天に召されること

@hugehuman

寿命

最近、実家に帰省した時に父親から「隣の家の裕二君、この間心不全で亡くなったみたいだよ。」と伝えられた。


この裕二くんという男の子は、私の6つ年下である。

家が隣ということもあり、よく遊んでいるような仲だった。


しかし、私が高校に入学した頃からあまり遊ぶことも無くなり、私は高校を卒業後、他県の大学に入学、卒業した為彼とはそれ以降全く会う事はなかった。


大学を卒業して、2年たった今年、彼の訃報を聞いた。


父親は裕二君のここ数年のことを私に話した。私立の中学、高校に行き、今年は大学受験を控えていてよく勉強をしているそうだった。ご両親にとっても自慢の息子だっただろう。


私は最近の彼のことはほとんど知らない。


ただ、私の記憶によれば彼の心臓が幼い頃からの持病のものではないと推測できる。小学生の頃はよく二人で昆虫採集のために、自分の背丈よりも大きい網を持って走り回っていたからだ。



急性の心不全だったのかは定かではないが、若い命が夢の途中で終わってしまったことには変わりない。



また、そんな息子さんを無くされたご両親のお気持ちは察するにあまりある。


 しいてまだ夢があるとすれば、彼が一人っ子ではなく3歳年下の妹が居ることだろうか。いずれにせよ、若い命が散ることはとても悲しいものである。本人にとっても、周りの人にとっても。



さて、ここで私は寿命について考えてみた。


生きている人の中で、多くの人が望むのが長寿だ。長寿というのは、長く健康で生き続け、その最期を大往生で迎えたいという多くの人の夢であろう。



しかし、これは自分にとっての死は突然訪れるものではないとう思考が根底にあるものだ。


誰も彼もが、"私/僕は、すぐには死なない。ニュースで耳によくするもの。


死というものは雲の上の存在であり、もはや認識を超えた概念のようなものだ"と感じているでは無いだろうか。


いや、むしろ死というものは自分にとって味方であり、いつでも自由に選択出来ると考えているのではないか。


聴きたいラジオの周波数を合わせるように、自分の都合のいいタイミングで合わせられる。


そんな風に捉えているのではないか。


裕二君のような例は全国各地に、それこそ世界中にあるだろう。


私たちが普段送っている日常と呼ばれるものの中にも。よく後悔しないように毎日を送ると言う人がいるが、それは不可能だと私は考える。



こんな理不尽に降り注ぐものに人間が抗うのは不可能だからだ。



 そう考えるとこうして私が語っていることにも意味は無いのかもしれない。

でも、私は語らずにはいられないのだ。

少しでも自分の生きた証拠を残したいと思うのだ。


さっきまで他人の死を感傷的に捉えていたのに。今は自分のエゴと生き汚なさで精一杯なのだ。


やはり、私も他人と同じように”すぐに来るものではない”と思っているのだ。

だから、せめて、ただ、ほんの少しだけでも、自分の考えをここに残しておきたかったのだ。


彼にも私にも、知っていてくれる人がいるのだから。

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