ以上母の気苦労を増やしたくはなかった。
「……うん、じゃあお願い」
小さな声で浩司は和子の提案に同意して、カレーライスをかきこんだ。
父や母のことも、蓮人のことも、何かが変わってくれるのか、本当に幸せになれるのか分からなかった。浩司の人生は灰色のままだ。
すっかり食欲がなくなってしまった浩司は、無理やり残りの夕食を胃に押し込んで自室に戻った。
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