第16話
浩司が部屋に戻ってしばらくすると、家の横に車が停まった音がした。その後、玄関のドアが開く音がして、おかえりなさい、という母の声だけが聞こえた。
この家の主人である修が帰ってきたのだ。こうなると浩司はよほどのことがない限り、一階には行くことはなくなる。幸い、二階にもトイレがあるため、用を足す際に父と鉢合わせることはなかった。
ベッドに座りながら一階の様子を探っていると、スマートフォンから通知音がした。蓮人からの返事かと思い画面を見ると、兄の悠一からメッセージが来ている。
〈今度出すアプリのテスト版、よければやってみてくんない?〉
メッセージの後にはURLと、お願いのポーズをしたかわいらしいキャラクターのスタンプが押してある。そのスタンプのように、お願い、と言っている悠一の姿を思い浮かべて、浩司は微笑んだ。すぐにOKという文字を持ったキャラクターのスタンプを返す。
父は二人をことあるごとに比べたが、兄弟仲は決して悪くなかった。悠一は父の言葉に反発したし、弟の浩司には優しく接してくれた。
浩司がうつ病で退職したと知った後は、たまに電話をくれては東京の生活を面白おかしく語ってくれる。調子良くなったら俺とゲーム作ろうぜ、と浩司のことを誘ってくれるのが嬉しかった。
浩司が電話やメッセージの確認を抵抗なくできるようになってからは、作っているアプリのテストを依頼してくるようになった。タダ働きではなく、数千円の報酬までもらっている。
人手が足りないから手伝ってほしい、と悠一は言っていた。それは嘘ではないのだろう。しかし、兄が自分に少しずつ自信を取り戻してほしい、という思いでテスト作業を任せてくれていることを浩司は知っていた。兄は昔からそうやって、気を使ってくれる人間だった。
メッセージに載っていたアプリをインストールする。学校を舞台にした間違い探しゲームだった。時間割りごとにステージが設定され、表示された上下二つのイラストで間違い探しをする。クリアすると次の時間に移るというシンプルなものだった。
一時間目、二時間目、と順調にクリアしていく。もしかしたら簡単すぎるのかもしれない。易しいモードと難しいモードを作った方がいいのではないだろうか。悠一に伝えた方が良さそうなことを考えながら、浩司はゲームを進める。
四時間目、給食の時間が終わって、昼休みステージになった。教室から見た校庭が間違い探しの舞台となっている。
イラストを見た瞬間、浩司の中にある思い出が蘇った。
静かな教室、外から聞こえる大勢の楽し気な声。あれは、小学三年生の時だ。
その頃の浩司には、正しいことをして生きたい、という漠然とした夢があった。ヒーローアニメや特撮物の影響だったと思う。公務員を目指すときに感じた、人の役に立ちたいという思いはここから繋がっているのかもしれない。
浩司は困っている人がいれば助けたし、クラスで喧嘩があれば積極的に止めに入った。誰かの悪口を言っている同級生がいれば、アニメで覚えたセリフを使い糾弾した。周りもそんな浩司を持ち上げたから、自分が正義のヒーローか何かだと思い込んでいた。
ある日の昼休み、担任から呼び出された。空き教室に並べられた椅子に座ると、揺れるカーテンの向こうの校庭から楽しそうな声が聞こえてくる。みんな外で遊んでいるのに、自分だけ拘束されるのは不服だった。
呼び出しの理由は、浩司がクラスの女子を泣かせたからだった。その子は本来学校に持ってきてはいけないゲーム機を持ってきていたのだ。それを見つけた浩司は正義を振りかざし、彼女の言い分も聞かずに責めた。泣いてしまった彼女のことを、誰かが担任に伝えたのだろう。
自分は正しいことをしたはずなのに、何故呼び出されなければいけないのか、浩司には分からなかった。
向かいあった担任は、いつもより少し厳しい顔をしてこう言ったはずだ。
「浩司君は由利ちゃんが悪いことをしたと思って怒ってくれたんだよね。でもね、それは違う。先生、由利ちゃんの話を聞いてみたの。由利ちゃんの家には三歳の妹がいるでしょう。あのゲームは、その妹が勝手に入れてしまったものだったの。確かに学校にゲームを持ってくるのはいけない。でも理由も聞かずに、それはいけないって言ってしまうと、今日みたいなことが起こってしまう。それは誰のためにもならないのよ」
頭を金づちで殴られたような衝撃があった。確かにテレビの中のヒーローだって、どうして悪者が悪事を働くのかを聞いている。自分は間違ったことをしていたんだ、正しいことをできていなかったんだ、と知って浩司は泣いてしまった。
その後は小学校でお決まりの「仲直りの場」が設けられ、浩司が泣きながら謝ると渡辺由利はいいよ、と言って許してくれた。本当に許してくれたかは分からなかったが、昼休み一緒に遊ぶこともあったから、おそらく水に流してくれたんだと思う。
彼女の方が大人だった。
浩司はその後、誰かに注意をすることが少なくなった。できなくなったと言ってもいい。悪いことを見かけても、何か理由があるのかもしれないと思ってしまい何も言えなくなってしまったのだ。それが正しいことだと思った。
記憶を長く漂っていた気がしたが、実際にはほんの僅かな時間だった。意識を明瞭にするために、浩司は頭を少し振る。
手に持ったままだったスマートフォンには、悠一の作ったゲームが表示されたままだった。先ほどの過去をまた思い出さないように、昼休みステージで止まっていたゲームをとりあえず最後までクリアしてしまう。一日の終わりのステージは部活の様子だったが、そんなに難しいわけでもなく、全体的に手ごたえがない感じだ。
浩司はトークアプリを開いて、ゲームの感想とアイディアを悠一に送る。もう少し難しいモードが欲しい、良いタイムが出たら隠しステージで夜の学校が出る、など思いついたままに箇条書きにして送信した。
すると、すぐに既読マークがつき、悠一から電話がかかってくる。
「浩司、お疲れ。感想ありがとう。やっぱ簡単すぎる?」
二週間ぶりに聞いた兄の声は、溌剌としていた。声だけで自分の仕事にやりがいを持っている感じが伝わってくる。
「ちょっと簡単かもなあ。小学生ぐらいがやるなら、ちょうどいいのかもしれないけど」
「一周するごとに難しくしていこうって案もあるんだけど、最初から難しいモードを作ってもいいのかもしれないな。あと、隠しステージはいいな。目標タイムも設定してみるか」
「夜の音楽室とかいいかも。お化けとかちょっと怖い感じのも入れて」
悠一との会話は楽しかった。頭の回転が速い悠一は、浩司の考えを引き出すような話し方をしてくれるし、それだけじゃなく幼い頃に二人で遊んでいた時に戻ったような感じがして居心地が良かった。
一通りアプリのアイディアを話した後、調整したものが出来たら浩司が再度テストしてみる、ということに決まった。
「浩司、今すぐとは言わないからさ、本当にうちの会社で働かない?」
話が一段落したところで、急に悠一が言う。以前にも誘われていたが、優秀な兄の足枷になるのが怖くて有耶無耶にしていた。
「うーん。実は今日も午前中、調子悪かったから、まだ社会復帰は遠そうだわ。でも、兄ちゃんがこうして色々やらせてくれてるから、前よりは自信が出てきた感じがする。ありがとう」
そう本心を伝えると、電話の向こうからは悠一の照れたような笑い声が聞こえた。
「兄ちゃんって昔から、こうやって俺のこと気にかけてくれるよな」
「そりゃあ、兄貴だからな。それに……浩司には父さんのことで色々迷惑かけてると思うし」
「迷惑?」
兄の言葉に疑問が浮かぶ。父のことで迷惑をかけているとはどういうことだろう。
「うーん、こういうこと言うと嫌な奴っぽいんだけど、俺って昔から割と要領良いタイプじゃん。割と勉強するのも好きだったから、テストの点数だけは良かったし。俺は好きでやってるだけなのに、父さんは何かにつけて浩司と比べたりして。……だから、まあ、浩司が責められるのは、俺のせいかなあって思ってた時代もあったわけよ」
兄がこうして自分の想いを語ることは珍しいことだった。浩司は沈黙して、次の言葉を待つ。
「だから、罪滅ぼしじゃないけど、少しでも浩司が生きやすいような環境が作れればいいなって思って。浩司、昔からゲームとか漫画だけじゃなく、本もよく読んでだから色んなアイディア出そうだし。あとは、母さんな。母さんにも迷惑かけたからなー。今度、東京の旨いもん送るから食べてよ。何がいいかなー」
悠一は途中で恥ずかしくなってしまったらしく、話題を無理やり変えた。
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