こんなこと書いてる場合じゃない

十洲海良

流し目と年上の男

 小2の冬。たしか体育の時間だったように記憶している。

 担任教師(男性)が私に言った。

「男に向かって流し目をするもんじゃない」

 その時の私は、流し目という単語の意味を知らなかった。何を言われているのか判らず、帰ってから親に訊ねた。

 鶴田一郎のファンだった母は、自室に飾ってあるレプリカを指して”これが流し目”と云った。

 何だかよく判らなかったが、流し目は子供がするものではない。

 それだけは理解した。


 その後中学に上がって入れあげたのは、ひとまわり年嵩の英語教師だった。

 教室の片隅で文庫ばかりに目を落としていたせいで、同い年の男の子には皆目気がつかないまま卒業し、思い出にもならない学生時代を経て社会人になる。

 外に出てひらけた視界をぐるりと見回してみれば、今度は三十路の男たちがわんさかいた。

 子どもっぽい話題とがっついた態度の同期とは大違いなのである。

 当たり前だが何でも知っている(ように見える)。

 ボリス・ヴィアンの話が出来る。

 谷崎の良さを互いに味わえる。

 訊けばクラシックもジャズも、現代美術の面白さも出てくるのである。

 そうしてやはり私が惚れこむのはいつも、年上の男だった。



 話は大昔に戻る。

 私の父というひとは、ある六月の夜に家族を捨てた。

 永い付き合いになっていたよその女のもとへ走ったのである。

 その夜の光景を、私はよく覚えている。生家の玄関、父と母の諍いの声、就寝の時間を過ぎているのに私はワンピースを着ていた。

 チェック柄で、丸襟のついたそれは袖がバルーンのように膨らんで、レースがついていた。当時もっとも気に入っていた”よそいきの服”だった気がする。

 居間では両親の諍いの声に続けて、ガラスの割れるような音がした。怯える私を抱き締めるのは、いつも姉の役目だった。

 そうして、父は家を出ていった。


 それから二度ほど父に会ったことがある。そのどちらも半時間ほどのことにすぎず、会話はなかった。細面で涼しげな眼鏡姿の男は気まずそうに私を眺め、不意に視線は逸らされた。

 それから二十年以上が経った。

 逢瀬の終わり、去ってゆく恋人を眺めるとき、私はいつもそこに父の姿を見ていたのだろうか。

 さびしいような、かなしいような、せつないような。

 後ろ姿を見るたびに、私の心はあの六月に戻ってしまう。


 病のように、年上の眼鏡をかけた男に惚れてしまう。その理由が分かった頃、私は小説を書き始めた。

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