第8話絶望を始めますか?

 ――ショッピングモール一階。


 薄暗い視界の中、袈刃音は無警戒に歩いていた。

 武器であるバールは紛失し、ゾンビに襲われれば一巻の終わりだろうに、しかし袈刃音は怯えた様子もなく歩みを進める。

 目の前に、ゾンビが三体立っていた。


 袈刃音がそこを通ろうとすると、


 警戒なんてする必要はなかった。

 決まっている、藍刃愛羅は愛する袈刃音を攻撃できない。

 従って、ゾンビ達も袈刃音には手出しできない。


 わざわざ彼の方からやって来ているのだから、尚更だろう。


「さっきは吹き飛ばしてごめん…。怪我とかない、藍刃さん?」


 立ち止まり、袈刃音は視線の先でたたずむ藍刃愛羅に向かってそう語り掛けた。


「うん、大丈夫だよ袈刃音君。…えっと、あの……」


「?そうだ、藍刃さんに伝えたい事があったんだ」


「……え?」


「藍刃さん、いや愛羅」


 直後、袈刃音は彼女に近付き――抱き締めた。

 突然の事に戸惑う愛羅に対し、袈刃音は吐息を吐きかけるように、彼女の耳元でこう囁いた。


「好きだ」


 簡潔でいて、毒薬のように激しい意味を持つ言葉を囁いたのだ。


「あんなに思ってくれてるだなんて、俺、思わなかった。初めてだ…こんな気持ち……」


「そ、そんな…私、てっきり嫌われちゃったと思って…ッ」


「気持ちの整理が付かなかったんだ。それで混乱してさ。…でも、後で気付いたんだ。――君が好きなんだって」


「――ッ!」


 その短い台詞を聞くだけで、愛羅の頬は赤く染め上がり、胸の鼓動は急激に早まる。思考は上手く機能せず、心が、体が、多幸感に満たされる。


「旭は置いて来た。これからは、君だけを見てるから、君だけを好きでいるから。…それと、愛羅」


「は、はい…ッ」


「ゾンビをどうにかしてくれないか。…ゾンビになった両親を殺した日以来、あいつ等が動いてるの見るとその日の事を思い出すから。頼めるか?」


「わ、分かったよ袈刃音君」


 そう言うと、途端、ゾンビ達は糸が切れたようにその場に倒れた。


「死んだのか?」


「ううん、もともと死んでたんだよぉ。それを操ってただけだから、能力の効果が切れたら動かなくなる。…これで、大丈夫かな?」


「いいや」


「え?」


「これからは、俺が君を守る。……だから、サバイバルナイフなんて君には必要ない」

 太股のナイフホルダーから、サバイバルナイフを袈刃音は抜き取りながら言った。

 愛羅を放し、見つめる


「……袈刃音君が…っ。私、幸せだよぉ」


 恍惚とした表情と声の愛羅に、彼女の愛は本物なのだと感じた。


「…愛羅」


 でも、


「どうしたのぉ、袈刃音君?」


 だからこそ、こう思わずにはいられなかった。






「――ごめん」


 次の瞬間、袈刃音は手に握ったサバイバルナイフで愛羅の首を頸動脈ごと切り裂いた。










「……………ぇ?」



 愛羅は、返り血に染まった袈刃音をきょとんとした表情で見つめた。


 そして、その血が自分の物であると理解した直後、首の強烈な熱が激痛に変わった。

 だが、彼女は痛みに呻くでもなく、ただ絶望に涙を流した。


「ごめん、噓付いて。俺はが嫌いだ」


 覚悟を、決めたつもりだった。

 後悔はない。

 しかし、藍刃愛羅の表情を見ていると改めて実感してしまう。


「ごめん、殺してしまって。でも、これしか方法がなかった…」


 自分は、人殺しどころか、とんでもない外道に堕ちたのだ。

 数時間前まで忌避し、蔑んですらいた奴等と同類に自らなりに行ったのだから救えない。

 けれど、仕方がなかった。


 合理的な選択よりも、自らの名誉よりも、袈刃音はを優先したかったのだから。


「ごめん、気持ちに応えられなくて。――俺は他の誰でもなく、朝比奈旭が好きなんだ」


 それが全てで、彼の罪の原動力だった。


「…ひ、どい…よぉ……」


『ごめん』と袈刃音が謝ると、藍刃愛羅は崩れるように膝を付いて倒れ――息を引き取った。


「……………………………………ッ!」


 吐きそうだった、いっそ吐いてしまいたかった。人の心をもてあそび、裏切り、挙げ句命を奪って…何も感じなかった訳がなかった。


 だからこそ、その想いごと全て吐いて捨てて楽になるような真似をしたくなかった。


 犯した罪から逃げず、向き合う事が、殺した藍刃愛羅へのせめてもの贖罪だった。

 ゾンビとなった愛羅を再びサバイバルナイフで刺した後、やはりナイフは【ポイント】を消費し手に入れた物らしく、彼女は完全な意味で死んだ。


 強烈な嘔吐感を堪え、堪え、堪えまくって歩いた、歩いた、歩いた、独りになるために……。


 気が付けば、外にいた。


「――袈刃音ッ

 」

 不意に、誰かが後ろから袈刃音を抱き締めた。


「……終わったよ旭、全部……終わったよ。だから、ちょっとだけ、独りにさせてくれ」


 少年の言葉に、しかし、旭はそれを拒むようにして、彼の背中に自分の顔を横に何度も擦り付けた。


「させない…ッ」

「…頼む」

「させないよ、袈刃音。言ったよね?『勝手にしろ』って…。だから、勝手に私を助けて傷付いた袈刃音を、私は勝手に慰めるよ」


 意図せず、涙が込み上げ、少年の頬を流れた。


「……俺しか、藍刃さんに近付けなかったし、隙を作って彼女を殺せなかった。あの方法しか思い付かなかったんだッ」


「知ってる。本当、馬鹿じゃないの……ッ」


 自己嫌悪に狂いそうな心を、旭の言葉と無遠慮な抱擁が急速に癒していく。


「放さないよ。何を言われたって、どれだけ振り払われても……絶対、絶対独りになんてさせない……。『好きだ』って、そう言ってくれた。それで、自分に正直になって良いんだって、…だから、私が側にいてあげるんだ。そう決めたんだッ」


 少年が振り返ると、旭は泣きながらも笑みを浮かべていた。

 それが嬉しくて、恋しくて、この笑顔の為に戦ったのだと思い出して。


 ――袈刃音はそっと、旭の唇に自分の唇を重ねた。


 彼は旭をスッと放した。


 ファーストキスはあっさりと終わり、けれど、

 心は晴れているはずなのに、


 ――なん、だ?


 分からない。だが、のか、と思ってしまったのだ。


 ――それに……。


 何か、少しだが、何か嫌な予感みたいなのを感じる。

 多分気のせいだ、とそういう風に片付けてしまった。


 だって、これ以上何があるというのだろうか?

 周りにはゾンビもいない、人もいない。


 


「霞、雅?え、俺今なんでアイツの事……」


 何故、今思い出したのだろうか。


 繋がりそうなキーワードとが、あと少しで繋がらない。

 しかし、繋がらずとも、先程から感じ続けている直観めいたその感覚は正しかったのだ。


 そして、それを信じなかった事を袈刃音は一生後悔する事となった。


「ん?あさひ……?」


 急に前のめりに倒れた旭の両肩を掴んで支えると、彼女は――口から大量に吐血していた。


「お、おい、旭ッ!旭、旭、一体どうしたんだよ旭!」


 言っても、彼女は何も答えず、何の外傷もなかった。

 意味が分からなかった。

 無理解の時間の中で、旭は赤い命の原液を口の中から流し続けるだけ。

 どうしていいかも分からず、ただ激しい焦燥感に駆られるままに袈刃音は彼女の名を叫ぶ。


「う、嘘だ…。…?そ、そんなッ、何で……」


「……………え?」


 聞こえた声に、その声が聞こえた正面の方を見る。

 そこには、さっきまでは姿がなかった霞雅阿久弥が呆然とした表情で立っていた。


「【ポイント】使って、遠くから、お前を呪い殺そうとしたのに…のに、なのにッ、何でお前が生きてんだよ袈刃音ぇ!!」


「………は?」


 呪い、だと?

「お、おい……」


 そして、自分は死なず、旭が吐血したということは――。


「まて、よ……。まさか、そんなまさか……だよな?」


 震える声を出しながら、袈刃音は旭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

 心臓が機能しているのかの確認の為、恐る恐るその右手を、彼女の左胸の方へと持っていく。

 乳房を押し潰す程に掌を彼女の心臓へ近付け、しかし、感じたのは胸の柔らかい感触だけだった。


 朝比奈旭は――死んでいた。

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