時雨心地
ᴛᴏᴋɪ☔︎
Charcoal
『帰りたい』
一言そう打ち込んで、ツイッターの投稿ボタンを押す寸前だった。
「なあー、シュン」
間延びした声が立ち昇る煙の向こうから投げられ、俺は手を止めた。視線を向けると、コウヘイは恨めしげとも虚ろともつかない目でこちらを見ていた。
「聞いてんのかよお」
「聞いてる聞いてる」
俺はそう言ってグラスに残った氷を一つ口に入れ、ボリボリと噛み砕いた。
「だからさあ、結局あいつは俺のこと、都合の良い男としか思ってないわけ」
茹で
だらんと情けなく
「彼女にも、何か事情があったかもしれないだろ? お互い冷静になってから、もう一回ちゃんと話し合ってみろよ」
露骨に他人事なアドバイス。もうちょっと関心のある風を装えないもんかね。俺は心の中で突っ込みをいれた。だけどコウヘイが
コウヘイの彼女のことは、あまりよく知らなかった。容姿も性格も、名前すらはっきりと聞いたことはない。何故ならコウヘイも、彼女の話をするときは「あいつ」とか「彼女が」としか言わないし、俺も詮索はしないから。
一体どんな子なのか、気にならないと言えば嘘だ。コウヘイが選んだ相手。なのに他の男に浮気して、こんなにもコウヘイを落ち込ませることができる女の子。俺がどれだけ望んでも手に入らないものを全て持っているはずなのに、それを飾りのように扱って大事に出来ない、可哀想な人。
——俺だったら。
虚しい仮定が頭を
「ごめん」
心底驚いたように目を見開いて固まったコウヘイが、ぽろっと溢すように言った。予想も覚悟もしていたはずなのに、心臓はそれなりに、キリリと痛んだ。
「分かってる」
俺は作った笑顔で、コウヘイの手を取って握手をした。
「ありがと」口にしたのは、どちらが先だっただろうか。
手を離した俺は、コウヘイに背中を向けて歩き出した。
あれは決別の儀式のつもりだった。
なのに今、こうして同じ道を歩いているのは、幸か不幸か。俺には分からない。レジで貰ったミント味のガムを口に入れた時、数メートル後ろをとぼとぼ歩いていたコウヘイが、不意に俺を呼んだ。
「シュン」
立ち止まり振り向くと、コウヘイは思い詰めた様な顔でこちらを見ていた。二人の距離が少し縮んだところで、コウヘイも足を止める。
「なに」
「……あのさあ」
後頭をポリポリと掻きながらアスファルトに視線を泳がせたコウヘイは、やがて意を決したように前を向いた。
「ちゅう、してみる?」
「……は?」
なんの気まぐれだろうか。刹那、胸の奥がすっと冷える心地がした。
反応を窺っているコウヘイから顔を逸らし、俺は歩いた。「お、おい」慌てた様子で後をつけてくるコウヘイに構わず、ただ歩いた。
冷たい夜風が、上気した頬を刺す。世界は相変わらず俺に優しくない。もう何度も思い知らされたことを、改めて実感する。
言葉を交わさないまま五分ほど歩くと、瞬間的に熱く
ふう、と吐いた溜息が沈黙を破ると、コウヘイが見計った様に口を開いた。
「怒ってる?」
顔を向けると、視線がぶつかった。
「別に、怒ってない」
「本当か?」信じ難いのか、
「ほんと。お前がいきなり変なこと言うから、動揺しただけ」
「……ごめん。さっきのは無神経だったよな。悪かった」コウヘイはぼそりと言った。
また、ごめん、か。
俺はブランコを揺らして、夜空を見上げた。厚い雲に覆われて、星は一つも見えなかった。
俺、コウヘイに謝らせてばっかりだなあ。ふと思う。いっそ怒ったふりをして距離を置くのが、お互いにとっていいのかもしれないな。そんなことを考えて、俺は自嘲気味に笑った。
「ほんとだよ。あんだけ焼肉食った後でキスとか、勘弁勘弁」
ふざけた調子で言うと、コウヘイは「そこ?」と言いたげな顔をガバッと上げた。俺は隣から感じる視線を
「……そうだよな。忘れてた」へへ、コウヘイが乾いた笑いを溢した。
「そうそう。よっと」
俺はブランコから勢いよく飛び降りた。足の裏に感じたじんとした痛みには気付かないふりをして、コウヘイの方を向き直る。
「彼女と、話し合うんだろ。振られたら、そん時はまあ、キス、考えてやらんこともないから、とりあえず頑張ってこい」
何故だか偉そうなその言葉に、コウヘイは少し呆気に取られた後、感情の読めない複雑な顔をして笑った。
「うん」
「帰るぞ」
俺はまた、コウヘイの数メートル先を歩いた。歩きながら、もう一度空を見上げる。消炭色の空が、俺の心模様を写し取ったみたいで、少し悲しくて、それでも綺麗だなと思った。そして雲間にようやく一つ見つけた星に、願った。
もう少しだけ、コウヘイにとっての都合の良い男でいさせてくれ、と。
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