5. 過去

「……どうぞ、上がってください」


 住宅街を抜けた先、道路沿いにてコンビニエンスストアと整骨院に並んだ場所に建てられたアパート。その二階の一番奥にある部屋に、僕は招かれた。詳しい事情を話す、という彼女の言葉に釣られて。


 内装はシンプルなものだった。手前にあるセミオープンのキッチン。その奥に、スタンドライトとローテーブルが一つずつ置かれたリビング。他にも廊下に扉が二、三個存在していた。


 不思議なことに、彼女は一人暮らしだった。両親はどこにいるのか、という質問に「いない」とだけ答えられたのと、部屋全体を見ても彼女以外が住んでいる痕跡が全く感じられなかった。生計とか、学校とかどうしているのか気になったが、そんなことはどうでも良かった。今は、第一に訊くべきことがあるのだから。


「……どうぞ」


 リビングのテーブルに案内された僕は、少女から麦茶の入ったグラスを受け取る。呼吸をおいて一口飲んだ。先程の殺気や切迫感を受けて乾き切った身体に染み渡った。


「その……すみませんでした」


 グラスを置いて、僕は前に座った少女に頭を下げた。


「君は忠告してくれただけなのに、躍起になって責め立てて。何も知らないのは僕の方だった。うみの元飼い主だったなんて知らずに、偉そうなことを……」


「そんな、いいんです。頭を上げてください。最初から詳しく説明しなかったわたしにも非がありますし」


 そんなことはない。だってそれは、僕が混乱しないための気遣いだったわけだし。それも知らずに僕は……本当に面目ない。


「それに……」


 そう言いかけて、彼女は目を逸らした。


「……アッシュがあんな風になったのは、全部わたしの責任なんです。わたしがあの日わがままを言ったせいで、あの子は人食い猫になったんです。だから、あなたは何も悪くありません」


 震える声で、彼女は続けた。まるで辛い過去を噛みしめ、悟られぬよう隠すかのような暗い表情。僕が思っている以上に、黒く大きな後悔の塊が潜んでいることを、心のどこかで察してしまった。


 ……そういえば、一昨日言っていたっけ。わたしにはもう何もできない、って。


「……あのさ」


 恐る恐る、僕は少女に問うた。


「もし良かったら、話してくれないかな。君とうみ……じゃなかった、アッシュとの間に、何があったのかを」


 俯いたまま、少女は小さく頷いた。

 そして、しばしの間を開けて、ゆっくりと語り始めた。





「わたしは三年前まで、両親と三人で田舎に住んでいました。可もなく不可もない、平凡だけど幸せな日々を送っていたと思います。


「そんなある日の出来事でした。わたしの家に、一匹の猫がやってきたんです。後に母が調べた限りでは、スコティッシュフォールドという品種の猫のようで、怪我をしていたのか前脚が赤く染まっていました。……はい、その子こそ後のシャパリュです。あなたはうみ、と名付けていましたよね。


「家族内での相談のもと、育て主が見つかるまで家で飼ってあげることにしました。アッシュと名前を付けたのもちょうどその頃でした。毛が灰色だからっていう適当な理由でしたが、本人は喜んでいる風に見えて、嬉しく感じたのを覚えています。


「それからしばらく、アッシュとの日々が続きました。大体二年近く、一緒にいたと思います。凄くマイペースで、いたずら好きで、振り回されることも多々ありましたが、どれもいい思い出でした。楽しかったです。


「……ですが、今からちょうど三年前。事態は急変しました。


「ある日の夜、わたしの家に、一人の老人がやって来たんです。白髪で、白衣を身に纏っていて、丸い縁の眼鏡をかけた、しわの多いおじさんでした。話を聞く限りだと、彼は生物学を専門としている研究員だそうでした。


「その人の言い分はこうでした。二年前に、私が研究していた『シャパリュ』という猫型の生物が脱出してしまい、捜索を続けている。非常に獰猛な性格をしていることから、一刻も早い確保が必要で、現在聞き込み調査を行っている。何か知っている情報はないか……と、そんな感じだったと思います。


「何だか怪しげな人でしたし、アッシュは獰猛さとはかけ離れた性格だったので、わたしたちは『知らない』と答えました。そうして、博士が一礼して帰ろうとしたタイミングに、アッシュがわたしの足元にやってきたのです。その瞬間、博士の目の色が一瞬にして凶変しました。


「博士は叫びました。『シャパリュだ! やはりこの地域にいたか!』と。彼は急に玄関に上がってアッシュを捕まえようとしますが、持ち前の瞬発力で回避し、怖がって逃げてしまいました。


「わたしは心配になって、後を追いました。その後ろで、父と博士が揉めていました。何と言っていたか正確には覚えていませんが、『勝手に人の家に上がり込んで何するんですか!』とか『あの猫は危険なのだ! 早く捉えねば取り返しのつかないことになるぞ!』とか、そんな感じのことを言い合っていたと思います。わたしはしばらくアッシュを探して、最終的に庭にある小屋の中で丸くなっているところを発見しました。


「わたしは声をかけました。『大丈夫だよ? 怖くないよ』と。しかし、いつもならここですり寄ってくるはずのアッシュが、今日は怯えたまま動きませんでした。むしろ、歩み寄るわたしまで怖がっているように感じました。


「それでもわたしはアッシュに近づきました。今思うと、少しムキになっていました。いつもわたしにベッタリだったアッシュに、嫌われちゃったように思ったからでしょう。さっきまで手前で声をかけるだけだったのに、遂には小屋の中へと身を乗り出すまでになりました。……それが、事の発端だったんだと思います。


「その時、アッシュが今まで聞いたことのないような声で唸り始め、全身からメキメキと奇妙な音を鳴らし始めたんです。何が起きたの、と思いつつもだんだんと怖くなってきて、思わず小屋から飛び出しました。


「その先で見た光景は、悪夢のようでした。腕に収まる程度だったアッシュの身体がみるみるうちに巨大化し、小屋を突き破って、象ほどの大きさになったのです。外見もいつもの面影がなくて、目は爛々と光っていて、爪は鉈のように鋭く、氷柱のような歯はわたしを食べることを心待ちにしているかのようでした。


「恐怖のあまり、わたしは悲鳴を上げながら逃げました。どうしたのか、と不思議そうに歩み寄る両親でしたが、すぐに事態の恐ろしさを察し、顔を青くしました。博士は叫びます。『ほら、言った通りじゃ! こうなってしまえば落ち着くまでどうしようもない。早く逃げるのだ!』と。


「わたしたち四人は必死に逃げました。しかし、その道中で巨大化したアッシュに追いつかれてしまい、手を繋いでいた母の背中を爪で引っ掻きました。


「わたしは、その拍子に母と一緒に転倒してしまいました。アッシュの前脚が迫り来るのを見て覚悟を決めましたが、頭上で何かが飛んで行って、アッシュに命中するところを目撃しました。その途端、アッシュの身体が痙攣し始めたのです。振り返ると、そこには銃らしきものを持った博士の姿がありました。彼いわく、巨大生物用の麻酔銃でちょうどあと一発だけ残っていたそうでした。しかし、この足止めも長くは保たないと付け加えました。


「わたしはすぐに母の様子を見ましたが、背中の傷は非常に深く、背骨が露出してしまうほどでした。まだ生きていましたが、既に虫の息で、もう長く生きられないことをすぐに察しました。


「母は言いました。『遠くへ逃げて。そして私の分まで生きて』と。母が死ぬことが信じられず、ショックのあまり涙すら出ませんでした。『早く逃げるぞ!』と博士が叫び、悔しそうな表情で父がわたしの手を引きました。


「村の道には車が何台か止められており、白衣を着た若い人たちに『早く逃げろ!』と博士が指示していました。わたしと父も、博士の車に乗って逃げることになりました。


「しかし、車に乗り込んだ途端、背後から耳が痛くなるほど鳴き声が聞こえてきました。振り向くと、そこにはアッシュが既に追いついてきており、車を白衣の人諸共、吹き飛ばしてしまいました。車に乗っていない人たちに関しては、切り裂かれたり、喰われたりする有様。まさに地獄絵図でした。


「このままだと車を発進させても追いつかれてしまう。そう焦っていると、突然、父がわたしを抱きしめてきました。そして、博士に向かって言いました。『どうか娘を宜しくお願いします』と。言ってることを理解できないうちに、父の手は解かれ、ドアの閉まる音が耳の奥で寂しげに響き渡りました。そこから間もないうちに、車が発進しました。


「父が足止めしようとしている。やっとそう理解したわたしは、大声で叫びました。『車を止めてください! 父のところまで戻って!』と。しかし、返ってくるのは怒号だけでした。ショックのあまり、その内容は覚えていません。ただ、その後しばらく車内で泣き続けたのは覚えています。


「それから、アッシュが追ってくることはありませんでした。これから一生あの子と会うことはないんだろうと、この時うっすらとそう思っていました。






「……以上が、わたしとアッシュの間にあった出来事です」


 淡々と、だけど苦痛に耐えるかのように話し続けられた少女の過去が、その一言で締めくくられる。


 追体験するかのように彼女の話に耳を傾けていた僕は、衝撃のあまり、しばらく何も言葉を発せなかった。


 知らなかった。彼女がここまで辛い過去を歩んできただなんて。


 そう改めて実感するのと同時に、腹の底から吐き気と己に対する悔やみが押し寄せてくる。前者は寸でのところで耐えられたが、後者に関しては……そう上手くいかなかった。


 次いで、脳裏に浮かんできたのは、さっき少女にぶつけた暴言だった。


 ──勝手なことを、言わないでくれるかな。


 ……何が、何が勝手なことだ。


 ──君に何がわかるというんだ。でたらめなことを言うのも、大概にしてくれないか。


 ……でたらめなことを言っていたのは、この僕だ。


 何も知らないくせに身勝手なことを言いやがって。彼女が、どれほど苦しい想いをしていたのかを微塵も知ろうとしなかったくせに。


 本当に……なんて酷く、身勝手なことを口走ってしまったんだろう。


「……本当に、ごめん」


「……忠告した時の件、ですよね? 気にしていない、と言ったら嘘になりますけど、もう慣れましたから。大丈夫です」


 そう言って、少女は微かに微笑んだ。

 心配させまいと作ったような、寂しげな笑顔だった。


「そういえば、いつからこの町に?」


「つい最近のことです」


 少女は、部屋を見渡しながら続ける。


「あれから、生活のサポートを受ける代わりとして、博士のもとで助手として働いていて、アッシュもといシャパリュの動向を追っていたんです。この町に来たのは、目撃情報を受けての博士からの指示によるものです。このアパートも、博士が借りてくださいました」


「そっか。その博士には大事にされているんだね」


「はい。最初は心配でしたが、不器用ながらもわたしをここまで育ててくれました。心の底から感謝しています。ちょっと人使いが荒いこともありますけど」


 そう言って、ふふっと笑った。この時、初めて心からの笑顔が見られたと、心のどこかで安堵した。


 さて、僕にとってはこれが本題だ。

 麦茶を一口飲んで、僕は真っ直ぐに彼女の目を見た。


「……それで、これからどうすればいいのかな」


 すると少女も同様に麦茶を飲み、一呼吸置いてから答えた。


「あなたには、しばらくここに隠れていてもらいます。もとのお家も、壊されていますし」


「か、隠れる?」


「シャパリュは未だに謎の深い生物です。そのため、狙った獲物は逃さない性質を持っている可能性も十分にあり得ます。ですので、事態がある程度収束するまで、念の為、あなたにはここで身を潜めていてほしいのです」


「そ、そっか……」


 口ではそう答えたものの、胸には後味の悪いものが残っていた。


 確かに、僕みたいな無力な一般人が無理に関わったら、返って彼女らに迷惑をかけてしまう。どんな方法でうみを捕らえるのかは想像もつかないけど、あんな化け物を相手にするんだ、他の殺人事件や猛獣捕獲とかとは次元が違うのは明白だ。


 だから、我儘を言うわけにはいかない。


 彼女の指示通り、事の収束までこの家に隠れるしかない。


 分かっている。だけど……。

 胸の奥底で、その指示を認められない自分がいた。


「というわけで、合図があるまではこの家にいてください。家のものは自由に使っていただいてかまいません。食料などの必需品は研究所の方が届けてくれると思うので、何か要望があればそちらに……って、どうしましたか?」


 僕の顔色を窺ってか、少女は説明を中断し、首を傾げた。


 心配かけまいと思い、「何でもない」と首を振ろうとした。だけど、その意志を頑固な自分が制止してしまった。


 無謀だと分かっていた。なのに、諦めきれなかった。


 きっと足手まといになるだけだ。だけど、この子が頑張る中で、のうのうと隠れているわけにもいかない。


「あのさ」


 思いの丈を伝えるべく、僕は小さく息を吐いた。


「僕にも、うみを捕らえる手助けをさせてもらえないかな」


 少女は、目を丸くした。


 少しばかりの沈黙が流れて、やがて言いたいことをまとめようと口をぱくぱくさせてから、顔色を変えて言った。


「な、何を言っているんですか。この作戦は生半可なものではないんです。下手に一般人を巻き込むことはできません」


 きっぱりと、少し怒るように彼女は断言する。ああ、予想通りの反応だ。


 だけど、こっちにも譲れないものがある。我ながら身勝手で、おこがましいけれど。


「分かってる。僕が行っても足手まといになるだけなのは。だけど、うみの暴走の引き金を引いたのは僕だ。その分、きちんとケジメをつけたいんだ」


 それでも少女は首を振る。


「……お気持ちはわかります。現にわたしも同様の感情を抱いていました。ですが、それでもあなたの同行を許すわけにはいきません。これ以上、被害者を出すわけにはいかないんです。どうかご理解ください」


「頼む。一生のお願いだ。ここで家に隠れる選択をしたら絶対に後悔すると思うんだ。それに……君と比べたら年月は短いけど、うみは大切な家族なんだ」


 少女の表情が、変わった気がした。


「家族が危険な状態になっているなら、家族が助けるべきだと思うんだ。だからお願いだ。僕を連れて行ってくれ」


 精一杯の想いを込めて、僕は深く頭を下げる。またお互いの間に沈黙が流れる。

 その沈黙を割いたのは、少女の戸惑い気味の声だった。


「……それでも、認められません」


 覚悟はしていた。けれども、苦しい返答だった。


「わたしが、というより博士が認めてくれません。わたしにあるのは、あくまでシャパリュと対峙できる権利だけ。わたし個人の判断であなたの要求に応えるわけにはいきません」


 ですので、と彼女は付け加える。


「博士に直接会って、交渉してみてはいかがでしょうか。参加自体は難しくとも、本部からの見学ぐらいは許可されると思います。それに、あなたにはもっと知るべきことがあると思うので」


「……え? 会わせてくれるの?」


「博士は反対しそうですけどね。ですが、念のため研究員の方に連絡してみます。幸い、今のタイミングならシャパリュは追ってはきませんし」


 どうして、そんなことがわかるんだろう。


 疑問に思いつつも、希望が胸の奥底から湧いてくる。せっかく得られた機会だ。ここで下手な真似をして無駄にするわけにはいかない。


「……わたしとしては、あなたを受け入れたいです」


 心の内を打ち明けるように、少女は言った。


「さっきも言ったように、わたしもあなたの気持ちが痛いほどわかります。あなたと同じように、うみの……アッシュの家族ですから。ですが、やはり人命の関わる計画なので、生半可な気持ちで歓迎できないんです。許してください」


 そう言って、彼女はまた俯く。


 勿論、簡単に受け入れてもらえないであろうことは重々承知しているつもりだ。けど、そんな中で彼女は、脆弱な部外者に寛容な対応を取ってくれた。自分自身の落とし前をつけるための機会を与えてくれたことに、感謝せねばならないし、その意志を行動で示さなければ。自分に言い聞かせるのと共に、改めて決意を固めた。


 空気を改めるように、少女は真っすぐと僕の目を見て、口を開いた。


「では、博士と連絡が付くまではここで待機していてください。わたしはその間、シャパリュの動向を調査してきます」


「わかった…………あ、そうだ」


 ふと思い出したことを、恐る恐る僕は問うた。


「……自宅に貴重品とかを取りに行きたいんだけど、いいかな?」


 すると、呆れたような溜息が返ってくる。まあ、想定していた通りの反応だ。


「……自分の置かれている立場を理解していますか? その発言、災害の時に物を取りに戻るのと同じようなものですよ? もうちょっと危機感を持ってくださいよ」


「ご、ごめん……」


 彼女の言う通りだ。こっちも駄目もとで頼んだようなものだけど、返す言葉もない。


「まあ、ですが……」


 すると、彼女は懐からスマホを取り出し、何かを確認し始めた。そして、頷いたかと思うと、険しい表情を解いてスマホをしまった。


「……今は、シャパリュの反応が周囲で確認されないので、特別に許可しましょう。但し、研究員二名の同行の上です。それでも宜しいですか?」


「え? あ、ああ。勿論だよ」


「では、行く時になったら、下で研究員と合流してください。事情はわたしの方から説明しておきます」


「ああ、分かった。何から何までありがとう」


 となると、一刻も早く出発しなければ。僕は残りの麦茶を飲み干し、立ち上がる。そして足元に置いておいたコートと鞄を抱えて、玄関へと向かおうとする。


「あ、そうそう。名乗り忘れていたね」


 僕は途中で立ち止まり、後ろを振り向く。少女が首を傾げる姿が目に映る。


「僕の名前は朝井武弘。これから色々と宜しくね」


 そう言うと、少女は納得したように頷き、口を開いた。


「わたしは真理。月城真理って言います。これからよろしくお願いします、武弘さん」


 そう言って彼女は、真理ちゃんは微笑んだ。数年ぶりに呼ばれた下の名前の感触は、どこかむず痒さを感じるのだった。

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