第19話

 浩司は怯えていた。夕闇の公園で見た自身の後ろに立つ影。それを見た日から一週間のうちに、あの影は何度か浩司の近くに現れた。洗面所の鏡に映る自分の背後に、大きな影があるのを見つけた時には思わず叫んでしまった。


 影の気配は、突然現れ、突然消えた。高い位置から浩司を見下ろし、しばらく経つと初めからそこにいなかったように存在がなくなる。


 浩司はその気配の正体について考えあぐねていた。幽霊なのかもしれない。何かに呪われたのかもしれない。病気の影響でいないはずのものを知覚するようになってしまった可能性もある。


 一人ぼっちの時に正体不明の気配と遭遇したくなくて、浩司は昼間、家にいることを避けるようになった。図書館や大型の商業施設など人がいそうな場所を選び、母が帰ってくる時間まで過ごす。浩司が積極的に外出するようになったのを、母は単純に喜んだ。


 しかし、気配は外出先でも容赦なく現れる。今、浩司は図書館の書架の間で動けなくなっていた。適当な本に手をかけた瞬間、あの気配が突然に現れたのだ。浩司はすぐ背後に何かがいるのを感じていた。


 書架の間の通路は二人分の幅しかない。自分の後ろに誰かがぴったりと張り付いていたら、図書館職員か他の利用者が視線を向けそうなものだが、同じ通路の端にいる老人はこちらを一瞥もしなかった。


 奇妙なことに、気配は確かにすぐ後ろにあるのに、浩司を見下ろす視線は図書館の高い天井付近から感じるのだった。クリスマスツリーに飾る白と赤のステッキのような形状の化け物を浩司は想像する。恐怖と緊張で呼吸が浅くなり、背中に汗が滲んだ。動悸とめまいの予兆を感じた。


 ふっ、と急に身体が解放される。浩司は恐る恐る振り返ってみるが、背後には何もいない。気配はもう、どこにも感じなかった。いるのは先ほどから視界の端で本を吟味している老人だけだった。


 浩司は酸素を求め、肺いっぱいに深く空気を吸い込んだ。口の中がカラカラに渇いているのに気がつく。恐怖と緊張によるものだろう。


 何度か頭をかいてから浩司は閲覧室を出ると、図書館の入り口付近にある休憩コーナーに向かった。大理石調の床の上に、壁に沿って長椅子が四脚並べてある。カップ式の自動販売機で、冷たいレモネードを購入した。誰もいない長椅子の端に腰を下ろし、ゆっくりとレモネードを口に含む。乾いた口内に冷たい、甘酸っぱい味が広がった。


 浩司は壁に背を預けた。背中がどこかにくっついていると、後ろに何かが立つ心配をしなくて済んだ。

 先ほどの気配を思い出して身震いをする。通っているメンタルクリニックでこのことを相談したら解決するのだろうか。ただ薬が増えるだけのような気もする。


 浩司は短いため息をついた。徐にポケットからスマートフォンを取り出して、何かしらの通知がないか確認する。ニュースや動画のアプリからの通知ばかりで、重要そうなものはないようだった。右手の親指で通知の一覧をスクロールしていく。


 着信画面が表示された。


 驚いた拍子に左手の紙コップからレモネードが零れそうになるが、何とかバランスを取りそれを防ぐ。マナーモードに設定していたスマートフォンが規則的に振動している。黒い画面には、応答と拒否のボタン、それから〈非通知設定〉と表示されていた。


 浩司はかすみの家からの届いた葉書のことを思い出す。宿泊日が決定したら非通知で連絡する、と書いてあったはずだった。つまり、この着信はかすみの家からである可能性が高い。


 非通知設定の電話番号に掛け直すことはできないという話を聞いたことがあったのを思い出し、慌てて浩司は応答ボタンを押した。

 スマートフォンを耳に当て、息を整える。


「はい」


 しん、とした休憩コーナーに浩司の声が響く。


「わたくし、かすみの家の管理をしております、イバラと申します」


 スマートフォンから聞こえたのは、若い男性の声だった。


「工藤浩司様のお電話でお間違いないでしょうか?」


「は、はい。間違いないです」


 予期していた相手からの電話だったのに、声が上ずった。イバラと名乗った男性の声は訛りもなく聞き取りやすいし、威圧的な雰囲気は一切ない。


 しかし、電話で面識のない男性と話をすると、どうしても過去の、クレームを受けていた頃の自分を思い出してしまう。当時の自分に戻りそうになるのを必死に抑え込み、浩司はイバラの言葉に集中した。


「工藤様がお泊りできる日にちが決定しましたので、ご連絡いたしました。宿泊日は七月九日と決まりました。宿泊不可日にはなっておりませんでしたが、このままご準備してもよろしいでしょうか」


「えっ、九日? ちょっと待ってもらっても……」


 イバラの言葉に思わず驚きの声をあげる。浩司は通話状態を保ったまま画面を操作し、カレンダーを表示させた。左手のレモネードを慎重に膝の間に挟む。しっかり両手でスマートフォンを支え、カレンダーで日付を確認する。自分の日付感覚に自信が持てなかったために確認したが、認識は間違ってはいなかった。

 

「こ、今週の土曜日ですか?」


 イバラが口にした日付は、今日を入れて四日後のものだった。

 確かに宿泊できない日にはしていないはずだ。しかし、こんなにも早く連絡が来るなんて。あの葉書をポストに入れたのだって、つい一週間前のことだ。


「はい、その日であれば宿泊が可能です」


 イバラはそう言って、こちらの返事を待っているようだった。浩司は口を半開きにしたまま悩んだ。


 もしかしたら、こんなに早く宿泊できるのは幸運なことかもしれない。しかし、急すぎやしないだろうか。まだ何の準備もしていないし、蓮人が宿泊日はまだ先だろうと思って予定を入れてしまった可能性だってある。


 だが、今ここで返事をしてしまわないと、幸せになるチャンスは一生巡ってこないように思えた。


「……その日で大丈夫です。泊まります、泊まらせてください」


 浩司はゆっくり、はっきりと返事をした。おそらく自分には迷っている時間はないのだ。


「かしこまりました。それでは当日のお迎えについてお知らせいたします。工藤様は16時までに、M市の下芦しもよし駅へお越しください。こちらでお迎えの車をご用意しておきますので、駅に到着しましたらそちらにご乗車ください」


 下芦駅。どこかで聞いたことがあったような気がするが、思い出すことができない。浩司は脳が下芦駅について検索するのにストップをかけ、イバラの話に耳を傾ける。


「翌日は十時出発で駅までお送りいたします。料金のお支払いは、現金のみとなりますのでご了承ください。タオル等は全て備え付けてあります。お食事は当日の夜と翌日の朝にこちらでお持ちいたします。何かご質問はありますか?」


 一度も言い淀むことがないその声は、まるであらかじめ録音されたもののようだった。しかし、しっかりと会話ができているのだから、きっと電話の向こうには三十代くらいの仕事の出来そうな男がいるのだろう。


 イバラの問いに、浩司は特に聞きたいことも思い浮かばず、いいえ、と短く答えた。


「それでは当日、お待ちしております」


 電話の向こうの男性が丁寧に頭を下げる様子を想像する。イバラの話し方は最後まで丁寧だった。


「こ、こちらこそ。よろしくお願いします」


 イバラに対して自分のたどたどしい話し方が嫌になる。男性と電話をするだけの行為が、明らかに自分を緊張させていることを自覚する。


 失礼します、というイバラの変わらない声が聞こえて、電話が切れた。


 浩司は電話の内容をぼうっとした頭で振り返りながら、膝の間に挟んでいた紙コップをつかんだ。自分の体温で外側が少し温かくなっている。レモネードを口へ運ぶと、また自分の口がからからに乾いていることに気づいた。


 浩司はスマートフォンでメモ帳を表示させ、〈行:下芦駅に十六時 帰:十時 イバラさん〉と入力した。キーボードを操作しながら、イバラとはどういう字を書くのだろう、と疑問に思う。


 この辺でイバラという苗字は聞いたことがなかった。浩司が今まで出会った人の中にはいなかったし、県内のニュースで目にした記憶もないように思う。もしかしたら、かすみの家は仙台や東京にある観光系、不動産系の会社が管理をしているのかもしれない。


「あ、そうだ、蓮人……」


 蓮人に今の電話について伝えなければ、と気づいて通話履歴から電話番号を探す。まさか宿泊日まで一週間もないとは思わなかった。


 今まで泊まった人たちも、こんなに急な宿泊日を伝えられているのだろうか。それとも浩司たちが無職で、時間が有り余っていることを知っているのだろうか。そんな訳がない、と考えを打ち消し、浩司は画面に表示された蓮人の電話番号をタップした。


 三回目の呼び出し音がしても、蓮人は電話に出なかった。もしかしたら、今日もパチンコかもしれない。この間の蓮人の姿が、浩司の脳裏に浮かぶ。

 パチンコをしたことはなかったが、あそこが騒々しい場所であることは知っていた。蓮人がそこにいれば、浩司の電話に気がつかない可能性がある。


 浩司がそわそわしていると、さらに何度目かの呼び出し音の後、蓮人が電話に出た。

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