第14話
自分を落ち着かせるように、浩司は何度も深呼吸を繰り返した。こんな気持ちを感じるのは久しぶりだった。家に戻る足取りはいつもよりだいぶ軽い。
浩司は一旦全ての郵便物をダイニングテーブルの上に置いてから、空になったプレートを洗い、水切りかごに立てた。入念に手を拭いて、先ほどの往復はがきを手に取る。
宛名には浩司の名前が記されている。達筆だが読みやすい、品の良い老女を想像させる字だった。葉書の中を開くと文章ばかりがぎっしりと印刷されている。
葉書の上部にはこう記されていた。
〈この度はかすみの家の宿泊にご応募いただきありがとうございます。抽選の結果、お客様が当選されましたので、ご連絡を差し上げました。〉
その下には宿泊に関連する説明文が続いている。
自分は本当に『泊まるだけで幸せになれる家』に宿泊する、つまり幸せになる権利を得たのだ。文面を読み進めると、その実感が湧いてくる。いつの間にか、浩司は口元に笑みを浮かべていた。人生のどん底にいる自分を救ってくれるものが現れたのだ。
浩司は嬉しそうな顔で葉書の文字を追っていたが、注意事項と書かれている場所で視線が止まる。
〈注意事項:かすみの家があるということはお話くださっても構いませんが、住所や内装、過ごした様子については他言無用でお願いいたします。また、写真を撮ることもおやめください。返信面に必要事項を記入し、この葉書を御返信した時点でこの約束に同意したこととみなします。〉
家の存在自体は話しても良いのに、住所や家の中のことを口外してはいけないというのが不思議だった。口コミで家のことはある程度広めたいが、場所を特定されるのは避けたいということだろうか。確かに抽選から外れた人が、勝手に『かすみの家』に行ってしまうことは考えられる。
しかし、中で起こったことを話してはいけない、という理由は思いつかなかった。もしかしたらサプライズで何か企画されているのかもしれない。
浩司は大きな欠伸をした。食事前に飲んだ薬の副作用の眠気が、脳内の処理を邪魔し始めた。二度目の欠伸をしながら、浩司は霞がかってきた頭で葉書の次の面を確認する。
ぼやけかけていた意識が一瞬にして鮮明になった。
「県内じゃないか……」
驚きのあまり、思わず一人で呟いてしまう。
先ほど郵便受けで見た時には目に入らなかったが、返信面に印刷されている住所は浩司が住む県内のものだった。M市には行ったことはないが、当然名前は知っている。大きな湾に面していて、海産物が有名なイメージがあった。
まさかこんな身近に、自分を幸せにしてくれる場所があったとは。灯台下暗し、という言葉が脳裏に浮かぶ。
その面を裏返すと宿泊者の氏名や電話番号などを記入する欄があった。宿泊したい日ではなく、宿泊できない日を書く欄があるのが目に入る。どうやらかすみの家側で宿泊日を決めるシステムになっているようだった。理由を考えようとするが、頭が働かない。柔らかな眠気が浩司を襲った。
考えても仕方ない、と浩司はポケットからスマートフォンを取り出し、葉書の写真を撮った。浩司の名前が書かれている面、その裏の宿泊案内と注意事項の文面。一度手が止まる。少し考えてから、かすみの家の住所が書かれた面は飛ばした。
情報流出がすぐに起こってしまう世の中だ。浩司がスマートフォンをどこかに落としたり、ハッキングにでも遭ったりすれば、その住所は世の中に出回ってしまうことになる。
浩司は最後に氏名などを記入する面を撮影し、写真を確認し、トークアプリを開いた。一番上にピースをした茶髪の男の写真が丸く表示されており、蓮人、と文字が並んでいた。その部分をタップし、今撮った三枚の写真を送信する。
〈あの幸せになれる家、当選したぞ!〉
続けて、そうメッセージを送った。
彼がこのメッセージを見たら電話をかけてくるだろう。そう思い、浩司はぼんやりした頭を少しでもすっきりさせるために風呂場へ向かった。
浩司が小中学校の同級生である
横になるばかりの生活を半年も続けた結果、浩司の筋力はだいぶ衰えてしまっていた。その前からまともに食事を取っていなかったのも原因かもしれない。浩司の身長は一七〇センチあったが、体重は五十五キロを下回っていた。
昼食を取った後、気分が落ち込んでいない日には散歩をするようになったのは、四月も終わりに差し掛かろうという時だった。少しずつでも身体を戻していかなければいけないという焦りがあった。
体力がないとゆっくりと歩く短い距離の散歩でさえ辛い。すぐに息が上がってしまうのだ。その日も息を整えるため、川沿いのベンチで休んでいた。浩司の住む市は本州の北部に位置しているため、桜の開花は四月の下旬頃となる。
ベンチに座っていた浩司は、ただぼんやりと川沿いに咲くピンクの花を見つめていた。ぺたり、と風に舞った花弁が眼鏡に張り付き、小さく驚いた時だった。
「浩司?」
眼鏡に桜の花びらをつけ、口を半開きにしたままの浩司に声をかけてきたのが蓮人だった。初めは誰だか分からなかったが、よく見ると中学生の頃からさほど変わっていない顔に気づいた。当然だが背はあの頃より随分と高くなっていたし、髪も茶色に染めていたため、すぐには判別できなかったのだ。
「……お、蓮人かあ。久しぶりだなあ」
普段あまり会話をしていなかったせいで上手く言葉が出てこなかったが、何とか旧友に返事をすることができた。人間違いではなかったという確証が得られた蓮人は、眼鏡についた花弁を取る浩司の隣に座り、笑顔で話しかけてきた。
「すげー懐かしいじゃん、こっち帰ってきたの?」
一瞬答えに窮したが、昔よく遊んだ同級生なら本当のことを言っても構わないだろうと考え、口を開く。
「いや、実はさ、鬱になって仕事辞めてきたんだわー」
深刻な雰囲気にならないように、あえて語尾を伸ばす。旧友がどんな顔をしているのか見たくなくて、自分の足元に視線を移した。いきなり重い話をしたから引かれてしまっただろうか。
蓮人は、あー、と小さな声で言った後、
「俺もまあ、似たような感じ」
と言葉を濁した。
思わず蓮人の顔を見ると、少し困ったような顔をしていた。何年も会っていない旧友が、自分と同じような経験をしているとは思わなかった。その日から浩司は時折蓮人と会うと、ぶらぶらと一緒に街を歩いてはファストフード店などで昔話に花を咲かせた。
ある日、いつものようにファストフード店でくだらない話をしていたところ、蓮人が『幸せになれる家』の噂を浩司に披露したのだった。噂は偶然、電車に居合わせた女子大生が話していたのだという。
当然どちらもその話を信じてなどいなかったが、無職二人が集まって楽しめるものも多くはないため、とりあえずその情報を調べてみようということになったのだった。しばらく単語を変えながら検索したものの、手掛かりになるような情報は得られなかった。蓮人は早々に諦めて、しなしなになったポテトを口に運んでいた。
浩司は目の前に座る蓮人を見て、先ほど彼が女子大生がしていた噂話だと言っていたことを思い出す。はっとひらめいた。
「もしかしたら、誰か写真を載せてるかも」
若い女性が宿泊していれば、その様子や身の回りの変化をSNSに写真付きで投稿している可能性が高いと考えた。残念ながらその読みは外れてしまい、浩司のやっているSNSで検索しても宿泊したという投稿は見つからなかった。しかし、二人の目はある投稿に釘づけられていた。
〈泊まると幸せになれる家。抽選のご応募は以下のURLから〉
予期せず浩司たちは『幸せになる家』に直接つながる投稿にたどりついたのだった。投稿にあったリンクをタップすると、『かすみの家』と掲げられたホームページが表示された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます