第20話 淫魔と救済 1

 道のど真ん中に、おかしな格好をしたお姉さんがいた。何故だか通り過ぎる気にもなれず、思わず声をかけた。


「……おねーさん、何してるの?」

「っ!?」


 おねーさんは振り向き、俺を見るととても驚いていた。


「た、たたた、タクミさん!?」

「え……どうして俺の名前知ってるの?」

「……」

「おねーさん?」


「(う、うわあああああああ! か、可愛すぎるぅ……! 大人になる前のタクミさん……! こんなにカワイイなんて反則すぎますよ……!)」


「……じゃ、じゃあ俺もう行くから」


 なんだかヤバい人だと思い、俺は今度こそ通り過ぎようとした。


「あ! ま、待ってくださいっ!」

「な、何?」

「え、えっと……今悩みとかないですか?」

「悩み……? 特にないけど」

「な、なんでもいいんです! とにかく困っていることとか、何とかしたいことってないですか!?」

「……ないわけじゃ、ないけど。それ聞いてどうするの?」

「えーと……お、応援します!」

「……」


 話しかけちゃいけない人だったな、そう思い俺は猛スピードで逃げ出した。


「あー! ま、待ってくださぁ〜い!」



 学校に入り、廊下を歩いて行って、6ー2と書かれたプレートがぶら下がっている自分の教室に入った。


「何だったんだあの人……」


 ランドセルから教科書や文具を出し、すぐに絵を描き始める。この時間が一番落ち着く。まだ登校している生徒は少ないし、教室は静かで絵を描くことに集中できる。


 何を描こう、と考える。特に思いつかなかったので、今朝会ったおねーさんを描くことにした。


 自分の記憶を頼りに絵を完成していく。次第に周りの音は聞こえなくなり、自分だけの世界が形成されていく。


「あ、また絵描いてる」


 ゆっくりと顔をあげる。いともたやすく自分の世界を破壊するクラスメート、ミカちゃんだった。


「わ、女の人。やっぱりたくみ君って絵が上手いね」


 キラキラした瞳で絵と俺を交互に見てくる。その様子がとても可愛らしくて、もっと見ていたい、話したいと思う心とは別に、目は自然と逸らしてしまう。


「べ、別に……普通だよ」

「そうかな? でもクラスだと一番うまいって私は思うな。先生も言ってたし!」

「へ、へー、そうなんだ」


 そっけないフリをしているが、内心メチャクチャ嬉しかった。


「いいなぁ。私も絵上手くなりたいなぁ」

「……じゃあ今度」


 勇気を振り絞り、教えてあげようかと言い出そうとしたした時だった。


「おーいミカ。何やってんの?」

「あ、ゆうやくん」


 クラスのムードメーカであるゆうやくんが来てしまった。俺にとってはムードブレイカーだけど。そして、彼の襲来は楽しい時間の終わりを告げていた。


「おーおー、また絵描いてるじゃん。何描いてんの?」

「……別に何でもないよ」

「はぁ? ミカには見せといて俺には見せないのかよ」


 見せたら見せたで文句を言うくせに。この前も見せたら『これ”もしゃ”ってやつだろ、他人の真似事なんか誰にでもできるだろ』なんて言いやがった。じゃあお前が描いてみよろバーカ。


「おい、見せろって」

「……嫌だ」

「ちっ……お前、殴られたいのか?」


 今日に限ってしつこい。まさに天国と地獄。1日にして二つの世界を体験してしまった。


「このっ……!」


 胸ぐらを掴まれ、拳を振り上げられる。殴られる、どうか痛くありませんようにと願って目を閉じた時だった。


「そこまでっ!」


 ミカちゃんが割って入ってくれた。胸ぐらを掴んでいるゆうやくんの手を掴んで、払い除けた。


「なんだよ、ミカ。こいつの味方すんのかよ」

「当たり前だよ。たくみくん、可哀想じゃん」

「はぁ……これだから優等生は……」

「……」


 かっこいいと思った。それ以上に、俺を守ってくれることがとても嬉しくて、彼女から目が離せなくなった。これが初恋だということに気づくまで、時間はかからなかった。


「おい、ゆうや行こーぜ」


 仲間数人を引き連れて、ゆうやくんは離れていった。


「ごめんね、たくみくん。あいつ、乱暴なところがあるから」

「……別に、大丈夫」

「あ、そういえばさっき何か言いかけてた?」

「いや……何でもないよ」


 もっと話していたいが、それ以上に恥ずかしさが勝ってしまう。そして俺は、その気持ちを絵にぶつけることになる。



「……」


 むっかぁ〜〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!


 リリアは教室の外からその様子を見ていた。


「何ですか何ですか。私のいないところで甘い体験をしちゃって……」


 見れば見るほど自分の意志を介さず頬が膨れてくる。


「はっ。いけない……。つい夢中になって見てしまいましたが……やはりここはタクミさんの夢の中みたいですね」


 拓巳が癒されるような夢を見せるところが、タクミの夢に飛び込んでしまったらしい。


「と、とにかくこの夢から脱出しなければいけませんね」


 行動に移そうとした時、視界がグニャリと歪んだ。


「ふぁ!?」


 気づいた時には、学校の風景が変わっていた。先程まで桜が咲いていたのに、今はすっかり緑色の葉だらけになっていた。


「場面、というより時間が変わったんでしょうか……」


 キョロキョロとあたりを見回すと──いた。拓巳を発見した。どうやら女の子と2人で空き教室にいるみたいだ。


「あれ、あの子……」


 ミカちゃんと呼ばれていた子だ。リリアはひっそりと会話に耳を傾けるのだった。



 俺は決心して、ミカちゃんに声をかけた。あれから幾度となく、ミカちゃんはこんな俺に話しかけてくれた。ゆうやくんに絡まれた時は、颯爽と現れて俺を庇ってくれた。


「どうしたの? たくみくん」


 ミカちゃんの俺に対する好意は、間違いないものだと確信できた。随分と時間がかかってしまったけれど、今ここで伝える。


「あ、あの! ミカちゃん! 俺……」

「う、うん」

「えっと……あの……」


 上手く言葉が出てこない。決心したんだろ俺。ここで言わなきゃどうするんだ。


「あ……えっと、ミカちゃん。俺の絵が素敵だって言ってくれたよね。あ、ありがとう」

「え? うん。たくみくんの絵、わたしは好きだよ」


 好き、そう言われて胸の鼓動が早くなる。相変わらず彼女に視線を合わせることができないが、それでも必死に言葉を振り絞る。


「お、俺も……俺も好きなんだ」

「あ、そうなんだ」

「うん。だから、これ描いてみたんだ」


 俺は、今までの努力を彼女に見せることになる。何度も描いては消して、描いては消して。自分の納得がいくまで描き上げた作品を。


「え……なに、これ……私?」


 ミカちゃんの前に広げて見せたのは、ミカちゃんをあらゆる角度から描いたものだった。


 授業を受けているときのミカちゃん。友達と話しているときのミカちゃん。登下校時のミカちゃん。窓の外を見ているミカちゃん。掃除をしているときのミカちゃん。怒っているときのミカちゃん。笑っているときのミカちゃん。


 ミカちゃん。ミカちゃん。ミカちゃん。


 それは俺とって努力の結晶であったが、おそらく彼女にとっては不気味なモノでしかなかっただろう。


「うん……俺、頑張って描いてみたんだ。結構時間かかっちゃったんだけど……ど、どうか──な──」


 勇気を振り絞って、ようやくミカちゃんに視線を合わせることができた。しかし、ミカちゃんは今まで見たことのないような表情をしていた。


 その顔には既視感があった。そう、あれは給食の時ゴキブリが教室に出てきて、教室内が大騒ぎになった時があった。そのゴキブリを見るような目で、ミカちゃんは俺の絵と俺を交互に見ていた。


「……たくみくん」

「うん」

「ごめん、気持ち悪い……!」

「……え?」


 ミカちゃんは俺の描いた絵を床にぶちまけ、目に涙を浮かばせながら教室を出て行った。


「え……? え……?」


 状況が理解できなかった。ただ俺は数分間立ち尽くし、ミカちゃんを泣かせたという事実を段々と実感し、ひどく罪悪感を覚えた。


「……帰ろう」


 広げた絵を集めようとした時だった。


 ガラッ! ぶっきらぼうに教室の扉が開かれた。教室にズカズカと入ってきたのはゆうやくんだ。真っ先にこちらへ向かってくる。


「……なに? 俺今忙しい──」


 次の瞬間、視界が揺れていた。気づけば俺はゆうやくんを見上げる体勢になっていてた。殴られたということに気付いたのは頬がジンジンとしだしてからだった。


「え……」


 衝撃だった。今までちょっかいをかけられたことは数え切れないほどあったが、いきなり現れて殴られたのは初めてだった。


「てめぇ……! ミカを泣かせやがって……!」

「がっ……!」


 胸ぐらを掴まれ、もう一度殴られる。


 なんでゆうやくんが殴りに来たのか。聞きたかった理由は彼の口から話された。


「てめぇ、ミカに気持ち悪い絵見せたらしいじゃねぇか!」

「な……そんなこと……」

「ふざけんじゃねぇぞ!」


 ダメだ。話にならない。いつもならミカちゃんが助けに来てくれるが、今日はその助けは絶対に来ない。


「ゆうやくん……も、もういいから」


 そう思っていたが、ミカちゃんはやってきてくれた。しかし、いつものキラキラとした姿ではなかった。


「ミカ、離れてろ。ごめんな、俺がもっとしっかりしてれば……」

「う、ううん。私も、たくみくんに変な勘違いさせちゃったのが悪いんだよ」

「馬鹿。ミカは悪くねぇよ。悪いのは調子に乗ったこいつなんだから」

「……うん」


 ミカちゃんの頭を優しく撫でるゆうやくん。


 なんなんだこれは。俺は目の前で何を見せられているんだ。どうやら、俺は2人の親密な関係に首を突っ込んでしまったらしい。


「先行ってろ」

「でも……ゆうやくん、大丈夫?」

「心配すんなって。すぐ済むからさ」


 最後まで、ミカちゃんは俺と目を合わすことはなかった。


「おい、さっきので終わりだと思うなよっ!」

「ぐっ……!」


 トドメの一撃と言わんばかりに全力で殴られた。体は教室の床に打ち付けられ、口の中に鉄の味が広がっていく。


「これで終わりだと思うなよ」


 そう言い残して、ゆうやくんは去っていった。


「……」


 数分間、天井を見上げる。そういえば教室の天井をこんなしっかり見る機会なんてなかったな、なんて思ってしまう。


「ぐ……う、うぅ……」


 先程の出来事が頭の中で再生される。自分はなんて惨めなんだろう。良かれと思って描いた絵は気持ち悪いと言われ、嫌いな奴にこれでもかと殴られた。


「……」


 描いた絵を見つめる。こんなものがあったから悪いんだ、捨ててしまおう。そう思ったが、自分の絵を、努力を、どうしても捨てるような真似はできなかった。


「……帰ろう」


 絵をかき集めて、俺は家へと帰った。



 この出来事があった次の週からは地獄の日々だった。まず異変に気づいたのは登校して学校に行くまでの間だった。ヒソヒソとこちらを見ながら話しているのが嫌でもわかった。


「……」


 教室に着くと、机に落書きがされていた。


『キモイ』

『ストーカー野郎』

『不審者』


 先生にバレないようにするためか、席に座ると見えるぐらいの濃さで書かれていた。陰湿だった。


「おはよー」

「おはー」


 ゆうやくんとミカちゃんが同時に入ってきた。ミカちゃんの方は元気がなさそうな様子が一目瞭然だった。


「どうしたのミカちゃん」

「具合悪いの?」


 現に周りの女の子たちがミカちゃんを心配して集まっている。


「おーい、みんな聞いてくれ」


 ゆうやくんは声高らかに言った。


「昨日、ミカのヤツがそこの変態野郎に気持ち悪い絵を見せられたらしい。みんなも気をつけろよー!」


 ざわざわと教室内が一気に騒がしくなる。みんなの視線は俺を向いている。気持ち悪いものを見る目で、俺を見ている。


「ち、ちがっ……!」

「あ!? 違わないだろ!? ミカ泣いてたじゃねーか!」


 そう言うとミカちゃんもまるでタイミングを合わせたように涙ぐんでいた。正義の味方とまで思っていたミカちゃんが、今は悪魔にさえ見えた。


「おーい、朝のホームルーム始めるぞー」


 何事もなく先生はやってきて、出席をとる。これでいつも通りの朝がやってくる、しかし、その考えは甘かった。


「拓巳、ちょっといいか?」


 先生から呼び出された。

 机ひとつに椅子二つの部屋だった。

 まるで刑事ドラマの取調室みたいだった。


 まぁ座りなさい、と言われ椅子に座り、先生が対面に座る。今まで感じたことのない重苦しさを感じた。


「まぁその、なんだ。ちょっと噂になってるんだ、お前のこと」

「……何がですか?」

「……女の子のいやらしい絵を描いてるって本当か?」

「ち、違いますっ!」

「……今朝な、ゆうやとミカが先生のところに来たんだが、2人ともお前に嫌がらせされたって言ってたぞ」

「は……?」


 今まで散々嫌がらせをされたのはどちらかといえば俺の方だ。そんなことにも気づかない無能な教師は続けて言った。


「拓巳、お前、授業中に絵を描いてること多いよな。その時もそういう絵を描いてたのか?」

「か、描いてませんっ! 俺はただ漫画のキャラとか描いてただけで──」

「絵は描いてたんだよな、授業を聞かずに」


 揚げ足取りの教師はもはや言うことを聞いてくれなかった。そこから先はあまり覚えていない。女の子を泣かせるのは男として最低だとか、真面目に授業を受けろだとか、そんなことを言われた気がする。


 教室に戻っても俺の居場所はなかった。教科書やノートが消えるのは日常茶飯事、給食がまともに配膳されなかったりすることもあった。日に日に体と心に怪我を負う毎日だった。


「……何が、いけなかったのかな」


 ボロボロになって帰り道、なぜこんなことになってしまったのか記憶を遡った。思い返されるのはあの日の記憶。ミカちゃんに絵を見せたあの日。


 そして気づけば、その日に戻って、地獄の日々がまた繰り返される。その時にこれは夢なのだと、ようやく気づく。気づいてもまた振り出しに戻って、過去のリプレイ。


 そんな地獄が永遠に繰り返される夢だった。


 起きる時はもう生きていることが苦しいと感じ、身を投げ出そうかと考える寸前の時だ。この悪夢は永遠に続く。


 もう何もかもどうでもいい。


 いっそ、次に目が覚めた時には身を投げ出した方が──。


「いつまで続くんですかこの夢ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


「……え?」


 地獄の中にいたのは、淫魔だった。

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