第17話

  照れた様子で話す兄の様子を想像すると、自然と浩司の口元に笑みが浮かぶ。こうしていると、自分が精神を患っていることを忘れてしまう。悠一にまたアイディアを思いついたら連絡するということと、名前しか知らない「とらやの羊羹」をおねだりし、浩司は電話を切った。


 通話画面が消えると、メッセージ受信の通知が表示された。十四分前に蓮人からメッセージが届いている。電話中で気がつかなかった。


〈わりい! 用事があって電話出れなかったわ! 浩司すげー運いいじゃん。マジ神。明日の昼過ぎ、どっかで会わない?〉


 蓮人からのメッセージに、兄に送ったのと同じOKスタンプを押し、いつものファストフード店に十三時集合ではどうかと提案する。すぐに既読マークがつき、〈おっけー。じゃあ明日な!〉と返信が帰ってきた。浩司は猫が布団に入っているスタンプを押す。何となく自分のターンで会話を終わらせたかった。


 続けて浩司は、満開の桜の横に工藤和子と表示された欄をタップした。明日の昼食はいらないというメッセージを母に送る。父が家にいる時は、こうして一階にいる和子と連絡を取っていた。


 すぐに自分が使っているのと同じOKスタンプが送られてくる。通販サイトのアカウントを友達登録すると、無料でもらうことができるスタンプだった。少し間を置いて、メッセージを受信した。老眼のせいで入力に時間がかかると言っていたことを思い出す。


〈誰かとお出かけ?〉


 浩司は何と返そうか悩んだ。


 和子は昔から蓮人のことを、あまり良く思っていないようだった。蓮人を家につれてくるのも嫌がったし、外で遊んだ日も帰ってからどこで何をしたか聞かれることが多かった。蓮人は小学生の頃からやんちゃな所があったから、浩司が何かに巻き込まれないか心配していたのだと思う。

 それか――蓮人の家が母子家庭で、母親が水商売をしているということに、偏見を持っているのかもしれない。自分の母親がそうした差別的な見方を持っているとは考えたくなかった。


〈散歩がてら図書館で本読んでくるだけだよ〉


 嘘のメッセージを送る。母が偏見を持っているのかどうかを知らなくて済む返事だった。すぐにグッドサインのスタンプが届く。浩司は適当なスタンプを送ると、スマートフォンを伏せて机に置いた。


 適当に本棚から一冊手に取ると、ベッドに寝転がった。表紙を見ると、木々の立ち並ぶ暗い森を背景に「怖い!日本昔話」とおどろおどろしい、赤い文字で書かれていた。中学生の頃に買ってもらった本だ。


 浩司はベッドで仰向けになり、適当なページを開く。古事記のイザナギとイザナミが黄泉の国で再会する話が載っている。何度も読んだページだ。


 火の神を産んだことで死んでしまった妻・イザナミに会うため、夫であるイザナギが黄泉の国へ行く。妻に見るなと言われたにもかかわらず、イザナギは腐敗し変わり果てた姿のイザナミを見てしまう。そして激怒したイザナミから何とか逃げるという話だ。恐ろしい姿のイザナミが、一ページに大きく描かれていた。


 腐乱した妻が怒り狂って追って来る。想像してみると恐ろしい。しかし、イザナミだって愛する夫にそんな姿を見られたくはなかったはずだ。そう考えると、イザナミがとてもかわいそうで辛くなる。


 ページを開いていると過剰に感情移入してしまいそうで、浩司は本を閉じた。灰色の天井を眺めながら、自分がイザナギだったなら、姿を見ないという妻との約束を守れるのか考えた。そう考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。



 目を覚ますと、時刻は八時半を示していた。大きな欠伸をしながら浩司は上体を起こす。夜中に一度目を覚ましていたが、それでも体調は悪くなかった。『幸せになれる家』からの葉書を受け取ったからだろうか。


 今日は調子が良い日だ。

 眼鏡をかけ、階段を下りるとちょうど和子が出勤するところだった。


「おはよう。今日は調子どう?」


 桜色のカーディガンに手を通しながら、和子が尋ねる。浩司が頭をかきながら、良い感じ、と答えると、和子は嬉しそうな顔をした。


「じゃあ、お母さん行ってくるね。何時頃帰るの?」

「行ってらっしゃい。……夕方までには帰ると思うよ」


 父さんが帰ってくるまでには、という言葉を呑み込んで、出勤する母を見送った。母が作っておいてくれたハムとチーズのホットサンドを食べた後、処方されている薬を三種類、麦茶で流し込む。


 身支度を済ませソファに座っていると、瞬く間に時は過ぎ、気づくと時計は正午を指していた。色々なことを考えていたような気がするのに、何も覚えていない。よくあることだった。通院しているメンタルクリニックで相談すると、うつ病の症状で思考力の低下や記憶障害が起こることがあると説明された。


 リュックに財布や薬を詰め、浩司は家を出た。かすみの家からの葉書は置いていく。万が一、汚したり無くしたりしたら、もう自分は立ち直れないかもしれないと思ったからだ。


「あっつ……」


 太陽が眩しい。夏というにはまだ早い時期だが、外はジリジリと暑い。たまに吹く冷たい風がちょうど良い気温にしてくれた。


 外を歩くと色々なものが目に入る。側溝に嵌めてある格子状の鋼材の蓋はグレーチング。道路の縁石に立っている白い棒に丸い反射板がついているものはデリネーター。働いていた頃に覚えたものが目に飛び込んでくる。


 今考えると、技術系の公務員になったのは失敗だったかもしれない。家から一歩出るだけで、仕事に関係していたものたちが、嫌でも目に入る。そして、目に入ったそれらは浩司の記憶に納められている、灰色の、憂鬱な過去を引き出してしまう。浩司はそれらを視界に入れないように、まっすぐに前を向いた。人が歩くように確保されている空間には、浩司の過去を刺激するものが少なかった。


 約束時間の五分前には、いつものファストフード店に到着した。放課後になると多くの学生でにぎわうが、この時間帯は若者も、昼食を取る社会人の姿もほとんどなかった。通りに面した大きな窓ガラスから店内を覗くが、蓮人の姿は見当たらない。


 着いた、と一言、蓮人にメッセージを送るが既読にはならない。そのまま店の前で三十分ほど待っていると、遠くから蓮人が小走りにやって来るのが見えた。


「わりー。遅くなったわ」


 浩司は思わず顔をしかめた。蓮人から強烈な煙草の匂いがしている。


「……パチンコ?」

「いや、スロット。今日、新台だったから」


 人を待たせておいて悪びれもせず、蓮人はパチンコ店にいたことを話す。浩司は少しむっとしたが、彼もどこかでストレスを発散させたいのだろう、と思うことにした。


「あんまりハマらないようにしなよ。とりあえず入ろう」

「浩司、悪いんだけど奢ってくれない?」


 思わず蓮人の顔を見ると、困ったような、でもどこか薄笑いを浮かべているような顔をしている。こうして奢ってほしいと言われるのは、今回だけではなかった。前の職場を辞めた時に退職金が出なかったと言っていたから、金に余裕がないのだろう。直接、金を貸してほしいと言われたこともある。浩司も大した額の退職金をもらえたわけではなかったから、それは断ったが。


 そんなに金に困っているのであれば、ギャンブルに手を出すべきではない。心の中で呟く。しかし、そのギャンブルが蓮人の精神を支えているのであれば、余計な口出しをしない方がいいと思った。


「奢るのは良いけど……、あんまりパチンコで散財するなよ」


 店内のカウンターでチーズバーガーのセットを注文すると、隣にいた蓮人も同じものでいいと言った。浩司は二人分の代金を支払うと、テーブルに立てるタイプの注文札を持って手近な席に腰を下ろした。


「浩司マジ神。助かるー」


 椅子を引きながら蓮人が言う。

 早く本題に入りたくて、蓮人が座りきる前に浩司は話し始めた。


「例の家のことなんだけど。送った画像は見た?」


 蓮人は、見た見た、と頷く。本当に全て見たのだろうか。

 浩司は昨日蓮人に送った画像をスマートフォンに表示させ、二人の間に置いて説明した。


「住所と食べ物のアレルギー、それから宿泊できない日があれば書くようになってるんだけど、蓮人って安田町から住所変わってないよな。あと、食べれないものは?」


「住所はずっと変わってない。あの、ちっさい家で母親と二人で暮らしてる。アレルギーはないね」


「オッケー。それから宿泊できない日があれば教えて。お前、病院とかどうしてる?」


「え?」


 浩司は顔を上げた。蓮人は何の話か分かっていない顔をしている。


「蓮人、メンタルクリニックとか行ってないの?」


 二ヶ月前に再会した時、うつ病で退職したと告白した浩司に対して、自分も似たようなものだと言っていたと思ったのだが。


「あー、俺そういうとこ行かなかったんだわ。最近はだいぶ、調子も良いし」


 蓮人は少し目を逸らしながら、そう言った。病院や薬などに頼らず、自力で精神の不調を治したという人のブログを見たことがある。もしかしたら蓮人はそういうタイプなのかもしれない。治療の仕方は人それぞれだ。あまり突っ込んで聞く話ではないだろう。


 店員が注文したチーズバーガーセッをト二つ持ってきた。浩司はスマートフォンをテーブルから避ける。


「じゃあ、俺の病院の日だけ記入しておくよ。今日帰ったら書いて、夜には投函するから、もしそれまでに宿泊できない日があったら教えて」


 チーズバーガーにかぶりつく蓮人が右手でOKサインを出す。浩司はスマートフォンのメモ帳に、蓮人の住所が変わっていないことなどを入力すると、熱々のポテトを口に入れた。

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